スムート=ホーリーの水門
時:1932年(昭和七年)、6月
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・オーバルオフィス
ハーバート・フーヴァー合衆国大統領は、目の前のソファに座る日本海軍駐米武官、東郷一成少将を、血走った目で睨みつけていた。
「……少将。君は、自分のやっていることの意味が分かっているのか」
フーヴァーの声は、怒りよりも深い疲労に満ちていた。
「君がBISで10億ドルを市場に一斉に投げ売れば、アメリカの金庫は空になり、金融システムは崩壊する。これは合衆国に対する明白な金融テロだぞ」
「テロではありません、大統領」
東郷は穏やかに、だが一歩も引かずに答えた。
「これは『英国からの支援要請』に基づく、正当な通貨防衛です。
我々日本海軍は、ポンド防衛のためにBISを通じて10億ドル相当を売却し、ポンドを購入いたします。……これは、世界経済の安定に不可欠な英国の『金本位制』を守るための、尊い国際協調ですよ?」
東郷は、冷徹な微笑みを浮かべた。
「もし、合衆国政府がこれを望まないのであれば。
公式に『日本は英国支援を停止し、ポンドを見殺しにせよ』と、世界に向けて通告してください。我々はそれに従いましょう」
「…………ッ!!」
フーヴァーは、息を呑んだ。
それは、アメリカに対する「地獄の二択」だった。
もしアメリカが「止めろ」と言えば、イギリスは『アメリカが我々を妨害した』と激怒し、米英関係は修復不可能になる。
だが「止めない」と言えば、10億ドルが投げ売りされ、アメリカの銀行と経済が即死する。
「……君は、我々に死ねと言っているのか」
「いいえ。私は『ポンドを死なせたくない』だけです」
東郷は、コーヒーカップを置いた。
「そして大統領。ポンドが死ねば、ドルが『勝つ』のではありませんよ。
世界中の信用崩壊の請求書を、ドルが一人で背負うことになるのです。……今のアメリカに、その体力がありますか?」
フーヴァーは黙った。ない。絶対にない。
「英国には、『金本位制』という重い鎧を着せたままでいてもらいましょう。
合衆国が、その鎧の重さをすべて引き受ける必要はありません」
東郷の言葉は、技術者であるフーヴァーの「システム的思考」の急所を突いていた。
「……条件を聞こう」
フーヴァーは、ついに降伏を口にした。
「どうすれば、その10億ドルの売りを止める?」
「止めるのではありません。段階的に、市場が吸収できるペースで緩やかに売るのです。……もちろん、貴国が我々との通商関係を安定させる意思を示してくださるなら、ですが」
東郷は、一枚の書類を差し出した。
「『スムート・ホーリー法・第336条(関税弾力条項)』。
大統領の権限で、日本産品の輸出製品の関税評価を再検討し、実質的な引き下げ(最大50%)を行っていただきたい」
「馬鹿な!」
同席していたメロン財務長官が、ついに立ち上がって吠えた。
「ドル売りに屈して、関税を譲歩するなど論外だ! 関税は重要な歳入源だ、例外は認めん!
