共通車台
時:1932年(昭和七年)、初夏
場所:東京・三宅坂、陸軍参謀本部
窓を開け放っても、初夏の湿った熱気は一向に引く気配がなかった。
だが、参謀本部の第二部長に昇進した永田鉄山少将の執務室に持ち込まれた熱量は、それ以上だった。
「……東郷の奴、またアメリカのゴミ捨て場を漁ってきたのか」
永田は、書類を読みながら眉間を揉んだ。
『米国陸軍工廠保管品:9.45インチ(240mm)トレンチ・モーター、弾薬10万発付き。
名目:満州・南米開拓用、岩盤発破用特殊機材』
「フランスの240mm重迫撃砲だけでは飽き足らず、『農業用サイロの基礎パイプ』などという名目でアメリカのコピー品まで……。合わせれば、ざっと600門近い。これほどの重砲、どうやって運用するつもりだ」
「ですが、問題が発生しました」
参謀本部総務部長、梅津美治郎少将が青焼きの図面を広げた。
先日、石原莞爾がワシントンで「リバティ戦車に載せる」と東郷に豪語していた、自走重迫撃砲の構想図だ。
「陸軍の技術審査部の連中が、細かい計算をしましてね。
結論から言うと、アメリカから海軍が買った100両のリバティ重戦車では、この『空飛ぶ豚(240mm砲弾)』を連射するには少々……いや、かなり難がある、と」
「……どういうことです」
「足回りです」
梅津は、リバティ戦車の履帯部分をペンで叩いた。
「あの戦車には、サスペンションがありません。鉄の車体に、転輪が直付けされている。
そこに70キロの砲弾を撃ち出す強烈な反動が加われば、車体のフレームが歪み、履帯が吹き飛びます。
対策として、車体後部に巨大な『駐鋤』をつけ、撃つ前に地面に突き刺して固定する機構を考案しましたが……それでは自走砲というより『移動に手間のかかる砲台』に過ぎません」
「使えないではありませんか」永田が不快げに言う。
「いいえ、リバティの100両は、固定陣地への配置や、市街地の交差点を制圧する『移動トーチカ』としては最高です。上海の件で証明された通りです。
……ですが、問題は『数』です」
梅津は、図面の横に数式を書き出した。
「600門の重迫撃砲を、最前線に追従する『攻城兵器』として本格運用する場合。30トン級共通車台の積載量を12トンとした場合、積載スペースの都合上、車内に積める砲弾は十数発が限界だ。撃ち尽くせばただの鉄の箱になる。
自走重迫撃砲が1日に行う制圧射撃の弾薬を前線に届けるには……砲1門につき、最低でも『2両から3両』の弾薬車が直接随伴しなければならない。
それだけでなく、泥にハマった時の回収車。燃料車。
……1門あたり、最低でも4両の同じ足回りを持った車台が必要になります。
つまり、240mm重迫撃砲部隊を編成するには、最低でも2,400両から3,000両の重装軌車台が必要なのです。100両のリバティでは、桁が足りません」
永田は、事も無げに出された「3,000両」という数字に息を呑んだ。
当時の日本陸軍の常識では、戦車を30両揃えるだけでも予算審議で血を見る騒ぎになるのだ。
「3,000両ですと? 日本の国内工廠で、そんな数を製造する設備も鉄もないぞ。
ましてや、大排気量のエンジンなど……」
「だから、石原曰く外で造らせるのです」
梅津は、カバンから別の書類を取り出した。
それはドイツから調達した、ある企業のカタログだった。
「クルップ、ハノマーグ、ラインメタル……。
ドイツの重工業メーカーです。
彼らは今、ヴェルサイユ条約で戦車の開発を禁じられ、表向きは『農業用トラクター(グローストラクトア)』という名目で、細々と履帯車両の研究を続けています。
……彼らに、注文を出すのです」
梅津の目が、光を放った。
「『日本海軍・外郭団体からの大型商談。南米および満州の荒野を開拓するための、新型の重牽引トラクター車台、初期発注3,000両』。
仕様は、400馬力級の強力なエンジン、広幅履帯、泥濘地を走破できる最新のサスペンション機構、そして前面には『落石から運転手を守るための分厚い鋼板』を要求します」
