数字の暴力
時:1932年(昭和七年)、初夏
場所:ワシントンD.C. ドイツ大使館・大使執務室
執務室には、バッハの静かなレコードが流れていた。
駐米ドイツ大使プリットヴィッツは疲労の滲む顔で、ゲストである日本海軍の東郷一成少将に最高級のブランデーを勧めた。
「……おや、今日は副官の方(樋端や小百合)はご一緒ではないのですね、東郷少将」
プリットヴィッツは、流暢な英語で静かに微笑んだ。
「ええ。今日は、極めて個人的かつ『哲学的な』お話をさせていただこうと思いまして」
東郷は、ブランデーのグラスを軽く掲げた。
「哲学、ですか」
「はい。私は、大使の信念を高く評価しております」
東郷は、真っ直ぐにプリットヴィッツの目を見た。
「貴方は、亡きシュトレーゼマン外相の国際協調の理念を信じ、大恐慌下のアメリカで、必死に祖国ドイツのための借款と投資を求めて奔走しておられる。
……祖国が、極端なポピュリストたちの手に落ちるのを防ぐために」
プリットヴィッツの顔から、営業用の微笑みがスッと消えた。
「……私は共和政の外交官です。祖国の平和と民主主義を守るのは、当然の義務です。
かつて私はローマで、ムッソリーニの黒シャツ隊が街を制圧するのを見ました。あのような暴力を、我がドイツの美しい街路で起こさせるわけにはいきません」
「ですが、現実のワシントンは貴方に冷たい」
東郷は、容赦なく事実を突きつけた。
「アメリカの銀行は、ヨーロッパの金融危機に際して資金を引き揚げた。
……このままではドイツの重工業は完全に停止し、数百万人の労働者が路頭に迷う。
飢えた労働者はやがてナチスの集会に足を運び、『ベルサイユ条約を破棄し、戦争で仕事を取り戻せ』と叫ぶお方に熱狂するでしょう。……違いますか?」
プリットヴィッツは、グラスを強く握りしめた。
東郷の言う通りだ。民主主義を維持するには、パンが必要なのだ。だが、そのパンを買う金が今のドイツにはない。
「……少将。他国の不幸を分析するために、わざわざ足を運ばれたわけではないでしょう」
大使の声に、微かな怒りが混じった。
「もちろんです」
東郷は懐から分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「私は、貴国の労働者に『パン』を。……いや、今後10年間は飢えることのない『巨大な厨房』を提供しに参りました」
プリットヴィッツは、封筒の中身を取り出した。
そしてその発注書の数字を見て、文字通り息を呑んだ。
『用途:満州・南米開発用・重牽引トラクター』
『発注数:10,000両』
『総額:12億ライヒスマルク(約3億米ドル、約6億円)』
「なっ……じゅ、12億マルク……!?」
大使は、震える手で書類をめくった。
東郷は、デスクの上に置いた『円債』の見本証書を指で弾いた。
「CA銀行が破綻した今、ヨーロッパ中の投資家がパニックになり、我々の『円債』を買い漁っています。
我が国が発行したこの『欧州貿易安定円債』は、今や欧州で最も安全な資産です。
……前払い金として、BISの口座に2億マルク相当の円建て信用状(L/C)を用意してあります」
「円債で、払う……?」
プリットヴィッツは息を呑んだ。
「そうです」
東郷は、冷酷な事実を突きつけた。
「貴国の重工業界がこの発注を受け入れれば、彼らの手元には『安全資産(円債)』が莫大に転がり込む。それを使って、彼らは原料を輸入し、労働者に給料を払い、倒産を免れることができる」
だが、プリットヴィッツは軍務経験のある鋭敏な外交官だった。
彼は発注書の『トラクターのスペック』に目を落とし、すぐにその“異常性”に気づいた。
「……少将。このトラクター、重量が30トンを超え、前面に30ミリの防護鋼板がある。特に、貴国の指定したサスペンションのトーションバー技術と、マイバッハの大出力V12エンジンの統合。
……これは、大砲を載せればそのまま『重戦車』になる車台ですね?」
東郷は、微笑んだまま答えなかった。
「日本海軍は……我が国の工場を使って、未来の戦争のための『兵器の土台』を量産させるおつもりか!
