連合艦隊の神経網
時:1930年(昭和五年)、春
場所:ニューヨーク州、IBMエンディコット工場・極秘開発室
その部屋には、規則正しい機械音が響き渡っていた。
パンチカードに穴を開ける穿孔機と、それを読み取って仕分けする分類機が、休むことなく稼働している。
東郷一成の当時の副官、伊藤整一中佐は、その機械が吐き出した一枚の集計表を見て、深い溜息をついた。
「……見事なものだな。人間の癖というものが、ここまで数字に表れるとは」
彼の手元にあるのは、日本海軍の各艦隊、鎮守府、大使館に配布される予定の「試製暗号・日鍵設定表」のテスト用データだった。
従来、暗号機のローターの初期位置や順序は、暗号室の将校たちが手作業で乱数表から拾って作成していた。
だが、東郷はこの作業をIBMのパンチカードシステムに丸投げすることを提案した。
IBMの技術者が、得意げに解説する。
「人間が『ランダム』だと思って適当に選んだ数字でも、機械を通せば偏りが出ます。『1』の次は『5』を選びやすいとか、奇数が連続するのを嫌がるとか。……我々の機械は、過去5年分のテストデータを照合し、そうした『人間的傾向』を完全に排除した、真の乱数配列のみを抽出して鍵表を印刷します」
「それは素晴らしい」
伊藤は、別のエラーレポートに視線を向けた。
(これならば。『日付変更線をまたいだ際の設定ミス』『同一艦隊内での鍵の重複』『破棄期限の過ぎた鍵の誤使用』……。これら全てが、カードの照合段階でエラーとして弾かれる。
暗号員が『面倒くさいから昨日の設定をそのまま使おう』などという手抜きも、絶対にできなくなるわけか)
暗号戦の最大の敵は、敵の天才数学者ではない。味方の「事務処理ミス」だ。
東郷はその最大の弱点を、アメリカの事務機メーカーの技術で塞いでしまったのだ。
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時:翌日
場所:ニュージャージー州、ベル研究所(AT&T系列)
一方、通信インフラの心臓部であるベル研究所では、別の「日本向けプロジェクト」が進行していた。
視察に訪れた伊藤整一中佐と、彼を案内するウェスタン・エレクトリックの技術幹部。
「……ミスター・イトウ。貴国が要求された『高耐久リレー接点』と『自動交換機』の納入スケジュールですが、予定通り進んでおります」
幹部は、試験機の中でカチャカチャと動き続ける無数のスイッチを指差した。
「数十万回の連続作動テストをクリアしました。大西洋海底ケーブルの敷設で培った、我々ウェスタン・エレクトリックの品質管理の結晶です。……フネの振動や塩害の中でも、絶対に狂いません」
「感謝します。これほどふさわしい部品はありません」
現状超機密の最新式試作暗号機は、複雑な制御回路を持つ。その接点が一つでもショートすれば、暗号は使い物にならなくなる。
東郷はアメリカ(AT&T)の「大量生産における圧倒的な品質管理」を導入することで、この繊細な暗号機を「壊れない実戦兵器」へと昇華させようというのだ。
「さらに」
幹部は、もう一つの分厚いカタログを提示した。
「貴国が建設中の『南洋・満州・東京間・広域通信網』向けに、最新の搬送波多重通信システムとテレタイプ端末をご用意しました。
一本の海底ケーブルや無線回線に、複数の異なる信号を同時に乗せることができます」
伊藤の目が、鋭く光った。
(……これだ。東郷大佐が一番欲しがっていた技術は)
この多重化技術を使えば、どうなるか。
アメリカやイギリスの傍聴網が日本の通信を傍受しようとしても、そこには「海軍の暗号電文」「NCPC債の清算データ」「満州の民間商業電報」「気象情報」が、全て一本の回線の中でグチャグチャに混ざり合って流れてくる。
しかも、そのうちどれが「本命の軍事通信」で、どれが「ダミーデータ(交通量偽装)」なのか、傍受する側には判別不能になるのだ。
