通貨による技術徴用
時:1932年(昭和七年)、初夏
場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
高橋是清は、ロンドン市場から届いた円債の反応に関する報告書を読みながら、腹の底から愉快そうに笑っていた。
「ふぉっふぉっふぉ! イギリスのノーマンも、今頃顔を真っ赤にしているだろうな」
向かいに座る新海軍軍務局長の豊田貞次郎も、コーヒーカップを片手に苦笑した。
「ええ。我々が彼らの『庭』で円を流通させているのですから、はらわたが煮えくり返っているでしょう。
ですが、今の彼らは文句を言えません」
「当然だ」是清はキセルを叩いた。
「『ポンドが危ないからといって、便利な円を使うな』と泣きつくのか、という話だからな。それはただの敗北宣言だ」
是清は、机の上のグラフを指差した。
「……だが、豊田よ。この『オフショア円債』は、強力すぎる諸刃の剣だぞ」
是清の目は、金融屋としての冷徹な光を放っていた。
「外貨の流入を堰き止めたとはいえ、彼らが持っているのは『円で償還される権利』だ。
数年後、この円債が満期を迎えた時……彼らが『円を売って金塊をよこせ』と言い出せば、今度こそ強烈な円高圧力が爆発する」
「半分門外漢の私にも分かっています、大臣」
豊田は、静かに頷いた。
「だからこそ、彼らに『円を手放したくない理由』……いや、『円を稼ぐ理由』を強制的に作らせよう、と軍令部から声が上がっておりましてな」
豊田は、一枚のリストを提示した。
【対日輸出優先品目リスト】
「彼らは今、手元の『円』を使って、南米など日本海軍が得た世界の権益から資源を買っています。
だが、その円はいつか底をつく。……ならば、どうやって円を補充するか?
我々(日本)にモノを売って、円を稼ぐしかありません」
豊田は、官吏の目線で言った。
「彼らに、日本の軍艦や飛行機、大砲を作るための『機械』と『技術』を売らせるのです。
……彼らは、自分たちの持っている円債の価値を守るために、必死になって日本の軍事力を強化する手伝いをしてくれるでしょう。
海軍省はこれを、『通貨による技術徴用』と呼んでいます」
是清は目を見開いた後、再び大声で笑い出した。
「ハッハッハ! 恐ろしいな、海軍は!
借金を背負わせた相手に、『借金を返してほしければ、俺のために働け』と鞭を打つのか!
これでは欧州の工場は、すべて日本帝国の下請けではないか!」
「下請け、とまでは言えませんよ。実は、陸軍も熱心でして」
豊田は、半分照れたように言った。
是清は笑いを収め、ワシントンの方角に向け深く息を吐き出した。
「……一成。お前の父親(平八郎)は、大砲でバルチック艦隊を海に沈めた。
だがお前は大砲を一発も撃たずに、ヨーロッパ全土を『帳簿の底』に沈めてしまったな」
⸻
時:1932年(昭和七年)
場所:オーストリア・ウィーン郊外、ベーラー(Böhler)社試験場
どんよりとした曇り空の下、アルプスの冷たい風が吹き下ろす試験場で、鋭い発射音が連続して響き渡っていた。
目標の装甲板(45mm厚)が、次々と真っ二つに叩き割られていく。
「……ワンダフル。我々の『47mm歩兵砲』が、ここまで化けるとは」
ベーラー社の主任技師は、試射を終えた真新しい砲を撫でながら、感嘆の息を漏らした。
その傍らでストップウォッチを握っていたのは、日本陸軍の兵器開発エリートと、海軍陸戦隊の士官たちだった。彼らは「合同調達委員会」という、今まででは考えられない名目でこの地に派遣されていた。
「口径を47mmから57mmに拡大したことで、威力は倍増しました」
陸軍技師が、満足げに手元のデータを書き込む。
「初速850m/秒。これなら、最大射程は8,000m。榴弾なら敵陣地への制圧射撃にも使える。徹甲弾なら、実用交戦距離で当面の列強戦車を正面から撃破できる。
歩兵大隊が初めて、自分の手元に「戦車を殺せる直射火力」を持つのです」
「ですが、重量がネックでした」
海軍陸戦隊の士官が、砲の車輪を軽く蹴った。
「口径を広げ、防盾の装甲を分厚くした分、重量が跳ね上がった。1トンを超えれば、人力での牽引や陣地転換は不可能です。
