人工血管と遺体安置所
時:1932年(昭和七年)、初夏
場所:ドイツ・バイエルン州、ライン・マイン・ドナウ運河(RMD)建設現場
CA銀行の爆発により、ヨーロッパの金融市場が凍りつき、ウィーンやパリの銀行家たちが首を括るロープを探している最中。
このバイエルンの泥にまみれた巨大な溝の中だけは、狂ったような生命力に満ちていた。
「おい、急げ! ニュルンベルク側の第3閘門にコンクリートを流し込め!
クルップの特注ポンプが明日届くぞ!」
現場監督のドイツ人が、メガホンで怒鳴り声を上げている。
彼の周りでは、数万人のドイツ人労働者――少し前までは路頭に迷い、ナチスや共産党の集会で暴れていた若者たち――が、泥にまみれてツルハシを振るい、アメリカ製のブルドーザーを運転していた。その作業を見守るドイツ人労働者たちの顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
「……よかった。今週も日本の船が来たぞ」
「ああ。これでダナート銀行の信用状の決済が下りる。工場の給料も無事に払われるそうだ」
彼らは、CA銀行が吹き飛んだことなど遠い国の出来事のように感じていた。
目の前で動いている実物と、確実に入ってくる「給料」。
それが、彼らにとっての絶対の真実だった。
「……信じられんな」
視察に訪れたライヒスバンク総裁、ヒャルマル・シャハトは、葉巻をふかしながら深い感嘆の息を漏らした。
「世界中の銀行のシャッターが閉まり、信用が蒸発しているというのに。
この現場だけは、金が回り、機械が動き、人が働いている」
隣に立つ加納久朗が、泥のついた革靴を気にすることなく微笑んだ。
「ええ。我々がここに投じた4,000万ドル(約1億6,000万ライヒスマルク)は、ただの『紙の借用書』ではありませんからね。
それは鉄になり、セメントになり、工員のパンになっています。
……そして何より、この水路には、我々が1932年から5年間、5億ライヒスマルクの金額で包括発注した、デシマグ、ユンカース、ライネッカー、フリックの『生産枠と技術』を、日本に流す役目があります」
加納は、運河の先――ドナウ川の向こう、遠く黒海へと続く東の方角を見た。
「我々はドイツで作らせた巨大な工作機械や、オーストリアから引き抜いた特殊鋼の製造設備を、この運河に乗せて黒海へ抜ける。
そこからトルコの保護とロイズの保険で、安全に日本へ運べる。……文字通り『大陸の静脈』です」
シャハトは、目の前の現場を見た。
泥の中で働く労働者。セメントを運ぶ貨車。
唸りを上げるポンプ。給料袋を待つ家族。
日本海軍指定の貨物標識。
それは確かに、銀行家の机の上にある架空の資産ではなかった。
「……異形の経済圏だな」
シャハトが呟いた。
「みな金のルールで溺れ死んでいる中、日本海軍だけがモノ……、兵站のルールで息をしている。欧州の死体の中に、日本海軍の人工血管だけが脈打っている」
「はい。信用は血液です。
普通のヨーロッパ経済は、その血液を失いました。
しかし我々は、ドル、NCPC債、船腹、配給物資、通航権、信用状を束ねて、別の血液を流している」
加納は、建設中の巨大な運河を指差した。
「このRMD運河も、その人工血管の一部です」
シャハトは頷いた。
全線開通にはまだ時間がかかる。だが、一部区間が開通しているだけでも、すでに物資は動き始めている。未開通区間は鉄道や巨大なトレーラーでリレー輸送すればいい。
「……加納さん。CA銀行が破綻した時、私はダナート銀行どころか、ドイツ経済も連鎖して丸ごと吹き飛ぶと覚悟した」
シャハトは、真剣な顔で言った。
「市場は『ドイツの銀行が抱える産業債権は、全て不良資産(売れないガラクタ)だ』と疑心暗鬼になっていた。……あのままなら、一斉に預金が引き揚げられ、ドイツは再び破産していただろう」
「ですが、踏みとどまりましたね」
「ああ。この『動く担保(RMD運河)』のおかげだ」
シャハトは、巨大なクレーンが動く様を指差した。