暗号を解く以前に、「どれを解けばいいのかも分からない」という絶望的なノイズの壁。
「……素晴らしい」
伊藤は、契約書にサインをした。
「我々日本海軍は、貴社の最高の顧客であり続けましょう。……大恐慌で国内の通信インフラ投資が止まっている今、これほど大規模な発注を出せるのは、世界でも我々だけでしょうからね」
⸻
時:1932年(昭和七年)、冬
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官事務所・地下特別室
何重もの施錠と、厳重な防音設備が施された地下金庫室。
アメリカの当局の目をかいくぐるように、外交行嚢で極秘裏にワシントンまで運び込まれた『新兵器』が、今、木箱から姿を現した。
タイプライターに似ているが、異様に分厚く、重厚な鉄の箱。
『試製・九二式印字機(特型)』。
樋端久利雄大尉はそのカバーを開け、複雑に噛み合う15個の円盤を愛おしげに撫でた。
遅れて入ってきた東郷一成少将が、それを覗き込む。
「……これが、新しい暗号機か。随分とデカくて重いな。今までの九一式の倍はあるぞ」
東郷が、訝しげに言った。
「ええ。ですが吐き出す暗号の強度は、九一式とは次元が違います」
樋端は、半開きの口元に自信の笑みを浮かべた。
「従来の暗号機は、文字を打つごとにローターが『1段ずつ』あるいは『規則的なパターン』で回転していました。しかし、それでは統計学的に解析される隙(周期性)が生まれます。
そこで、ローターを三つのグループに分けました」
樋端は、内部の構造を指差した。
「手前の5つが『暗号ローター』。文字を変換します。
奥の5つが『制御ローター』。
そして真ん中の5つが『インデックスローター』です。
……打鍵するたびに、制御ローターが電気信号を複雑に乱数化し、それをインデックスローターが受け取り、『暗号ローターのどれを、何段動かすか』を完全に不規則に決定します。
つまり1文字打つたびに、機械自体がサイコロを振って、文字の変換ルールを永遠に変え続けるのです」
「……規則性がない? ならば、傍受した敵がどんなに計算しても……」
「解けません」
樋端は即答した。
「ローターの初期配置と日鍵(毎日の暗号設定)を知らない限り、仮に同じ文字を1万回打っても、決して同じ暗号文は出力されません。数学的に、解析は不可能です」
「いや、不可能ではない」
東郷が、静かに遮った。
「敵に無限の時間、無限の計算機、無限の傍受文を与えれば、どんな暗号もいつかは破れる。樋端君、言葉は正確に使いたまえ」
「……失礼しました。実用上、解読不能です」
「それでよい」
東郷は満足げに頷いた。
そこに、エミリー・クリハラの作ったアップルパイを土産に、大使館付属事務所から戻ってきた潜水艦出身の木梨鷹一大尉が入ってきた。
だが、現場の男である木梨は機体の中身を一瞥した瞬間に、現実的な問題に気づいた。
「理屈は大体分かった、樋端。だがな」
木梨は、複雑に絡み合った接点と細い配線を指差した。
「軍艦の中は、お前のきれいな頭脳とは違うんだぞ。
常に波で叩きつけられる振動。主砲を撃った時の凄まじい衝撃。そして何より、塩の混じった湿気だ。
こんな繊細で複雑な電気接点の塊……海の上に持って行ったら、三日で塩を吹いてショートするか、振動で接点がズレて『撃て』が『退け』に誤変換されるポンコツになるぞ」
木梨の指摘は、極めて正確だった。
どんなに理論が完璧でも、物理的な耐久性がなければ兵器にはならない。それが史実のアメリカ軍がSIGABAを実用化するまでに、血の滲むようなテストを繰り返した理由だった
「……だから、買った」
東郷が、静かに口を挟んだ。
「買った?」
「木梨君。我々がスウェーデンの『エリクソン社』に出資し、通信とリレー制御の技術を抱え込んだのを覚えているだろう?
