ドルの蛇口、円の水門
時:1932年(昭和七年)、初夏
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・オーバルオフィス
「……大統領。議会の意見は完全にまとまりました。
『無条件の戦債モラトリアム(支払い猶予)』など、絶対に承認できません。特に、フランスに対しては」
ヘンリー・スティムソン国務長官は、分厚い決議案の束をフーヴァー大統領の机に置いた。
その目は外交官のそれというより、復讐に燃える債権取り立て屋の冷酷さを帯びていた。
「我が国の農民が土地を奪われ、デトロイトの工場が倒産していたあの地獄の1929年。フランスが真っ先に我々からゴールドを奪って、高金利を強制したからです。
さらに彼らは日本の資金で高利貸しをやり、今や欧州の火薬庫(CA銀行)を爆発させてポンド危機を引き起こそうとしている。
……大統領。彼らは『被害者』ではありません。『放火魔』です。彼らを我々アメリカの血税で救済するなど、有権者が絶対に許しません」
フーヴァー大統領は、深く息を吐き出した。
「だがヘンリー。ヨーロッパ全体が沈めば、我々も無傷では済まん。何らかの猶予措置は必要だ」
「ですから、『選別的モラトリアム』を閣僚合同でご提案します」
スティムソンは、冷たい笑みを浮かべた。
フーヴァーは、閣僚合同案をめくり背筋が寒くなるのを感じた。
これは「救済」の皮を被った報復だ。
フランスが「我々は金を持っているから強い」と驕っていた、その傲慢なアイデンティティを根本からへし折る要求である。
「……これは、特にフランスは発狂するぞ。彼らはゴールドを命より大切にしている」
「ええ」スティムソンは満足げに頷いた。
「彼らは金を持っています。ですが、アメリカの『ドル市場』から完全に切り離されることには耐えられません。国際決済も、輸入も、証券発行も全て不便になる。
我々は彼らの金庫を直接殴ることはできない。ですが……彼らのドルの蛇口を完全に締めることはできるのです」
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場所:ワシントンD.C. 国務省・長官室
「……以上が、我がフランス共和国政府からの、戦債支払いの一時猶予に関する正式な要請であります」
フランス駐米大使は、額に冷や汗を浮かべながら、アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンに書類を提出した。
だがスティムソンは書類を読もうともせず、冷徹な目で大使を見据えた。
「大使。……我が国は、イギリスに対する戦債の支払いは一年猶予する用意がある。彼らはポンド危機で本当に金庫が空であり、我々に不可欠なパートナーだからだ」
「なっ……! イギリスは良くて、なぜ我が国はダメなのですか!」
「貴国は、金を持っているからだ」
スティムソンは、氷のように冷たく言い放った。
「1929年、我々が苦しい時に貴方がたは金を持ち出した。そしてその金庫を閉ざしたまま、日本の金でCA銀行に高利貸しを行い、中欧を吹き飛ばした。
……我々の議会はこう言っている。
『日本の海軍は、少なくともアメリカの牛肉と機械、船を買ってくれた。フランスは、アメリカから何を買い、何を助けたのか』とな」
大使は、言葉に詰まった。
「もし戦債の猶予を望むなら、条件がある」
スティムソンは、一枚のメモを突きつけた。
「第一に、フランス銀行の金準備の一部を、BISまたはニューヨーク連銀へ再預託すること。
第二に、CA転貸で得た『利鞘』を放棄し、損失処理に回すこと。
第三に、ドイツ・オーストリアへの政治的条件(関税同盟の破棄など)を撤回すること。
……これが呑めないなら、猶予はない。明日までにドルの現金で耳を揃えて払いたまえ」
それは交渉ではなく、金融版の「公開処刑(尋問)」だった。
フランス大使は、屈辱に顔を真っ赤に染めながら、逃げるように国務省を後にした。
入れ替わるように国務省に入ってきたのは、イギリス大使だった。
「そして、イギリス大使」
スティムソンは、今度はイギリス大使に向き直った。
「貴国へのモラトリアムは、無条件で承認しよう。貴国はポンド防衛で本当に苦しんでいるからな。我々はフランスと同じ扱いはしない」
イギリス大使がホッと安堵の息を吐こうとした、その瞬間。
「……ただし」
スティムソンの目が、猛禽類のように鋭く光った。
「イギリスは今後、アルゼンチンにおける我々アメリカの通商権益を一切妨害しないこと。
『帝国特恵関税』によってアメリカ製品を過度に排除しないこと。
