筆箱を隠す市場
時:1932年(昭和七年)、5月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
ウィーンのクレディ・アンシュタルト(CA)銀行が、ついに「21億シリングの巨大な穴」を開けて吹き飛んだ翌日。
東郷一成は、荒れ狂うヨーロッパ市場の報告書を脇に退け、日本から冬に届いた一通の私信に目を通していた。
差出人は、小学校を卒業し女学校に進学したばかりの養女・幸からだった。
『お父様へ。
お送りいただいたエリザベス・アーデンの保湿クリーム、ありがとうございました。横須賀の潮風で荒れていたお肌が、見違えるように潤いました。さすがは本場ニューヨークのお品ですね。
もっと英語の勉強をして、お父様のいらっしゃるアメリカへ留学したいと願っております』
東郷は、口元をわずかに緩めた。
だがその微笑みは、手紙の後半に差し掛かってスッと消えた。
『ところで、最近学校で少し悲しいことがありました。
ある女の子が、以前「泥棒の疑い」をかけられました。後で真犯人が見つかり、彼女の無実は証明されて、先生もみんなの前で彼女に謝りました。
……でも、お父様。
今でも彼女が教室を歩く時、みんな無意識に自分の筆箱を隠すんです。
みんな「潔白だ」と頭では分かっています。でも、一度ついた「疑いの匂い」は、石鹸で洗っても落ちないのですね。
私は、人の心というものは「解決した事実」よりも、「怖かった記憶」の方を長く信じるのだなと学びました』
東郷は、手紙を机に置いた。
背筋を、冷たいものが駆け上がるのを感じた。幸の才能と近況が、東郷に最悪の事態を警告していた。
⸻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館付属事務所
ヨーロッパ中を震撼させたクレディ・アンシュタルト(CA)銀行の崩壊から数日後。
地下室の空気は、物理的な温度以上に冷え切っていた。
エミリー・クリハラは、膨大なスクラップブックと集計表を机に並べ、鉛筆の尻でコツコツと机を叩いていた。
「……ミス・クリハラ。糖分の補給を」
橘小百合が、温かいココアとクッキーを無言で置く。
「ありがとう、小百合さん。でも……計算が合わないの」
エミリーは、眉間を寄せて呟いた。
その声を聞きつけ、木梨鷹一大尉が覗き込む。
「どうした、エミリー君。何か気づいたのか?」
「はい。……ダナート銀行への市場の反応がおかしいんです」
エミリーは複数の地方紙の切り抜きと、金融市場のデータを並べた。
木梨が怪訝な顔をした。
「待てよ、エミリー。ダナートの一番の火種だった『ノルトヴォレの羊毛在庫』は、去年大将(東郷)がニューヨークのアパレル市場で売りさばいて、綺麗に処理したはずだぞ?」
「でも、市場はそう思っていないのではないでしょうか」
エミリーは、赤鉛筆で記事の特定の箇所を丸で囲んでいった。
「見てください。
ベルリンの機械メーカーの求人広告が、昨日から一斉に消えました。
ロンドンの保険組合が、ダナート銀行の信用状(L/C)に割り増し料金をかけ始めました。
ウィーンの高級ホテルの予約が、ドイツの銀行家から次々とキャンセルされています。
……極めつけは、これです」
エミリーが差し出したのは、ドイツの右派系タブロイド紙だった。
そこには、ダナート銀行のCEO、ヤコブ・ゴールドシュミットを醜悪なユダヤ人として描き、「ドイツの富を食い荒らす寄生虫」と罵る風刺画が掲載されていた。
「CA銀行が吹き飛んだ衝撃で、海外の債権者たちは『ドイツの銀行も危ない』と連想を起こしています。彼らは、ダナート銀行の帳簿を信じていません。
『あの複雑怪奇な産業ネットワークの中に、まだ隠された不良債権があるはずだ』と疑っているんです」
エミリーは、様子を見に来た東郷の目をまっすぐに見上げた。
「……東郷さん。ノルトヴォレの羊毛は、もう燃えていません。
でも、みんながまだ『煙の匂い』を覚えているんです」
東郷の動きが、ピタリと止まった。
彼は深く息を吐き出し、眉間を強く指で押さえた。