「私が市場に『ドイツの重工業は死んでいない。RMD運河の建設で、セメント、鋼材、ポンプ、機械設備に実需が発生している。決済は全て、BISのドルで裏書された日本のNCPCでな』と発表した時。
債権者たちのパニックは、何とか止まった」
株券や債券は、いくら「価値がある」と言い張っても、市場が疑えば紙くずに戻る。
だが、「現に人が働き、鉄が買われ、金が払われている現場」は、絶対に嘘をつけない。
RMD運河という巨大な公共事業は、金融恐慌の炎がドイツを焼き尽くすのを防ぐ、極厚の防火壁となったのだ。
「……東郷提督は、本当に恐ろしい男だ」
シャハトは、心底からの敬意と恐怖を込めて呟いた。
「彼は1930年の時点で、CA銀行という時限爆弾が爆発することを見抜き……その爆風からドイツ(と日本の投資)を守るために、こんな途方もない塹壕を掘っていたのか。
ビスマルクでも、これほど遠くは見通せまい」
「彼はビスマルクではありませんよ、総裁」
加納は、少し誇らしげに言った。
「彼は『兵站の専門家』です。
必要な物資を、必要な時に、必要な場所へ運ぶ。
その障害となるものを排除するためなら、銀行を買い、法律を書き換え、ヨーロッパ大陸を二つに割る運河すら掘ってみせる。
……彼にとって、経済も外交も、兵站を回すための『手段』に過ぎないのです」
シャハトは笑わなかった。
ただ、運河の底で働く労働者たちを見下ろしながら、静かに言った。
「ならば加納さん。
我々ドイツ人は今、日本海軍の兵站線の上で生きているということか」
「いいえ」
加納は即答した。
「兵站線の上ではありません。兵站線の中です」
その答えに、シャハトはしばらく黙った。
やがて彼は、葉巻の灰を泥の上に落とし、低く呟いた。
「……それは、救済かね。それとも支配かね」
加納は、少しだけ考えた。
「総裁。血管は、血を流す限り命を救います。
しかし、どこへ血を流すかを決める者は、身体の主ではありません」
運河の底で、労働者たちが歓声を上げた。
新しいポンプが動き出し、泥水が轟音とともに排出されていく。
金融が死んだヨーロッパで、ドイツの運河だけが生きていた。
そしてローマでは、国家が自国の心臓を棺に納める準備を始めていた。
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場所:イタリア・ローマ、ヴェネツィア宮殿(ドゥーチェ執務室)
大理石の床に、分厚い報告書が叩きつけられた。
イタリアの独裁者、ベニート・ムッソリーニは、バルコニーからローマの街並みを見下ろす余裕もなく、首に青筋を立てて怒り狂っていた。
「……アルベルト。貴様、私が数字に弱いからと、からかっているのか?」
財務の最高責任者であり、後に「IRI(産業復興公社)」の初代総裁となるアルベルト・ベネドゥーチェは、顔面蒼白のまま首を横に振った。
「ドゥーチェ。現実です。
ウィーンのCA銀行が破綻した衝撃で、我が国の心臓である『イタリア商業銀行コムイト』が、文字通り即死しました」
「コムイトが死ぬなどあり得ん! あの銀行は、フィアット(自動車)やアンサルド(造船)、イルヴァ(鉄鋼)の親玉だぞ!
アメリカから買った、ワイオミング型戦艦二隻の大改装をやっているのもアンサルドだ! それが死んだら、我が国の重工業はどうなる!」
「……止まります。全て」
ベネドゥーチェは、絶望的な事実を口にした。
「コムイトは、中東欧のバルカン諸国に莫大な融資を行っていました。それがCA銀行の崩壊で、全て紙くず(全損)になりました。
……手元の現金が吹き飛んだコムイトは、フィアットやアンサルドに運転資金を回せません。給料も、イルヴァから鉄を買う金も出ない。
来月には、我が国の重工業と軍需産業は、完全に停止します」
ムッソリーニは、息を呑んだ。
軍事国家を標榜するファシスト・イタリアにとって、重工業の停止は「国家の死」と同義だ。
「……救済しろ! 中央銀行に紙幣を刷らせて、コムイトに注入しろ!」
「できません!!」
ベネドゥーチェが、悲鳴のように遮った。
「ドゥーチェ! 貴方ご自身が掲げた『クォータ90(1ポンド=90リラ)』の公約を忘れたのですか!