それは、ヴェルサイユ条約の精神を根底から踏みにじる行為だ! もし我が国の軍部がこれを見れば、間違いなくこれを軍事転用し、再軍備の起爆剤にするぞ!」
プリットヴィッツは立ち上がった。
「私は平和を望んでいるのだ! ドイツに戦車を造らせるような真似は……」
「大使」
東郷の冷徹な声が、大使の抗議を切り裂いた。
「よく契約書をお読みなさい。我々は、ドイツの工場で完成品を作らせる。
……そしてその完成品は1両残らず、すべて『日本および南米・満州』へと持ち出します。ドイツの土の上には、一両たりとも残しません」
「……何?」
「我々が買うのは『機械と労働力』です。
ドイツの労働者は、我々の金で最新の工作機械を回し、我々のために最高の部品を作る。
だが、その部品が組み合わさった『結果(兵器)』は、全て日本が持って帰る。
……つまり、ドイツの軍部やナチスが再軍備を叫んで工場を使おうとした時。その工場のラインは向こう5年間、完全に『日本海軍の注文』で埋まっている状態になるのです」
プリットヴィッツの脳天を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。
「お分かりですか、大使。
私は、ドイツに戦車を与えようとしているのではない。
ドイツから『戦車を作るための時間と生産枠』を、合法的に買い占めようとしているのです」
大使は、その場にへたり込みたくなった。
東郷の言う通りだ。
この契約を結べば、ドイツの失業者は救われる。ナチスの台頭を一時的にせよ防ぐことができる。
だがその代償として、ドイツの重工業の魂(最新技術と生産力)は、完全に日本に吸い上げられ、日本の軍事力の一部として組み込まれてしまう。
「私は、軍人です」
東郷は、ブランデーのグラスを空にした。
「ですが、私も非合理な暴力が世界の市場を壊すことを望まない。貴方は、ファシズムがヨーロッパを焼き尽くす悪夢を恐れている。
……ならば、互いの利害は一致しているはずです。
ドイツの民主主義(命)を救うために、我々に『毒(軍事技術)』を預けなさい」
長い、長い沈黙が続いた。
プリットヴィッツは、壁に掛けられた祖国の国旗を見つめ、そして、自分の無力さに打ちひしがれた。
高潔な理想だけでは、もう国は救えない。
「……だが、現在のドイツ全土の自動車・トラクター産業を総動員しても、これほどの鉄の塊を短期間で量産した経験などありませんぞ。これほどの重装甲で、複雑なサスペンションを持った車両を、1両3万ドルで作れと?
我々の工場の職人による手作りでは、絶対にコストが合いません!」
「ですから、量産ラインを構築するための大型プレス機や専用ホブ盤の導入費用も、我々が全額『リース』の形で負担します。
それに貴国の工場の稼働率は、現在35%まで落ち込んでいると伺っております」
東郷は、一枚のレイアウト図を取り出した。
「アメリカ式の大量生産方式を、クルップ社とダナート銀行傘下のすべての重工業メーカーに導入していただきます。……結果として、1両あたりの単価は急落する。
フリック・コンツェルンが特殊鋼を叩き出し、ライネッカーの機械で歯車を削り、ユンカースやMANの工場でエンジンを量産し……それをベルトコンベアに乗せて、クルップの工場で一気に組み立てる。
……1万両という『究極のスケールメリット』があれば、この単価で十分に利益が出ます。違いますか?」
プリットヴィッツは、契約書の付帯条項にも言葉を失った。
「『予備マイバッハ・エンジン2,000基』。『ZF製・超重荷重用トランスミッションの予備3,000基』。
『履帯および転輪の予備3万組』。『整備教育用・完全分解カットモデル車両100セット』。
さらには『日本国内におけるライセンス生産用の治具、金型、工作機械一式の輸出権』と、『日本人技師500名の工場内研修受け入れ義務』……?」
東郷は、口元をわずかに歪めて笑った。
「車だけ買っても、部品がなければただの鉄クズですからね。
我々は『車』を買うのではありません。『これを維持・量産する制度』ごと買わせていただくのです」
「……ベルリンのヒンデンブルク大統領とシャハト総裁に、電報を打ちます。
『日本からの大規模な民需インフラ発注あり。至急、受け入れの準備をされたし』……と」
「賢明なご判断です、大使」
東郷は恭しく一礼し、部屋を後にした。
1932年。
東郷一成の放った「円債」という弾丸は、ドイツの重工業界を完全に叩き起こした。
彼らは日本海軍の下請けとして昼夜を問わず鉄を溶かし、機械を回し始めた。
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場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
一方、その巨大な小切手を切った国の首都では、高橋是清大蔵大臣が、為替相場のボードを見ながらキセルを吹かしていた。
「……1ドル=1円80銭、か」
是清は、満足げに呟いた。
欧州からの逃避資金(円買い)を特別債で吸収したとはいえ、円高の圧力はジワジワと効いている。1ドル=2円だった相場が、1.8円まで上昇していた。
「大臣。輸出産業(生糸・綿布)からの悲鳴が上がり始めております」
大蔵次官が渋い顔で報告する。
「分かっておる。だが、泣くのは少し待てと言え」
是清は、陸海軍から提出された『外貨建て兵器・機械調達リスト』をバンと叩いた。
「いいか。1ドル=2円の時に3億ドルの買い物をすれば、6億円だ。
だが今、1ドル=1.8円の円高の状態で買えば、5億4,000万円で済む。
……たった数ヶ月で、為替差益だけで『6,000万円』が浮いたのだぞ!」
6,000万円。当時の駆逐艦が10隻以上造れる金額だ。
「輸出が苦しいのは事実だ。だが、この『円高のボーナスタイム』に、海外の最新鋭の工作機械、特許、技術者を限界まで買い漁れ!