「……条約違反の戦車の車台を、農業用トラクターとして発注するのか」
永田は、半分呆れ果てて言葉を失った。
「トラクターですよ、永田君」
梅津は、悪びれずに笑った。
「我々が持ち込む240mm砲の射程は、わずか600メートルから2キロ。敵の歩兵の目の前です。
これは後方の野砲ではない。最前線で、敵の地下壕やビル、強固なトーチカの鼻先に近づき、至近距離から粉砕するための『戦場の土木機械』です。
だからこそ、装甲と履帯が必要なのです。……ドイツの職人たちも、腕が鳴るでしょう」
永田は、深々と溜息をついた。
「……ドイツの戦車産業を丸ごと『日本軍の下請け工場』として養う気か。
……フランスが見たら、卒倒するぞ」
「フランスは、すでに銀行関連の問題で首が回っていません。それに、表向きはあくまで『平和的な開拓機材』です。
……イギリスやアメリカの諜報員が怪しんで調査しても、我々が本当にそのトラクターで『南米の鉱山開発』や『満州の運河掘り』をやっているのを見れば、納得せざるを得ませんよ。……ついでに、大砲を乗せるアタッチメントが付いているだけですから」
梅津は、図面を指先で弾いた。
「弾薬運搬型、回収型、架橋型……。
すべて同じ車台、同じエンジンで作らせる。これで補給と整備の問題は完全にクリアされます。
……永田君。これこそが、来るべき総力戦における『真の機械化』です」
永田鉄山は、目を閉じた。
もはや、大砲を一門ずつ職人が手作りする時代は終わった。
東郷たちがやろうとしているのは、巨大な資本と国際分業を使った「戦争マシーンの大量生産」だ。
永田は、ゆっくりと目を開けた。
「……梅津さん。これは、戦車ではありませんな」
「ええ。少なくとも書類上は」
「そういう意味ではない」
永田は、机の上に広げられた図面を指で押さえた。
「いままで我が陸軍は、砲を買えば砲兵が強くなると思っていた。戦車を買えば戦車隊ができると思っていた。トラックを買えば補給が近代化すると考えていた」
永田は、苦々しげに笑った。
「だが、違う。砲だけでは動かない。弾だけでは届かない。戦車だけでは進めない。壊れた車両を回収できなければ、前進した部隊はその場で死ぬ。橋を架けられなければ、火力は川の手前で止まる」
彼は黒板に、太い字で書いた。
共通車台。
「……石原の馬鹿は、ついにここまで見たか」
「馬鹿ではありませんよ。危険なだけです」
梅津が淡々と答える。
「もっと悪い。危険な男が、正しいことを言っている」
永田は、青焼きの図面を睨んだ。
その時、廊下の向こうから軍靴の音が近づいてきた。
扉が開き、参謀本部総務部課長に赴任した東條英機大佐が入ってきた。手には、計算用紙と補給表の束が握られている。額には汗が滲み、目だけが異様に冴えていた。
「失礼します」
「東條。貴様もこの件か」
東條は一礼し、机の上に補給表を置いた。彼の顔面は蒼白を通り越し、土気色になっていた。
「カミソリ」と渾名される彼の実務的かつ官僚的な脳髄が、目の前の紙に書かれた数字を処理しきれずに悲鳴を上げているのだ。
「結論から申し上げます。3,000両では足りません」
永田は、椅子の背にもたれた。
「……またか」
東條は、渡米前の石原と交わした会話を思い出していた。
⸻
「……計算が間違っているのか?」
東條は、何度目かの検算をやり直した。だが、答えは同じだった。
「57mm平射砲、1門につき一日200発の消費。
81mm迫撃砲、1門につき一日150発。
これに各種重砲や機関銃の弾薬を加え、一個師団で計算すると……一日あたりに消費される弾薬と必要な車両数が跳ね上がる!」
史実において、日本陸軍の師団が一日で消費する弾薬量は、極めて少なく見積もられていた。馬と人力で運べる量には物理的な限界があったからだ。
だが、石原が立案したこの「新ドクトリン」は、欧米列強並みの猛烈な火力投射を前提としている。
バキッ。
東條の指の力で、愛用の鉛筆がへし折れた。
「足りん……!」
東條は、頭を抱えた。
当時の日本の貧弱な自動車産業をすべて束ねて、24時間フル稼働させても、何年もかかる途方もない数字だ。