ここで無制限の紙幣増発を行えば、リラは暴落します。金本位制からの離脱となり、貴方の威信は完全に地に落ちます!」
ムッソリーニは、歯を食いしばった。
自らの権力の象徴である「強いリラ」を捨てるか。
それとも、自らの軍事力の象徴である「重工業」を捨てるか。
……どちらを選んでも、ファシズム体制は致命傷を負う。
「……では、どうすればいいのだ」
「……国家が、抱え込むしかありません」
ベネドゥーチェは、地獄の処方箋を提示した。
「コムイトが抱える不良債権と、フィアットやアンサルドの株式を、全て政府が買い上げます。『産業復興公社(IRI)』という国策機関を作り、そこへ押し込むのです」
「……つまり、重工業と銀行を全て国有化するのか?」
「言葉は綺麗ですが、実態は『巨大なゴミ箱』です。
市場の競争力を失ったゾンビ企業群を、国家の税金で無理やり食わせ続ける。……我が国の資本主義は、ここで終わります。産業復興公社というより、産業遺体安置所です」
ムッソリーニは、机に突っ伏した。
強いイタリアを作るはずが、たった一つの外国銀行(CA銀行)の破綻によって、国中が「税金で延命するだけの病人」に成り下がってしまったのだ。
「……なぜだ」
ムッソリーニが、血走った目でベネドゥーチェを睨みつけた。
「なぜコムイトは、中東欧の泥沼にそこまで深く資金を突っ込んでいた!?
クズどもに、なぜ我々の血肉を分け与えたのだ!」
「……ドゥーチェ。それは……貴方のご命令です」
「なんだと?」
「1年前。フランスがCA銀行に5,000万ドルの緊急融資を行いました。
あの時、貴方は仰ったはずです。
『フランスにバルカン半島の覇権を独占させるな! 我々も負けずに資金を投入し、東欧の政治家たちをイタリアの味方につけろ!』……と」
ムッソリーニの脳内で、パズルのピースが最悪の形で組み合わさった。
フランスが安全を保証したから、イタリアは対抗して金を突っ込んだ。
だがそのフランスの5,000万ドルは、ただの「死化粧」だった。
フランスは、腐りきった銀行の前に「安全」という立て札を立て、イタリアをその罠へと誘導したのだ。
ムッソリーニの口から、呪詛のような声が漏れた。
「……そのフランスは今、何と言っている!? フランス大使館かパリの政府は責任を認めたか! オーストリアの資産を差し押さえる準備はしているのか!」
「……それが」
ベネドゥーチェは、気味悪そうに首を傾げた。
「フランス政府は、完全に沈黙しています。
まるで、CA銀行のことなど最初から無かったかのように。
……彼らは責任を追求することも、債権回収に動くこともせず、ただひたすらに引きこもり、金塊を抱えて黙秘を貫いています」
その言葉を聞いた瞬間。
ムッソリーニの中で、何かが音を立てて切れた。
「……許さん」
ヴェネツィア宮殿に、狂気を孕んだ独裁者の咆哮が響き渡った。
「許さんぞ、フランスの卑怯者どもめ!!
自分たちで毒を撒き、我々にその毒を飲ませておきながら!
自分たちだけは責任を逃れ、知らぬ存ぜぬで金庫に引きこもるだと!?
あのアングロサクソン(英米)以下の、卑劣な詐欺師どもがァァァッ!!」
ムッソリーニにとって、フランスの不自然な「沈黙」は、「我々はお前たちイタリアを意図的にハメたのだ」という、最大限の侮蔑と嘲笑にしか見えなかった。
「……アルベルト。オーストリアとハンガリーの親伊派の政治家たちは、どうしている?」
ムッソリーニが、肩で息をしながら問う。
「……イタリアからの融資が止まったため、全員、我々を見限りました。
彼らは今、新しいパトロンとして……ベルリンの『ドイツ』か、あるいは東洋の『日本』へ擦り寄っています。
……我が国のバルカン覇権は、完全に消滅しました」
「……」
ムッソリーニは、窓の外のローマを見た。
かつて地中海を「我らが海」と呼んだ古代ローマ帝国の末裔。
だが今、イタリアはカネを失い、東欧の属国を失い、国内の重工業は政府の補助金なしでは動かない「スクラップ」に成り下がった。
立派な軍艦をいくら手に入れても、それを動かす経済の心臓が止まってしまったのだ。
「私は戦艦を買った。奴らは銀行を腐らせた。
そして勝ったのは、腐った銀行の方だった!
……フランスめ。この恨みは、必ず果たす。
地中海の底に、奴らの国を沈めてやる……!!」
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