閑話・良い商い
幕間的な話で、少し時間が前後します。
時:1931年(昭和六年)、冬
場所:横須賀、東郷一成家
「……よし、これで特許庁に提出しようっと」
東郷幸はコタツに入りながら、英語の勉強の傍らで、サラサラと描き上げた図面を満足げに眺めていた。
お父様(東郷一成)は最近、何やらスケールの大きすぎる「お買い物」ばかりして、ワシントンに滞在したままだ。
幸は、そんなお父様に養ってもらっている立場ではあるが、「自分も何か21世紀の知識を使って、ちょっとしたお小遣い稼ぎができないかな」などと密かに考えていたのだ。
(現代知識チートで兵器を開発……なんて、私には無理無理。私、ただの女子高生だったし。
でも、食べ物のアイデアならいけるかも! 駅弁でよくある、紐を引いたらシューッて温まるやつ。あれなら構造も簡単だし、冬場の駅弁屋さんに売り込めば、少しは特許料が入るんじゃない?)
幸の書いた図面は、容器の下部に『生石灰(CaO)』の層と『水袋』を配置し、側面の紐を引くことで水袋が破れ、化学反応(約100度の水蒸気)を発生させて上部の食品を温めるというものだった。
日本には石灰石が豊富にあるし、当時の缶詰技術やゴムの隔壁技術があれば十分に作れるはずだ。
「ふふふ。試作品もバッチリ。ただの水蒸気だし、反応後は消石灰(肥料)になるだけで安全ですよ。少しシューって音と蒸気が出るくらいで。
……これで私も、特許権を持つリッチな小学生ね」
幸は自分のひらめきに、えへへ、とだらしない笑みを浮かべた。
だが、彼女は自分の「苗字(東郷)」が持つ影響力と、この時代が「総力戦」へと向かっているという事実を、少しだけ見くびっていた。
⸻
数週間後。
東郷邸の前に、一台の黒塗りの海軍の公用車が止まった。
応接間に通されたのは、海軍艦政本部の軍服を着た将校と、白衣を着た技術者風の男だった。
「東郷幸殿ですね」
将校が、恭しく敬礼した。
「本日は、貴殿が特許庁に出願された『自己加熱式保温容器』について、海軍糧食研究所より『特別試作協力』をお願いに参りました」
「……えっ」
幸は、出されたお茶を持ったまま固まった。
(え? 海軍? なんで? 私、ただの駅弁のアイデアを出しただけなんですけど……)
「あの……これ、冬場の駅弁とか、ピクニック用の……」
幸が、おずおずと弁明する。
「はい。兵隊も駅で弁当を食べますので」
将校は、大真面目な顔で即答した。
「そ、そうですか……。でも、シューッて音が出ますよ?」
「問題ありません。蒸気と音を抑えるための『減音バルブ機構』の設計案を、我々の研究所で既に付加いたしました。
……お嬢さん、貴女はご自身がどれほど革命的な発明をされたか、分かっておられないようだ」
幸は、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「東郷幸殿。この『自己加熱式保温容器』は、海軍糧食研究所の主導により、直ちに軍の『機密指定技術』として実用化試験に入ります」
「き、機密指定……?」
幸の口から、ヒュッという小さな音が漏れた。
(ふ、ふええ!? 駅弁屋さんに特許料をもらって、ちょっとリッチなお小遣いにしようと思っただけなのに! どうして国家機密になってるの!?)
内心でパニックを起こしながらも、幸の前世の知識と、ある種の女優的な適応力が、必死に顔の筋肉を制御していた。
お父様の顔に泥を塗るわけにはいかない。彼女は、可憐な令嬢の微笑みを顔に貼り付けた。
「あ、あの……。お国のためになるのなら、私としても大変名誉なことですが……。その、これはあくまで民生用というか……」
「ご謙遜を!」
白衣の技術官が、興奮で身を乗り出した。
「石灰と水の反応熱を利用し、かつ毒ガスも水素も出さず、安全に100度の蒸気を得る。しかも使い捨ての容器で!
お嬢さん、貴女は我が海軍が長年抱えていた『潜水艦内の温食問題』をたった一枚の図面で解決されたのです! 潜水艦の密閉空間では、火を使って飯を炊けば酸欠になりますからな!
さらに野戦において、煙(炊事の火)を出さずに温かい飯が食える! 敵に位置を悟られずにですぞ! これはもう、立派な兵器ですよ!」
(お弁当箱が、兵器になっちゃった……!)
「つきましては」と将校が居住まいを正す。
「本特許は海軍が買い上げという形になり、特許使用料は海軍省の『軍事機密費』および『兵站研究費』から、貴女の口座へ直接支払われます。
……初期の試作量産分だけでも、かなりの額になりますぞ」
その言葉を聞いた瞬間、幸の頭の中でチャリン、と現金が弾ける音がした。
(……軍が買い上げてくれるってことは、駅弁屋さんよりはるかに確実で、しかも超大口の『太客』ってことじゃないですか!)