浮いた6,000万円は、国内の三菱、川崎、瓦斯電などの民間工場にばら撒き、技師を海外に派遣させろ!世界中の『頭脳』と『機械』を安値で買い叩け!」
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場所:東京・市ヶ谷、陸軍省・第一会議室
一方日本の陸軍省では、ドイツからの「1万両の車台(およびノックダウン部品)」の配分を巡って、かつてないほどの激しい――しかし、極めて前向きな――縄張り争いが勃発していた。
「……いいか! この30トン車台は、我が砲兵部隊の『自走砲』と『重砲の牽引車』として最優先で配備されるべきだ!」
砲兵監部の将官が、バンと机を叩いた。
「馬鹿を言え!」
歩兵監部の将校が立ち上がる。
「ヨーロッパの57mm平射砲と81mm迫撃砲を全大隊に配備するのだぞ! その弾薬を最前線に運ぶための『装甲弾薬車』がなければ、大砲はただの鉄クズになる! 車台は歩兵の兵站用によこせ!」
「お前ら、分かっているのか! この悪路でも走れる強靭な車台は、架橋戦車や重工作車として我々工兵が使ってこそ真価を発揮するのだ!」
工兵監部が怒鳴る。
「ならば、それに砲塔を載せて『本物の重戦車』にするのが筋だろうが! 戦車隊を差し置いて何を言うか!」
戦車兵の代表が吠える。
さらに部屋の隅で腕を組んでいた輜重科のトップが、冷ややかな声で全員を斬り捨てた。
「……貴様ら、全員素人か。
車を動かすにはガソリンと整備兵が要る。1万両の車台を動かすための燃料タンク車と、重回収車、そして野戦修理廠の展開が最優先だ。整備教育なしに配備して、泥の中で放置する気か!」
歩兵、砲兵、工兵、戦車、輜重。
今まで「少ない予算と貧弱な兵器」を巡って、互いに足を引っ張り合っていた陸軍の各兵科が。
今は「1万両の高性能な共通車台」という圧倒的なリソースを目の前にして、「いかにして自分たちの部隊を近代化するか」という、極めて健全で、血の気の多いドクトリン闘争を繰り広げているのだ。
その光景を会議室の奥で見ていた永田鉄山と石原莞爾は、思わず笑いをこらえていた。
「……見ろ、永田さん。連中、まるでオモチャ屋に放り込まれた子供だ。
少し前まで『精神力で突撃しろ』と言っていたジジイどもが、今は『弾薬車と架橋車をよこせ』と叫んでいる」
「ああ」
永田は、満足げに頷いた。
「全員が少しずつ得をする。だから誰も、この巨大な機械化計画を止めようとはしない。
……どうなるかと思ったが、この『1万両』という数字の暴力は陸軍の古い脳髄を完全に破壊してくれたよ」
そこへ、海軍からの連絡将校が書類を持って入ってきた。
「永田閣下。海軍陸戦隊の要求分です。
『上海や南洋での港湾攻略・市街戦用に、防水処理を施した車台を2,000両確保されたし』……とのことです」
「……あの海賊(海軍)どもめ。自分たちが出資したからと、ちゃっかり一番美味しいところを持っていきおって」
永田は苦笑したが、その顔に怒りはなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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