この九二式の神経(リレー回路と接点)は、全てエリクソンの最高級パーツを使用している」
東郷は、さらにローターの金属部分を指差した。
「そして、不規則に回転する15個のローターをミリ単位で支える軸受け(ベアリング)はスウェーデンSKF社製。
電気接点の摩耗を防ぐ金・白金合金と、防湿用の密閉筐体は、スイスの時計職人(Dixi社)に特注したもの。
……木梨君。この箱の中には、我々が世界中から『NCPC債』で得た資金力で買い集めた、欧州の最高峰の精密工業技術が全て詰まっているのだ」
木梨は絶句した。
日本の脆弱な工業力という「弱点」を、東郷は惜しげもない外貨の暴力で、最初から外部委託して解決していたのだ。
「……なるほど」
木梨は呆れたように笑い、そしてアップルパイをかじった。
「なら、こいつは潜水艦の底でも、戦艦の艦橋でも、オモチャのように狂わずに動き続けるってわけだ。
それで、東郷の大将。IBMだけでも正直やり過ぎだと思っていましたが……今度はAT&Tですか」
木梨は九二式印字機特型の横に置かれた新しい接続盤を見て、半ば呆れたように言った。
黒い金属板には、ずらりと端子が並んでいた。九二式本体、穿孔テープ装置、印字電信機、回線試験器、そして小型の交換盤へと線が伸びている。
「……暗号機に電話会社を繋げて、何をするつもりです」
「電話会社ではない。通信網だ」
東郷は訂正した。
樋端は、興奮で頬を紅潮させていた。
「ウェスタン・エレクトリックの交換機用リレーです。接点寿命、復帰速度、絶縁性能、どれも我が国の海軍工廠品とは桁が違う。さらにベル研究所の回線試験法を応用すれば、通信所の遅延や断線を事前に検出できます」
「つまり、暗号を強くするだけではないのか」
木梨が尋ねた。
「暗号は九二式が守る」
東郷は接続盤に手を置いた。
「IBMは『鍵と記録』を守る。AT&Tは『回線』を守る。どれか一つが欠けても、海軍の通信は死ぬ」
木梨は黙った。
その言葉は、航海屋には痛いほどよく分かった。
どれほど強い暗号でも、届かなければ無意味だ。
どれほど速い命令でも、敵に読まれれば毒になる。
どれほど正しい命令でも、違う相手に届けば災害になる。
「それで、AT&Tは素直に技術を出したのですか」
木梨が聞いた。
「出したのではない。売ったのだ」
東郷は平然と言った。
「我々は1929年の市場でAT&Tを支えた。その系列のウェスタン・エレクトリックには上海、満洲、南米港湾向けの交換機と海底線中継設備を発注している。
ベル研究所には、熱帯・艦船環境における長距離通信の研究委託を出していた」
「……それは、軍事研究では?」
「商業通信研究だ」
東郷は、微笑んだ。
「港湾の電話が湿気で止まれば、商人が困る。船舶代理店の電信が混雑すれば、保険会社が困る。長江の救援物資の配送指示が遅れれば、赤ん坊が困る。
実に平和的な研究ではないか」
木梨は、深くため息をついた。
「その平和的な研究が、九二式に繋がっている」
「偶然だ」
「偶然にしては、線が太すぎますって」
樋端は、少し震える声で言った。
「これは……連合艦隊の神経網です」
東郷は頷いた。
「そうだ。連合艦隊は砲で考えるのではない。通信で考える。ならば、神経網を最も先に近代化するのが道理だ」
木梨は、接続盤を睨んだ。
「しかし東郷の大将。これがアメリカ政府に知られたら、大騒ぎになりますよ。日本海軍がAT&Tの技術で暗号通信網を作っている、と」
「知られるだろう」
東郷は、あっさりと言った。
「構わん。彼らは怒る。議会で叫ぶ。新聞は『日本海軍がアメリカの電話会社を買った』と書く。
だが、契約書は『商業通信設備の購入』であり、研究委託は『熱帯港湾の回線信頼性向上』だ。
大恐慌で青息吐息のアメリカの通信産業にとって、我々の大口発注は命綱だ」
東郷は、薄く笑った。
「自由市場の国が、自分たちで売ったものを買われたからといって怒る。実に興味深い」
木梨は苦笑し、アップルパイを吞み込んだ。
「また敵を増やしますね」
「敵ではない」
東郷は言った。
「債権者と納入業者だ。どちらも我々が支払いを続ける限り、完全な敵にはなれん」
東郷は、ヨーロッパの方角を見ながらエミリーの作ったアップルパイをつまんだ。
「さあこの新兵器を使い、想定より一年は持たせたオーストリアのクレディアンシュタルトという爆弾に対応しようじゃないか。
九二式の最初の実戦テストだ。スイスの加納に暗号電文を打て。
……しかしこのパイは美味いな。リンゴの酸味とシナモンの香りが絶妙だ」
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