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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第三章

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ノルトヴォレ

 時:1932年

場所:ワシントンD.C. 日本大使館付属事務所


 その日の午後、事務所の空気は、紙とインクの匂いではなく、甘く香ばしい匂いに包まれていた。

「……ミス・クリハラ。このアップルパイという構造物は、熱力学的に非常に不安定な状態で提供されるのですね」

 橘小百合が、フォークに刺した熱々のパイを無表情に見つめていた。


「小百合さん、それは『焼き立てだから熱い』って言うんですよ」

 エミリー・クリハラは、ふふっと笑いながら新しい紅茶を淹れた。

「西海岸にいた頃、母から教わったレシピなんです。私たち日系の移民は、日本の食材が手に入らないから、地元の果物や小麦粉を使ってアメリカの味を覚えるしかなかったんです。でも、結構おいしいでしょう?」


「肯定します。高いカロリーと糖分は、長時間の任務において極めて有効です」

 小百合は、モグモグとパイを咀嚼した。


「エミリー君、お茶のおかわりを頼めるか。あと、パイももう一切れ」

 奥のデスクから、木梨鷹一大尉が書類の山から顔を出した。

「しっかしまあ、君がこの事務所に来てから、俺たちの食生活は劇的に改善されたな。俺はドンガメ上がりの雑なメシしか作れんからな」


「お役に立てて嬉しいです」

 エミリーは、木梨のマグカップに紅茶を注いだ。

 だが、彼女の真の価値はアップルパイを焼くことではない。


「……あ、木梨さん。昨日届いたウィーンとブレーメンからの新聞ですが」

 エミリーは、エプロンを外して自分のデスクに戻ると、いくつかスクラップした記事を並べた。

「東郷さんから『観測せよ』と言われていた件です」


 小百合の目が、一瞬にして変わった。

 数日前。

 東郷一成から短い電文が届いていた。

 宛先は橘小百合。写しは木梨大尉。そして欄外に小さく、鉛筆でこう書かれていた。


『Miss Kurihara may read.(クリハラ嬢にも読ませよ)』

 エミリーは、その文字を見て少しだけ眉をひそめていた。

「……私が読んでもよい、ではなく、読め、という意味ですね」


「その通りです」

 小百合は淡々と答えた。

 電文の本文は短かった。


『そちらに回す1931年ウィーン商業紙の、広告欄の変化を観測せよ。

 ブレーメン・ハンブルク発ニューヨーク向け羊毛・梳毛糸船荷を抽出。

 荷主名義と信用状発行銀行を照合。

 ノルトヴォレ関連求人広告の消失時期を確認。

 ラフーゼン一族の社交欄露出を記録』


「……ノルトヴォレ?」


 小百合は、机の上にもう一束の資料を置いた。

「北ドイツ羊毛梳毛紡績。ドイツ最大級の繊維企業です」


「羊毛会社、ですか」

「はい」


 エミリーは資料をめくった。

 羊毛。梳毛糸。紡績。ブレーメン。ダナート銀行。ニューヨーク・ガーメント地区。合衆国銀行。

 そこまで読んだところで、彼女の指が止まった。


「……おかしい」

「何がですか」


「この会社、求人を止めて在庫処分の広告を出しているのに、同じ月にニューヨーク向けの船腹予約が増えています」


 小百合は黙って続きを促した。


「普通、苦しい会社は在庫を安く売ります。でも、この広告の文面は安売りではありません。むしろ“安定供給”“優先契約”“品質保証”と書いてあります」


 エミリーは、別の紙を引き寄せた。

「それから、ニューヨークのアパレル業者の広告が変わっています。先月まで“国産生地を応援”と書いていたのに、今月は“欧州梳毛による高級既製服”になっています。しかも、融資広告の欄に合衆国銀行の名前があります」


 小百合の瞳が、わずかに細くなった。

「続けてください」

「これは……ホテルで言えば、潰れかけた客室を安く投げ売りしたのではなく、支配人が常連客に“特別室”として売り直したようなものです」


 エミリーは、少し自信なさげに言った。

「在庫処分ではなく、在庫の名前を変えたのではありませんか」


 木梨大尉が、机の向こうで低く口笛を吹いた。

「橘さん。大将(東郷)が言っていた“見つけるだろう”というのは、これか」

「おそらく」


 エミリーは二人を見た。

「何か、知っているのですか」

 小百合は答えなかった。代わりに、東郷から届いた別紙を開いた。

 そこには、東郷のやや雑な筆跡で注記があった。


『合衆国銀行・特別融資枠実行通知』

『ニューヨーク・ガーメント地区協同組合より、独・ノルトヴォレ社に対し、羊毛在庫の全量買い取りを発注。決済はドル現金にて即時実行』


『軍隊を動かすには、鉄や油と同じくらい、圧倒的な量の『繊維』が必要になる。ドイツの最新の紡績技術と、巨大な生産ライン。それが、たった約4,800万ライヒスマルク(1,140万ドル)の端金で手に入った。