……そこで、これです」
士官が指差した車輪は、鈍い銀色に輝いていた。
それは鉄ではない。日本国内(理化学研究所・大河内正敏博士のチーム)で量産化に成功したばかりの「マグネシウム合金」だった。
さらに砲架の非応力部品にも軽合金を多用し、徹底的なダイエットが施されている。
「海水のにがりから作った日本のマグネシウムと、オーストリアの設計、そして中欧やドイツの工場で鍛造された特殊鋼砲身。
……これで、全備重量を1,080kgに抑え込んだ。
これなら、我々が先年からロレーヌ社より導入した『タトラ式6輪トラック』で、どこへでも牽引できますよ」
陸軍と海軍の担当者は、顔を見合わせてニヤリと笑った。
資金を出したのは海軍。設計要求を纏めたのは陸軍。
両者は東條英機が主導した「パイロットとトラックのバーター取引」以来、実務レベルでの融通を日常的に行うようになっていた。
「……ミスター。これをいくつお買い上げで?」
ベーラー社の社長が、揉み手をしながら尋ねた。CA銀行の破綻でオーストリア経済が即死した今、日本からの注文は文字通りの命綱だ。
「最低でも数千門。支払いはオフショア円債で行います。貴国政府がCA破綻処理で抱え込んだ外貨債務の穴埋めにもなるでしょう」
社長は、胸の前で何度も十字を切った。
欧州では、通貨が死につつあった。
だが円を稼げる工場だけは、生き延びることを許された。
⸻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
その男は、史実であれば前年、満州の野に火を放っていたはずだった。
その代わりに彼は、日本陸軍の次世代兵器体系を構築する任務を帯び、ジュネーブの国際連盟ではなく、ワシントンへと飛んできていた。
陸軍兵器本廠附、石原莞爾大佐。
「……東郷少将。相変わらず、貴方の居る場所には金の匂いと、硝煙の匂いが混じって漂っていますな」
石原はソファに深々と腰を下ろし、出されたコーヒーを一瞥した。
「お褒めに預かり光栄です、石原大佐。今日は、陸軍の次期主力兵器の『お買い物リスト』をお持ちいただいたとか」
東郷一成は、柔和な笑みを浮かべた。
「買い物ではありません。『ドクトリンの統一』です」
石原は、鞄から分厚いファイルを取り出した。
「先日、貴海軍の資金で開発中の『ベーラー社の設計協力で完成した、試製機動57mm砲』。ここに来る途中、オーストリアで見せてもらいました。
……素晴らしい。制式採用は1934年くらいでしょうが、あれがあれば、敵戦車は恐るるに足りん」
石原は、ファイルを東郷の前に滑らせた。
「そこで、陸軍は『九二式歩兵砲』の追加採用を、全量中止することに決定しました」
「……ほう?」
東郷の片眉が上がった。
九二式歩兵砲。軽便で歩兵大隊の心強い味方となるはずだった「大隊砲」だ。それを自ら切り捨てるというのか。
「あの70ミリ砲は確かに使い勝手がいいが、対戦車戦闘には無力です。
戦車群と相対した時、榴弾しか撃てない砲と、徹甲弾しか撃てない砲を別々に配備していては、部隊の弾薬補給が完全にパンクします」
石原の目は、冷徹な未来を見据えていた。
「私の『最終戦論』において、決戦の要は火力と機動力、そしてそれを支える『純化された兵站』です。
……大砲の口径は、纏められるなら纏めたい。
あの57mm砲を対戦車砲としてだけでなく、榴弾を撃つ『歩兵砲』としても全大隊に統一配備します。部品も、砲弾の規格も全て統一し、国内で大量のライセンス生産を行います」
「……見事な御決断です。陸軍内の保守派をよくぞ説得されましたね」
東郷は素直に感嘆した。兵器の統廃合は、軍隊にとって最も困難な政治的課題だ。
「簡単なことです。『海軍がNCPC債でライセンス料と初期ロットの代金を全額負担してくれるから、陸軍の予算は1銭も減らない』と言ってやりました。
……払っていただけますね?」
「ええ。喜んで」
東郷はニヤリと笑った。「陸海軍の共通装備となれば、我が海軍陸戦隊の弾薬調達コストも下がります。最高の投資です」
「ですが、東郷少将」
石原は、身を乗り出した。
「57mm砲は弾道が低く(平射)、敵の塹壕や障害物の裏を叩く『曲射火力』としては不十分です。