……そして何より、日本海軍(NCPC)との『裏の物流と決済の協力』について、我々に透明性のある情報開示を行うこと。
これが条件だ」
イギリス大使の顔が、一瞬にして硬直した。
アメリカは猶予という名の首輪を使い、イギリスから『アルゼンチンの市場』と『日本との共犯関係の証拠』をもぎ取ろうとしているのだ。
「……長官。我々大英帝国に、アメリカの属国になれと仰るのか」
「違うよ、大使」スティムソンは冷たく言い放った。「『沈む泥船』から降りて、我々のボートに乗れと言っているのだ。……まあ、ゆっくり考えていただきたい」
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時:数日後
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官室
「……というわけで、アメリカはフランスのモラトリアム要請を事実上、叩き潰しました。イギリスとは完全に分断されましたね」
副官の樋端は、フランス海軍からの情報に半開きの口を歪めて笑った。
「まあ、当然の帰結だな。アメリカの政治家は、国内の失業者に説明がつかない『慈善』はできまい」
東郷は、小百合の淹れたコーヒーを啜りながら静かに言った。
「……ですが閣下。アメリカの『怒り』は、フランスだけでなく、我々にも向いてきています」
樋端が、別の書類を差し出した。
「ウォール街の銀行団と商務省からです。我々がBIS経由でダナート銀行を救済し、デシマグやユンカースといった重工業企業の優先株と生産枠を握ったことに対し、猛烈な抗議が来ています」
東郷の目が、わずかに細くなった。
「彼らは『日本海軍が、アメリカのドルと技術を使い、米銀の債権者を差し置いて欧州の重工業を独占支配している』と激怒しています。
ついては、『NCPC信用状の決済情報を一部開示しろ』『日本の発注枠に、米国製工作機械や電装部品の購入義務を混ぜろ』と要求してきています。……どうしますか?」
東郷は、タバコに火をつけた。
「……彼らは、我々の防爆壁(ダナート救済)に、自分たちの『勝手口』を付けようとしているのだな」
「はい。拒絶すれば、アメリカは『日本が米国債権者を犠牲にしてドイツ産業を押さえた』と大騒ぎし、SIDA(戦略的産業防衛法)を盾に、我々の在米資産に干渉してくる恐れがあります」
アメリカの要求は切実だった。
日本がドイツの「どの工場」を「いつ」押さえたか分からない。このままでは、将来アメリカがヨーロッパから機械を買おうとした時、全てが「日本海軍の許可制」になってしまう可能性がある。
「ならば、彼らの要求を『少しだけ』聞いてやろう」
東郷はペンを取り、一筆箋にサラサラと返答を書き込んだ。
『米国債権者の元利支払いの順位は尊重する。
ただし、我々が発注した工場の「生産枠」と「技術仕様」は、純粋な商業上の秘密であるため、情報の開示には応じられない』
「……これで納得しますかね?」樋端が訝しげに問う。
「納得はしないだろうが、反論もできない」
数時間後。
この返答を受け取ったスティムソン国務長官は、激怒して東郷に直接電話をかけてきた。
『……東郷少将! “商業上の秘密”という名目で、貴国はヨーロッパの重工業を、日本海軍の「巨大な補給廠」に変えているのではないか!』
受話器越しに、スティムソンの怒号が響く。彼は一度、東郷に合衆国銀行でやられた。
今度はダナート銀行で同じ構造を作られる。
だが東郷は、極めて穏やかに決定的な一撃を放った。
「……スティムソン長官。
大恐慌の下で、倒産しかけた工場を動かし、失業者に賃金を払い、銀行の債権を保全することを……
貴国では『補給廠』と呼ぶのですか? 我々はこれを『健全な経済活動』と呼びますが」
『…………ッ!!』
スティムソンは、言葉を失った。
「……長官。自由市場とは、売る自由だけでなく、買う自由も含むものです。貴国も、無用な詮索で自らの首を絞めるような真似はなさらない方が賢明ですよ」
東郷は、静かに電話を切った。
⸻
場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
大蔵省の廊下は、まるで戦場だった。
為替局の官僚たちが、血走った目で書類の束を抱えて走り回っている。電話のベルは鳴り止まず、スイスのBISやロンドンの横浜正金銀行から、暗号電報が秒単位で飛び込んできていた。
大蔵大臣室に飛び込んできた主計局の賀屋興宣は、息を切らしたまま、分厚いファイルを高橋是清大臣のデスクに叩きつけた。
「……大臣! 異常事態です!