市場がドルを売るなら売らせればいい、最後には我々の強固な経済が勝つ!」
メロンは、東郷を指差した。
「大統領! こんな脅迫に屈してはなりません! 英国の支援など、アメリカが配慮する義務はない!」
東郷はメロンを一瞥し、そしてフーヴァーに向き直った。
「……だそうです、大統領。では予定通り、BIS預託資産のポンド転換命令を発出いたします。
市場がどのように解釈するかは、私どもの管轄外です」
「待て!!」
フーヴァーが、血を吐くような声で叫んだ。
フーヴァーは、技術者だ。
メロンのように「抽象的な財政規律」を信仰しているのではない。この配管(ドル売り)が開けば、アメリカの銀行と農村がどれほど悲惨な形で破裂するか、その物理的限界を理解していた。
「……メロン。君には、別の任務を与えよう」
フーヴァーは、冷酷な声で財務長官に告げた。
「だ、大統領……?」
「君を、『英国金本位制およびポンド防衛に関する米英財務協議特使』に任命する。
明日、ロンドンへ飛んでくれ。……イギリスとの金融安定交渉は、君に一任する」
「私が、ロンドンへ!? この非常時に、ワシントンを空けろと言うのですか!」
「そうだ。これは大統領命令だ」
それは栄誉ではなかった。
ワシントンからの追放ではない。もっと悪い。
ロンドンで己の信仰した金本位制が、日本海軍のBIS資金によって買い支えられる光景を、最前列で見届けさせる刑だった。
「……承知いたしました」
メロンは屈辱に顔を歪め、オーバルオフィスを後にした。
部屋には、フーヴァーと東郷だけが残された。
「……これで、交渉の邪魔者は消えた。
関税336条の適用を約束しよう。南米からの日本船団による輸入物資(コーヒーや鉱石)も、関税委員会の調査対象から外そう」
フーヴァーは、絞り出すように言った。
「感謝いたします、大統領。安価な日用品や水産缶詰が輸入されれば、アメリカの消費者(失業者)の生活費を下げる効果もあります。貴方の救済政策にも合致しますよ」
東郷は、微笑んで頷いた。
「その代わり、BISのドル売りは数ヶ月に分けて緩やかに行うこと。そして、我々の食肉や工作機械の購入契約は今後も維持すること。さらに、NCPC債のアメリカ国内でのスクリップ化(準備資産化)を、これ以上無秩序に拡大しないことだ」
「承知しました。我々も、アメリカ経済の崩壊は望んでおりませんから」
取引は成立した。
⸻
時:数日後
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・オーバルオフィス
「……ここにサインを、大統領」
ヘンリー・スティムソン国務長官は、血を吐くような思いで一枚の覚書をフーヴァー大統領の机に置いた。
『ポトマック=BIS通商金融了解覚書』
これは条約ではない。「非公式の実務了解(密約)」だ。
【米国側の譲歩】
・日本産品(生糸、水産缶詰、綿織物等)の関税評価を、第336条に基づき再検討し、実務上緩和する。
・NCPC決済を伴う南米・東欧産品の輸入について、不当な差別的関税や第338条(報復措置)を発動しない。
・日本のBISを通じたポンド買い支えを、敵対行為と認定しない。
【日本側の譲歩】
・BIS預託ドル(10億ドル)のポンド転換は、市場に配慮して数ヶ月単位で段階的に実施する。
・アメリカ産肉、綿花、工作機械、石油製品の追加購入を継続する。
・NCPC債裏書のスクリップの事前予定にないアメリカ国内の追加販売は、アメリカ政府の承認を必要とする。
フーヴァーは、震える手でペンを握り、サインをした。
「……東郷は、約束を守るだろうな。10億ドルを一気に市場に投げ売らないと」
「ええ。彼は『三ヶ月から六ヶ月に分けて、BIS、イングランド銀行、ニューヨーク連銀の三者で緩やかに吸収させる』と明言しました」
スティムソンは、忌々しげに言った。
「その見返りとして、我々は『NCPC決済を用いた南米の産品を、第338条の差別的通商行為として認定しない』という保証を与えざるを得なかった」
フーヴァーは、深く息を吐き出した。
「やむを得ん。東郷がドルを投げ売りして市場が過剰反応し金塊の流出が起きれば、我々の金本位制は今日にでも崩壊していた。……私は、アメリカの心臓を守るために、皮膚(関税)を少し切り売りしただけだ」
大統領は、そう自分に言い聞かせるしかなかった。
「……それに、東郷は我々が国内で言い訳できる逃げ道も用意している」
フーヴァーは、覚書の後半を指差した。