「……我々は信管を抜いた。だが、弾薬庫の前に『ここに爆弾あり』という看板を立てたままだったか」
東郷は呻いた。
「実損(不良債権)は消した。だが、ダナート銀行の短期外貨に依存した構造と、ゴールドシュミット個人の、政治的危うさという看板を消し忘れていた。
……大衆の記憶と市場の疑心暗鬼が、実体のない取り付け騒ぎを引き起こそうとしている」
東郷は、即座に振り返った。
「樋端君。今すぐバーゼルの加納さんと、ライヒスバンクのシャハト総裁に暗号を打て。
……ダナート銀行の防爆壁を、もう一度作り直す!」
⸻
時:数日後
場所:ドイツ・ベルリン、ライヒスバンク(帝国銀行)総裁室
その部屋には、処刑場のような冷気と沈黙が漂っていた。
ライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハトの前に立っているのは、ダナート銀行のCEO、ヤコブ・ゴールドシュミットである。
ドイツ金融界の寵児と呼ばれた彼も、今や額から脂汗を流す一人の男に過ぎなかった。
「……シャハト総裁。海外の債権者が、一斉に短期資金の引き揚げを求めてきています。
ロンドン、ニューヨーク、パリの銀行が、当行に対する短期信用枠を昨日だけで数千万マルク規模で凍結しました。このままでは今週末には外貨が完全に底をつき、デフォルトです!
我々の帳簿は健全です! 去年のノルトヴォレの損失は、日本海軍の協力で完全に処理したはずだ! なのになぜ……!」
「君が『125社』もの企業の監査役を兼任しているからだ、ヤコブ」
シャハトは、氷のように冷たく言い放った。
「市場は、君のその巨大すぎる産業ネットワークのどこかに、まだ腐った羊毛が隠されていると疑っている。君の個人的な力(ワンマン体制)が、帳簿を不透明にしているとな」
1920年代に調子に乗って海外の短期資金を借りまくり、それを国内の重工業に『長期貸付』として塩漬けにしたツケが、今まさに首を絞めているのだ。
ゴールドシュミットは唇を噛んだ。
ダナート銀行は、彼の積極的な融資によって、デシマグ(造船)、ユンカース(航空)、フリック・コンツェルン(鉄鋼・兵器)、IGファルベン(化学)といった、ドイツの未来を担う重工業の心臓部を丸抱えしていた。
だが、工場はすぐに現金にはならない。外貨の請求書を突きつけられても、工場を売り払って返すことなど不可能なのだ。
そこに、日本海軍の代理人としてバーゼルのBISから派遣された加納久朗が静かに歩み出た。
「ゴールドシュミット頭取。
我々は、貴行に現金を裸で貸し付けるような『無駄な延命(フランスがCA銀行にやったようなこと)』はしません」
市場は『また日本に借金をしたのか』と、さらに不信感を募らせるだけだからだ。
加納は、四つの条件が書かれた書類を提示した。
「第一に、ノルトヴォレ処理の『完全公開監査』です。
中立的な監査法人(スイス系)を入れ、ラフーゼン一族の追放と不良在庫の完全売却を証明するレポートを世界に公表します。『クローゼットの中に化け物はいない』と、市場に見せつけるのです」
「第二に、『スタンドスティル(債務支払い猶予)協定』の締結。
海外の債権者に対し、短期資金の引き揚げを強制的に半年間凍結します。パニックによる出血死を物理的に防ぎます」
「……だが加納氏、それではダナート銀行が死に体であると宣言するようなものではないか。そうなると融資している重工業の資金繰りが……!」
ゴールドシュミットが反論するが、加納はピシャリと遮った。
「だから、第三の矢があります」
加納は、リストの企業名を指差した。
「デシマグの造船技術とエンジン部品。ユンカースの航空機機体設計および軽合金。
ライネッカーの精密工作機械。フリックの鉄鋼と装甲板。
……これらダナート銀行が融資しているドイツの重工業企業に対し、我々から、向こう数年分のオーダーを出します」
ゴールドシュミットの目が、大きく見開かれた。
「その代金の決済として……日本の横浜正金銀行とBISを経由し、莫大な『NCPC信用状(L/C)』と外貨現金を、ダナート銀行の口座に流し込む、と。