そこへ夜食のうどんをすすった後の、石原莞爾がふらりと入ってきた。
「……どうしました、東條大佐。幽霊でも見たような顔をして」
石原は、ニヤニヤと笑いながら東條の机を覗き込んだ。
「石原!! 貴様、この火力編成案がどういう意味か分かって書いたのか!!」
東條は、血走った目で立ち上がった。
「弾薬と車両の数が狂っている! 我が国の工業力と予算で、これほどの兵站を維持できるわけがない! 兵を歩かせるか、大砲の数を減らすしかないぞ!」
だが石原は冷笑した。
「今更思い出したのか、東條『上等兵』」
「……なっ!」
東條の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
「火力戦とは、そういうものだ」
石原は東條の顔に顔を近づけ、低い声で言った。
「敵を精神論や銃剣で突き崩す時代は終わった。鉄と火薬の雨を降らせて、敵の陣地を物理的に『整地』する。それが近代戦だ。
そのための弾薬とトラックを揃えるのが、お前たちの仕事だろうが」
「貴様……!」
東條の拳が机を叩いた。
補給表の束が跳ね、床に数枚の計算紙が散った。
「口で言うのは簡単だ! 鉄と火薬の雨だと? その鉄は誰が作る。火薬は誰が詰める。砲弾は誰が運ぶ。燃料は誰が届ける。泥で止まった車は誰が引きずり出す!」
東條の声は、怒号というより悲鳴に近かった。
「一個師団が一日で数百トンの弾薬を食う。そんなものを泥道で動かすには、車両だけでは足りん。整備兵、予備部品、燃料、橋、道路、集積所、通信、誘導、全部必要になる。
貴様の言う火力戦とは、兵士を砲弾に置き換えるだけではない。師団そのものを巨大な機械に作り替えるということだ!」
石原は、初めて少しだけ笑みを薄めた。
「分かっているではないか」
東條は、折れた鉛筆を床に投げ捨てた。
「我が国にそんな余裕はない。陸軍の予算でやれば、砲兵も歩兵も騎兵も全部敵に回る。馬匹業者も、輜重関係も、各師団の古参将校も黙っておらん。
ましてや、海軍の金で車台を買うなど……陸軍の面子が丸潰れだ」
「面子で戦車は動かん。燃料で動く」
石原は、補給表を東條の前に戻した。
「東條、この表は陸軍の予算要求ではない。日本帝国が、世界恐慌そのものを兵站に変換できるかどうかの試験問題だ」
東條は、石原を睨んだ。
「貴様はいつも、言葉だけは大きい」
「だが数字は、お前が出した」
「……」
東條は反論できなかった。
数式は嘘をつかない。
57mm機動砲を本当に使うなら、弾薬車が要る。
81mm迫撃砲を本当に使うなら、弾薬集積所が要る。
240mm自走迫撃砲を本当に前へ出すなら、回収車と燃料車が要る。
重砲を泥濘地で動かすなら、架橋車と工兵車が要る。
そしてそれらを別々の車台で作れば、整備と補給は地獄になる。
ならば、車台を統一するしかない。
東條の実務官僚としての脳は、石原の思想を憎みながらも、その結論を拒めなかった。
「……10,000両だ」
東條は、掠れた声で言った。
石原の目が細くなる。
「何?」
「3,000両では足りん。6,000両でも足りない。
240mm重迫撃砲だけならまだしも、57mm砲と81mm迫撃砲、十加、燃料、回収、架橋、教育、予備を含めるなら……最低でも10,000両の共通車台が必要になる」
石原は、しばらく東條を見つめた。
やがて、満足げに笑った。
「ようやく、上等兵が参謀になったな」
「もう一度その呼び方をしたら、殴る」
「好きにしろ。だが、その数字を永田少将に持っていけ」
東條は、補給表を乱暴にまとめた。
「ああ、持っていくとも。
私一人でこの狂気を説明したら、私が狂人だと思われるだろうがな」
「心配するな」
石原は、うどんの汁で少し濡れた口元を拭いながら言った。
「永田少将は、狂人と参謀の区別くらいつく」
「貴様はどちらだ」
「戦争の前では、どちらも同じだ」
東條は、心底嫌そうな顔をした。
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