「彼らはアメリカから、さらに大量の機械や綿花、肉を買ってくれる。
議会や農民には『日本の輸入関税を下げた代わりに、我々のアメリカ産品を大量に買わせる有利な取引をまとめた』と説明できる。
……スムート・ホーリー法も、名目上は『関税委員会の科学的なコスト調査に基づく技術的修正(第336条)』と言い張れば、建前は通る」
スティムソンは奥歯をギリリと噛み締め、深く息を吐き出した。
「……分かりました、大統領。私も、国を守るためには泥を被る覚悟はあります。だが、海軍は……プラット大将や、あのヴィンソン議員たちは、決して黙ってはいないでしょう。
彼らはアメリカの関税法が、日本の軍艦の装甲板に化けていることに気づくはずです」
⸻
時:同日
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
「……『ポトマック=BIS通商金融了解覚書』、調印確認いたしました」
副官の木梨鷹一大尉は、アメリカ政府からの密使が置いていった書類を確認し、ニヤリと笑った。
「大将。これで、我が国のNCPC決済網のアメリカ国内における『聖域化』は完了です。アメリカの保護貿易が、そのまま我々を守る盾になりましたね」
「ご苦労だった、木梨君」
東郷はコーヒーカップを置き、静かに微笑んだ。
「イギリスにはポンド防衛の恩を売り。
アメリカには『ドル崩壊の回避』という名目で関税の裏口を開けさせた。
……これで我々はしばらくの間、誰にも邪魔されることなく、世界の海で『買い物(インフラ構築)』を続けることができる」
東郷の瞳が、冷徹な光を放った。
「アメリカの消費者は、安い缶詰を選ぶ。小売商は、確実に届く貨物を選ぶ。
銀行は、事故の少ない決済を選ぶ。その選択の結果として、我々の台帳に数字が残る。
……それだけだ」
⸻
時:数週間後
場所:ワシントンD.C. 合衆国議事堂・下院海軍委員会
だが、アメリカの国内がこの「異常な事態」に黙っているはずがなかった。東郷とフーヴァーの密約(覚書)は、議会への正式な諮問を必要としない行政手続きとして処理されたが、その結果もたらされた『市場の歪み』は、すぐに白日の下に晒された。
「……大統領は、議会を愚弄している!!」
下院海軍委員会の重鎮、カール・ヴィンソン議員(のちの大建艦法案の主導者)は、委員長席で怒り狂って机を叩いていた。
彼の目の前には、関税委員会の「第336条特例適用リスト」と、日本の造船所の稼働状況を示すONI(海軍情報局)の極秘レポートが置かれている。
「スムート・ホーリー法は、我々アメリカの産業と労働者を、外国の安い製品から守るための『防壁』だったはずだ!
だが大統領は、その壁に『日本海軍専用の犬の潜り戸』を開けやがった!」
ヴィンソンは、レポートを振りかざした。
「見ろ! 日本と彼らの『NCPC経済圏』の製品だけが、科学的調整などという詭弁で関税を下げられ、我が国の市場を独占しようとしている!
ヨーロッパや中国の製品は締め出されているのに、日本の絹や缶詰だけがノー・パスポートで入ってくるのだぞ!」
議場に詰めかけた議員たちも、どよめきと怒号を上げた。
「大統領は日本に買収されたのか!」
「中西部の農家や東海岸の工場が泣いているんだぞ!」
「問題はそれだけではない!」
ヴィンソンは、さらに声を張り上げた。
「彼ら日本海軍は、アメリカ市場で独占的に稼ぎ出したその莫大な『ドル』をどうしているか?
……軍艦を造っているのだ!!」
ヴィンソンは、日本各地の造船所で建造が進む、新型巡洋艦(利根型)や特型駆逐艦、果ては起工が始まったばかりの新型戦艦(天城)の写真を突きつけた。
「彼らは我々の市場からドルを吸い上げ、それで鉄を買い、溶接機を買い、我々を蹴散らすための最新鋭艦を量産している!
……議員諸君。この異常事態が理解できるか!?
『アメリカの関税法が、日本海軍の建艦資金を保護している』のだぞ!!
我々アメリカ市民の着る絹の服が、食べる蟹の缶詰が……やがて呉の鋼板に変わり、我が国の太平洋艦隊に向けられる大砲の弾になるのだ!!」
ヴィンソンの演説は、アメリカ海軍の恐怖と議会の怒りを見事に代弁していた。
「……覚えておけ、東郷一成」
ヴィンソンは無力感と共に、日本の建艦レポートを握り潰した。
「いつか必ず、我々アメリカの圧倒的な工業力で、貴様のその小賢しい帳簿ごと、太平洋の底に沈めてやる……!!」
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