 ……一国を救ったお駄賃としては、悪くない買い物だろう?』


 エミリーは、その文字を見つめた。

「……東郷さんが、これをやったのですか。羊毛の在庫を、服に変えた」

「はい」

「そして服に変わる前に、銀行の担保価値を戻した」

「はい」


 エミリーは、しばらく黙っていた。

 彼女の頭の中で、ホテルの台帳が勝手に開いていく。

 予約のない部屋。支払い不能の客。売れ残った食材。

 だが支配人がそれを宴会用に組み替え、常連客に売り直せば、損失は売上に変わる。


 ただし。

「それでも、帳簿の嘘は消えません」

 エミリーは小さく言った。


 小百合が彼女を見た。

「はい。消えません」


 木梨が苦笑した。

「君、十五歳だよな」


 エミリーは少しむっとした。

 その時、部屋の隅の電話が鳴った。


 小百合が受話器を取った。

「橘です。……はい。……はい、閣下」

 東郷からだった。小百合は数秒だけ黙って聞き、受話器をエミリーへ差し出した。

「ミス・クリハラ。閣下が直接お話しになるそうです」


 エミリーは、少しだけ背筋を伸ばして受話器を取った。

「……エミリー・クリハラです」


 受話器の向こうから、いつもの穏やかな声が聞こえた。

『資料を読みましたか』

「読みました」

『何を見つけましたか』


 エミリーは、机の上の広告欄を見た。

「ノルトヴォレは、在庫を捨てたのではありません。買い手を変えて、在庫の名前を変えました」


『続けて』


「ダナート銀行は、羊毛会社への融資で死にかけています。でも、羊毛在庫がニューヨークの衣料品需要に接続されれば、その融資は死ななくなります。少なくとも、少しの間は」


 受話器の向こうで、東郷が小さく笑った気がした。


「ですが、帳簿の嘘は残ります。ラフーゼン家を残してはいけません。ホテルで言えば、満室の日に金庫の鍵を盗んだ帳場係を、翌日も帳場に座らせるようなものです」


 小百合が、ほんのわずかに瞬きを遅らせた。

 木梨は声を殺して笑った。

 

『……ミス・クリハラ』

「はい」

『あなたには、ノルトヴォレの再建報告書の欄外注記を担当していただきます。欄外注記に、あなたの名前を残します』


 エミリーは、言葉に詰まった。

 記録される。

 自分の言葉が、日本海軍の正式な報告書に、アメリカ市民である自分の名前とともに刻まれる。

 その言葉だけで、少しだけ胸が痛んだ。


「私が、ですか」

『ええ』

「私は、銀行家ではありません」

『知っています』

「繊維業の専門家でもありません」

『それも知っています』


「では、なぜですか」

『あなたは部屋代を払った者と、予約した名前が違うことに気づく』

 東郷の声は、静かだった。

『それで十分です』


 エミリーは、少しだけ唇を尖らせた。

「……東郷さんは、いつも人を変な仕事に巻き込みます」


『よく言われます』

「褒めていません」


 木梨がついに吹き出した。

 エミリーは、受話器を握ったまま頬を赤らめた。


『ミス・クリハラ』


「……はい」


『よく見つけました』

 その一言は、短かった。

 だがエミリーは受話器を握ったまま、しばらく返事ができなかった。


 電話を切った後、エミリーは小さく息をつき、テーブルの上のアップルパイの皿を片付け始めた。

「……木梨さん、小百合さん。おかわり、食べますか?」

 彼女の顔には、少しだけ大人びた、しかし誇らしげな微笑みが浮かんでいた。



 時:1931年

場所:ベルリン、ライヒスバンク総裁執務室


 ヒャルマル・シャハトは、机の上に置かれた三つの書類を眺めていた。


 一つは、ドルニエ社契約破棄に関する国防省報告書。

 一つは、ノルトヴォレ社の在庫評価表。

 一つは、ダナート銀行の融資明細である。


 どれも違う事件の書類だった。

 だが、シャハトには同じに見えた。


「……まただ」


 彼は低く呟いた。

 部屋の空気は、氷のように冷えていた。

 さらに国防省から派遣された連絡将校が、死人のような顔で立っている。


 誰も口を開かなかった。

 シャハトは、まずドルニエの報告書を持ち上げた。


「前に国防軍の愚か者が、日本の民間人に薬を盛って写真を撮ろうとした。その結果、我々は1,500万ドルの契約を失い、私はハンブルクまで走って、東郷一成に頭を下げる羽目になった」