……ダナート銀行の帳簿ではなく、ダナートが融資している『企業の実物(製品と技術)』を担保にして、外貨を供給する気か!」
「ご明察です」
加納は微笑んだ。
「これならば、市場から見ればダナート銀行は『日本の巨大な軍需・インフラ事業の独占的な決済窓口』として、極めて健全な外貨獲得エンジンに見えます。
……誰も、これが『銀行救済』だとは気づきませんよ」
それは、金融の魔術だった。
ダナート銀行の「不良債権化しそうな長期融資先」を、日本海軍が丸ごと「超優良な輸出企業」に書き換えてしまう。
結果として、ダナート銀行のバランスシートは劇的に健全化し、海外の債権者も「日本からの確実な外貨収入があるなら、資金を引き揚げる必要はない」と安心するのだ。
加納は、分厚い船荷証券の束を置いた。
実体を伴う貿易金融。
これこそが、東郷一成の真骨頂だった。信用不安の嵐の中で、NCPC債は「実物」という絶対に嘘をつかない錨をドイツ経済に打ち込んだのだ。
「……素晴らしい」
ゴールドシュミットの顔に、血色が戻った。
「これなら助かる! 日本海軍、貴方がたはドイツ産業の恩人だ!」
だが、シャハト総裁が告げた「第四の条件」は、ゴールドシュミットにとって最も残酷なものだった。
「……喜ぶのは早い、ヤコブ。最後に君には、表舞台から消えてもらう」
ゴールドシュミットの息が止まった。
「な……私を、ダナートから追い出すと言うのですか!?」
「完全に追放するとは言っていない。君の能力はまだ必要だ」
シャハトは、机の上の右翼紙(ナチス系新聞)を顎でしゃくった。
「だが、今や君の存在そのものが、政治的な火種になっている。
『ユダヤの銀行家がドイツを売った』などという下劣なプロパガンダが、市場の不安に油を注いでいるのだ。
この状態で矢面に立ち続ければ、ダナート銀行の危機は金融の問題から『政治の火薬庫』へと変質してしまう。
君の権限を、新設する『監査委員会』と『輸出金融委員会』に分散させる。君は一歩引いて、裏方として実務を回せ。
……これは命令ではない。君の銀行と、君の命を守るための『トリアージ』だ」
「……分かりました」
ゴールドシュミットは、深く頭を垂れた。
彼は悟ったのだ。自分が戦っていたのは金融市場ではなく、「大衆の記憶と偏見」という、帳簿でも倒せない怪物であったことを。
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ワシントンの日本大使館、附属事務所。
東郷一成は、加納から届いた『ダナート銀行・防衛線構築完了』の報告書を読み、深いため息をついた。
「……何とか、延焼は防げたか」
東郷は、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
「閣下。お疲れのようですね」
小百合が、静かに声をかける。
「流石に疲れたよ、小百合君」
東郷は、珍しく弱音を漏らした。
「実体のない『信用』という怪物と戦うのは、本当に骨が折れる。
我々は弾薬を運び出したが、大衆の心の中にある『引火しやすいガス(不安と偏見)』までは取り除けなかった。
……エミリー君たちの警告がなければ、今頃ドイツ経済は、ゴールドシュミットという一人の男の顔を燃やして、大爆発を起こしていただろう」
東郷は折りたたまれた幸からの手紙、そして部屋の隅で静かにタイプライターを打つ日系人少女の背中を見た。
彼女たちの存在が、東郷の「盲点」を今回カバーしたのだ。
「……人間の心までは、帳簿には載らないからな。これからも頼むぞ、エミリー君」
「……善処します、東郷さん。でも、次はお給料に加えて、美味しいアップルとチョコレートを要求します。お父さんへのお土産を作るんです」
エミリーはタイプライターの手を止めずに、少しだけ得意げに笑った。
「安いものだ」
東郷も、ようやく微笑みを浮かべた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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