幸の瞳の奥で、計算の光がキラリと輝いた。
彼女には、金が要るのだ。
誰にも文句を言われない「自分の資金」が。
「……承知いたしました」
幸は、少しだけ憂いを帯びた、庇護欲をそそる美少女の顔で静かに頭を下げた。
「お父様が異国で戦っておられる今、娘の私にできることは、せめて兵隊さんたちに温かいご飯を届けることくらいですもの。……よろしくお願いしますね」
将校と技術官は、その健気な姿に胸を打たれ、目を潤ませて帰っていった。
⸻
時:1932年(昭和七年)、春
場所:東京・砧、P.C.L.映画製作所(後の東宝)の控え室
春の光が、薄いカーテン越しに控え室へ差し込んでいた。
撮影所の庭では、若葉を揺らす風が、まだ少しだけ冷たさを残している。冬の名残はすでに遠のき、隅に置かれたストーブも火を落とされたまま、ただの黒い置物のように沈黙していた。
会田まさ江は一人、静かにトルストイの『アンナ・カレーニナ』のペーパーバックに目を落としていた。
海軍の肝煎りで作られた国防映画で子役としてデビューして数年。彼女の容姿は、少女のあどけなさを残しつつも、周囲の大人が思わず息を呑むほどの、凛とした美しさへと劇的な開花を遂げていた。
「まさ江ちゃん、お疲れ様!」
控え室の扉が開き、薄手の春外套を羽織った東郷幸が、温かいお茶と『自熱式弁当』、そして差し入れの入ったバスケットを抱えて入ってきた。
幸は、例の弁当特許を巡る海軍とのゴタゴタのせいで渡米が一旦延期となり、この春からまさ江と同じ女学校に進学していたのだ。アメリカから取り寄せたコンビーフや、栄養満点の海軍給食で育ち、質の高い睡眠を心がけた結果。二人の少女は、当時の日本人離れした手足の長さと、豊かな体格へと劇的な成長を遂げていた。
制服の胸元はすでに窮屈になりつつあり、手足もすらりと長い。
「幸ちゃん。わざわざ来てくれたの? 砧まで大変だったでしょう」
まさ江は、氷が溶けるような美しい微笑みを浮かべ、本を置いた。
「へへっ、面白いお菓子とジュースがいっぱい届いたから、お弁当と一緒にお裾分けにね」
二人が和やかに話していると、廊下から革靴の足音が響き、恰幅の良い映画プロデューサーが、咥えタバコから紫煙を漂わせながら控え室に入ってきた。
「やあ、まさ江君! 今度の新作の話だがね……」
プロデューサーが近づいた瞬間、まさ江の整った柳眉が、ほんのわずかに、だが明確にひそめられた。
「……申し訳ありませんが、プロデューサー」
まさ江は玲瓏な、しかし刃物のように冷たい声で言った。
「その煙草の火を消していただけますか。あるいは、お話を後にしていただくか」
「え? ああ、煙草が嫌いだったか。すまんすまん、最近の若いお嬢さんは神経質でいけない」
男は笑いながら灰皿に煙草を押し付けたが、その服にはまだヤニの匂いがこびりついていた。
「煙草を吸う人が嫌いなのではありません」
まさ江は一切の愛想笑いを浮かべずに、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「ただ、自分の煙草の匂いを、平気で他人の髪や服に預ける……その『無神経さ』が嫌なのです」
「…………っ」
プロデューサーは、少女から放たれたあまりにも鋭く、大人びた威圧感に気圧され、逃げるように控え室を去っていった。
「あーあ。また偉い人を追い返しちゃって」
幸が、クスクスと笑いながらジュースを注ぐ。
「構わないわ」
まさ江は、スッと表情を緩めて受け取った。
「……品行はなおせても、品性はなおらないもの」
その言葉の重みに、幸はハッとした。
かつて横須賀のドブ板通りで、魚用の包丁を握りしめて慣れない手で捌いていた少女。彼女の根底にある「誇り」は、銀幕のスターになっても何一つ変わっていなかった。
「……品性、か」
幸は、窓の外の淡い春霞を見た。
「ねえ、まさ江ちゃん。……お父様(東郷)のことは、どう思う?」
幸の問いに、まさ江も窓の外へ目を向けた。
横浜の空の向こう、遠く太平洋を越えたワシントンの空の下にいるはずの、あの男の姿を思い浮かべる。
「……東郷閣下は、どうかしら」
まさ江の横顔は、少女の憧れというより、静かで深い熱を帯びていた。
「閣下は、決して品行のよい方ではないわ」
まさ江は、クスリと笑った。
「他国の弱みを握り、工場を買い叩き、国と国のあいだにある隙間へ、軍艦の錨を音もなく下ろしてしまう。……欧米や中国の新聞が彼を『悪魔』と書くのも、分からないではないもの」
「そうね。お父様は、悪い人よ」
幸も、うんうんと頷いた。
「けれど」