 連絡将校が、唇を噛んだ。

 シャハトは次に、ノルトヴォレの書類を叩いた。


「そして今度は羊毛だ」


 声は低かった。だが、その低さこそが危険だった。

 ヤコブ・ゴールドシュミットは、顔色を失ったまま立っていた。ダナート銀行の頭取。ドイツ金融界の寵児。ベルリン社交界の名士。だが今この部屋では、破産寸前の帳場係にすぎなかった。


 その横には、ノルトヴォレ社の経営を私物化していた、ラフーゼン家の代理人が並んでいる。誰もが、目の前の小柄な銀行家を直視できずにいた。


「私は君たちに、一つだけ質問したい」

 シャハトは眼鏡の奥から彼らを見た。

「ドイツ銀行界は、いつから羊毛商人の賭博場になったのだね」


 誰も答えなかった。


「答えろ、ヤコブ・ゴールドシュミット」


 名を呼ばれた男の喉が鳴った。


「総裁閣下、ノルトヴォレはドイツ繊維産業の柱であり――」


「柱ならば、腐っていないか叩け!」

 シャハトの声が、初めて部屋を震わせた。


「粉飾した帳簿を輸出産業と呼ぶのか。一企業の自己資本の八割(4,800万ライヒスマルク)を突っ込むことを、近代銀行業と呼ぶのか。羊毛価格が上がるという祈祷に、ライヒスバンクの信用を人質として差し出すことを、金融と呼ぶのか」


 ゴールドシュミットは黙った。シャハトは、次の書類を取り上げた。


「そして君たちノルトヴォレだ。ラフーゼン兄弟はどこにいる」


「本日は、体調不良により――」


「体調不良?ドイツ産業の体調を悪くした連中が、自分だけ病床に逃げ込むとは、実に健康的な判断だな!」


 書類が飛んだ。

 空中を舞った紙片が、ノルトヴォレの代理人の足元へ散った。


「君たちは羊毛を買った。大量に買った。価格が上がると信じて、一年分を買い占めた。そこまではよい。投機に失敗する経営者など、世界中にいる」


 代理人が、わずかに顔を上げた。

 だが次の瞬間、シャハトの目が刃物のように細くなった。


「問題は、失敗したことではない。隠したことだ」


 部屋の空気が止まった。


「1925年から帳簿を粉飾し、損失を隠し、銀行から金を引き出し、なお会社の体裁を保っていた。君たちは経営者ではない。詐欺師だ」


「そ、総裁、それは――」


「分かっているのか。君たちのせいで、私は何を飲まされた?」


 彼は机上の別紙を指で叩いた。


「日本海軍だ」


 その言葉だけで、室内の男たちがわずかに身じろぎした。


「極東の海軍軍人が、ニューヨークの衣料市場と合衆国銀行を通じて、君たちの腐った羊毛在庫に買い手をつけた。ダナート銀行の債権を整理した。ノルトヴォレの再建条件に、経営陣の退場と帳簿監査、役員の派遣を入れてきた」


 シャハトの唇が歪んだ。

「なぜ、私がそれを拒めなかったと思う」

 誰も答えなかった。シャハトの声が、さらに低くなった。


「ドイツを守るためだ。君たちが守れなかったドイツをだ」


 ゴールドシュミットが、かすかに口を開いた。

「総裁閣下、我々としても、当面の流動性が確保されれば――」


「黙れ」

 シャハトは即座に遮った。


「君たちの『当面』が、何度この国を破滅させるのだ。戦争、粉飾帳簿。いつも同じだ。今日だけ凌げば明日は誰かが助けてくれる。そうやって最後に呼ぶ相手が、日本海軍とはな」


 彼は深く息を吸った。


「いいか、よく聞け。ノルトヴォレは解体される。ラフーゼン家は退場する。帳簿は洗い直す。ダナート銀行の対ノルトヴォレ債権は再編される。日本側が買い取る分は買わせる。だが、ドイツ国内の監督権だけはライヒスバンクが握る」


「しかし、日本側の条件では――」


「条件?」

 シャハトは冷笑した。

「条件を出す資格が、君たちにまだ残っていると思うのかね」


いつもお読みいただきありがとうございます。


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カイグン謎の巨大洗濯機とはエミリー・クリハラの事だったのか。 帳簿を捲って裏にこびり付いた汚れの痕跡を探り、問題点やタスク、アイデアを洗い出して可視化する。 世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに(ーR…
ここまでやらかしが続くと史実よりも国防軍とナチスの結びつきが早くなるかもしれませんね。まあ、やらかしまくってる国防軍と手を組むことにヒトラーの方はあまり良い顔をしなさそうですが。
シャハトと言えど、オシントしている相手が海軍士官でなくアメリカ人の少女とは想像出来ないだろうなあ。
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