歩兵砲をキャンセルした穴を埋めるために、優秀な『迫撃砲』が必要になります。
……フランスに、貴方の『パイプ』があるそうですね?」
「ロレーヌ社と、フランス外務省のことですか」
「はい」
石原は、二枚目のリストを提示した。
「フランスの『エドガー・ブラント社』が開発した、81mm迫撃砲(Brandt Mle 27/31)。
これを、数千門単位で買い付けたい。日本でのライセンス生産権も込みで」
史実の「九七式曲射歩兵砲」の原型となる傑作迫撃砲だ。
これを1932年の段階で大量導入し、57mm平射砲と組み合わせれば、日本陸軍の歩兵大隊は「世界最強の火力と柔軟性」を手に入れることになる。
「問題ありません。今のフランス政府は、諸事情により我々(Gesco帳簿)に協力的です。外貨を落としてくれる日本の注文なら、言い値で売るでしょう」
東郷は即答した。
「それから……もう一つ。ここからが本題です」
石原の目に、少年のようないたずらっぽい光が宿った。
「フランスの陸軍倉庫で、欧州大戦以来、埃を被って眠っている『粗大ゴミ』があるはずです。
『バティニョール 240mm重迫撃砲』。
……これを、数百門海軍さんが買い取っていただきたい」
東郷は、コーヒーカップを置いた。
「240mm……? 重さ数十トンに達する、要塞攻撃用の化け物ですか。
あんな倉庫の置物、今の時代にどうやって陣地まで運ぶのです? トラクターで引いても、設置に何日もかかりますよ」
欧州大戦の塹壕戦で使われた巨大な迫撃砲。破壊力は絶大だが、あまりにも鈍重で、機動戦には全くついていけないシロモノだ。
「ええ。普通なら使い物になりません」
石原は、カバンの中から青焼きの図面を取り出し、東郷の前に広げた。
「ですが、今の我々には『足』がある」
図面に描かれていたのは、異形の巨獣だった。
東郷がアメリカから「農業用トラクター(あるいは移動発電機)」という名目で大量に買い叩き、上海事変で猛威を振るった、あの38トンの鉄の城。
『マークVIII リバティ重戦車』。
その巨大な車体の上部構造物が取り払われ、中央の広大なスペースに、フランスの「240mm重迫撃砲」が上を向いて鎮座している。
「……ッ!」
東郷の息が止まった。
「リバティの車台に、240mm砲を載せる……? 自走重迫撃砲!?」
「そうです」
石原は、悪魔的な笑みを浮かべた。
「リバティ戦車はデカくて遅い。だが、400馬力のV12エンジンを持ち、巨大な車体と接地面積があるからこそ、240mm迫撃砲の凄まじい反動(発射衝撃)を、車体全体で受け止めることができる。
装甲があるから、敵の砲火を浴びながら最前線まで進める。
そして、敵の強固なトーチカや市街地の堅牢なビル群の目の前で停止し……重量100キロ近い240mmの榴弾を、屋根の上から容赦無く叩き込む」
石原は、チョークで上海の地図を描いた。
「この前の上海事変。海軍の陸戦隊は短機関銃とリバティで敵を蹴散らしたと鼻高々ですが、敵が頑丈なビルや地下室に籠もった場合、機関銃では手が出ません。
もしそこに、この『240mm自走迫撃砲』が随伴していればどうなるか。
……国際世論がうるさい爆撃機を出さずに、ビルごと粉砕できます。
これこそが、市街戦および要塞攻略における『破城槌』でしょう」
東郷は、図面を見つめたまま絶句するしかなかった。
「……恐ろしい男だ、貴方は」
東郷は、心底からの賞賛を込めて言った。
「私が世界中から買ってきた『点』を、線で繋いで『兵器』に組み上げてしまった。
……分かりました。フランスの240mm迫撃砲の在庫は、我々海軍が抑えましょう。ただし、陸軍にも請求書は回しますよ」
「構いません。どうせ支払うのは、欧州人が抱えた円債でしょう」
欧州の金融恐慌から逃げ出した円は、ロンドンの手形市場を侵し、ウィーンの砲身を買い、そしてフランスの倉庫で眠っていた旧式重砲を、日本陸軍の未来の戦術へと変換した。
それは金ではなかった。
ドクトリンへ変わる前の、液体化した兵站だった。
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