まさ江は手に持っていたペーパーバックの表紙を、愛おしげになぞった。
「閣下があのドブ板通りで、魚を捌いていた私に学校へ行くためのお金をくださった時。……閣下は、私に一言も『国のために尽くせ』とか『立派な大人になれ』とはおっしゃらなかったわ」
まさ江の瞳の奥で、静かな、しかし決して消えることのない炎が揺れた。
幸は親友の横顔を見つめたまま、黙ってジュースをすすった。
数時間後。
麹町の東郷本邸では、庭の木々がやわらかな新芽をつけていた。
東郷平八郎は、薄い膝掛けをかけたまま、ゆっくりと冷ました茶を啜っていた。
かつて日本海でバルチック艦隊を打ち砕いた男の身体は、すでに老いに侵されている。喉には病の影があり、声は若い頃のようには張らない。それでもその眼だけは、春先の海のように静かに澄んでいた。
「……まさ江さん」
平八郎が、静かに声をかけた。
「ご実家の商い、生糸問屋の調子はどうかね」
まさ江は、座布団からすっと立ち上がり、背筋を伸ばして一礼した。
「おかげさまで、アメリカ向けの出荷が途切れることなく、春の繰り回しもどうにかつきました。父が、海軍さんには、東郷家には大変お世話になったと申しておりました」
それは、ただの挨拶ではない。
まさ江は聡明だった。自分が今、こうして女学校に通い、トルストイを読み、映画の仕事に挑戦できているのは、数年前、実家の生糸商が恐慌で倒産しかけた時、海の向こうにいる東郷一成が、ウォール街で奇妙な紙を動かし、日本の生糸をアメリカへ流す道を作ったからだと理解していた。
平八郎は、小さく笑った。
「あれは、そういう話を恩とは言わん」
「……では、何と?」
「商いじゃ、と言うだろうな」
平八郎は、膝の上の手を軽く重ねた。
「品質のよいものを、必要とする者へ届けた。それだけのことだ、と。あやつは、そういう言い方をする」
まさ江は少しだけ目を伏せ、それから静かに微笑んだ。
「では、良い商いだったのですね」
その返しに、平八郎の目がわずかに細くなった。
恩を認めながら、へりくだりすぎない。受けたものを理解しながら、自分の足で立とうとする。その芯の強さが、この少女にはある。
「……なるほど」
平八郎は、誰にともなく呟いた。
「一成が気にかけるわけじゃ」
「むぅ」
幸が、少しだけ唇を尖らせた。
「お爺様まで、まさ江ちゃんを褒めるんですから」
だが、まさ江が「幸ちゃん、この単語の訳、合っているかしら?」と優しく手を握ってくると、幸の機嫌は一瞬で直ってしまった。
その様子を見て、平八郎は喉の奥で低く笑った。声はかすれていたが、その笑いにはまだ海軍元帥の余裕があった。
平八郎は、傍らの文箱から二通の封筒を取り出した。
「儂は、ドイツへ行く」
幸とまさ江は、同時に声を上げた。
「ええっ!?」
平八郎は、淡々と続けた。
「一成が手配したドイツの薬と医師団の件じゃ。喉の病と結石の処置について、ベルリンで診てもらうことになった。なかなか強引に招いてきおった」
それは史実であれば死へ向かうはずだった老元帥の運命に、東郷一成が金と化学と外交で楔を打ち込んだということだった。
「儂一人で病院に入っても退屈でな。幸、お前が付き添え」
「もちろんです! お爺様のためなら!」
幸は力強く頷いた。
平八郎は、もう一通の封筒をまさ江へ差し出した。
「そして、まさ江さん。これは海軍からだ」
「私に、ですか?」
「ドイツのUFA映画社から、日独合作映画の主演の話が来ている。監督はアーノルド・ファンク。撮影が終わった後は、幸と共にワシントンへ渡り、アメリカを見てから帰国してもよい、とある」
まさ江は、息を呑んだ。
ドイツでの映画主演。そしてアメリカへの旅。
神奈川で育ち、海に憧れた少女にとって、それはあまりにも広い世界への切符だった。
「……よろしいのでしょうか。私のような未熟な娘が」
「あやつは、人を道具に使う。だが、道具としては扱わん。そこが厄介な男じゃ」
「お爺様、それ褒めてます?」
幸が頬を膨らませる。
「褒めておる」
平八郎は、平然と言った。
「だから、お前たちも気をつけよ。一成の娘と、その友人がただの飾りで済むはずがない」
「もう! お父様もお爺様も、私たちを外交の道具に使う気ですね!」
「嫌か」
「嫌じゃないですけど。ギャラは弾んでくださいね!」
まさ江はそのやり取りを見て、思わず笑った。
彼女は、もう迷わなかった。
「……謹んで、お受けいたします。東郷元帥閣下」
平八郎は、満足げに頷いた。
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