欧州からの逃避資金が、想定の限界値を突破しました!」
賀屋は、震える手で『為替ストレス・シミュレーション表』を広げた。
「CA銀行の穴は3億ドル、つまりたった6億円ぽっちだぞ。なぜこんな額になる!」
「パニックですよ、大臣! 『火事だ!』という声を聞いて、映画館の客が全員出口に殺到している状態です! そして、その唯一開いている『非常口』の通貨が……我が国の『円』なのです!
現在の流入ペースを放置した場合……
30日以内で約7億ドル(14億円)。
90日以内で約14億ドル(28億円)の買い圧力が、東京為替市場を直撃します!」
当時の国家予算の倍近い金額だ。
是清はキセルを口から離し、眉をひそめた。
「……で、為替はどうなる?」
「現在の『1ドル=2円』の相場が、30日で『1ドル=1.3円』前後まで急騰します。
もしパニックが沈静化しなければ、一時的に『1ドル=1円割れ(パリティ)』の投機的円買いすら起こり得ます!」
賀屋の声は、恐怖で裏返っていた。
「大臣。これは『円の価値が上がった』などと喜べる話ではありません。
外国人から見れば、日本製品の値段が一気に『50%以上値上げ』されたのと同じです。
生糸、綿布、雑貨……海軍が苦労して開拓した輸出産業が、価格競争力を完全に失い、即死します!」
さらに賀屋は、もう一枚のグラフを示した。
「一方で、国内の金融市場は異常なバブルを起こします。
逃避資金が日本国債や制度債を買い漁るため、国債価格は急騰し、東京の株式市場には外資が溢れかえる。
……実体経済(地方の工場や農村)は輸出崩壊で首を括り、東京の証券屋(兜町)だけが札束の風呂に浸かる。
『金解禁』を回避して防いだはずのデフレ不況が、外国からのマネーの津波によって、強制的に引き起こされるのです!」
高橋是清は、静かに報告書を見つめた。
彼の脳裏に、かつて井上準之助が引き起こそうとした「金解禁」という名の地獄がよぎる。
金本位制の鎖を外した日本に、市場が勝手に『金本位制以上の重い鎖(超円高)』を巻きつけようとしているのだ。
「欧州の馬鹿者どもめ」
是清の低い声が、部屋に響いた。
「金本位制に戻らなかったというのに、金本位制の首輪だけを市場から嵌められてたまるか」
「だ、大臣! 直ちに日銀に円を刷らせて、為替介入(ドル買い)を……!」
「ダメだ!」
是清は、ピシャリと撥ね付けた。
「円をただ刷って市場にばら撒けば、今度は悪性インフレになる。
いいか、賀屋君。逃げてきた金は『客』ではない。『洪水』だ」
是清は、立ち上がった。
その丸々とした体躯から、歴戦の財務官僚たちを震え上がらせる圧倒的な覇気が放たれた。
「客として座敷に上げれば、日本の畳が腐る。
ならばダムを作り、水路を引き、我々の田を潤させろ!」
「ダ、ダムですか?」
「そうだ。為替市場の野原に水を流すな。頑丈なコンクリートの器(債券)に閉じ込めろ」
是清は賀屋の報告書の裏に、猛烈な勢いで筆を走らせた。
「逃避資金を、直接『円』に換えさせるな。
横浜正金銀行を通じて、ヨーロッパの連中にこう宣告しろ。
『円は欲しいだろう。なら市場で円を買うな。この【特別債】を買え。我々がその資金で、円建て貿易決済を用意してやる』とな」
是清が書き殴ったのは、以下の二つの新しい金融商品の名前だった。
【欧州貿易安定円債】
【BIS円建て清算債】
「……外資の円買い圧力を、これらの『日本国内に入らない円』の債券で吸い上げる。
そして吸い上げた資金は、ヨーロッパの植民地との貿易決済プールに回し、彼らを『円経済圏』に組み込むための血液として使うのだ。
……円を買わせるな。円で働かせろ」
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