台帳に載った少女
時:1932年(昭和七年)
場所:メリーランド州ボルチモア、ジョンズ・ホプキンス大学・マクマリー教授室
講義を終えたマクマリーは、自室の重いオーク材のデスクに腰を下ろした。
窓の外では、ボルチモアの冬空が灰色に沈んでいる。
机の上には、日本語の新聞、上海の商業電報、銀行広告、そしてNCPC債に関する怪しげな目論見書が積み重なっていた。
「お久しぶりです、公使殿……いや、今はマクマリー教授でしたな」
ドアの影から、一人の男が静かに姿を現した。
上質な仕立てのスーツを着こなし、その足運びには一切の隙がない。
東郷一成だった。
「……ミスター・トーゴー」
マクマリーの目が、わずかに見開かれた。書類の山を前にして、来客の顔を見た。
「君は、昔から人に面倒を持ち込むのが上手いな、東郷少将」
東郷は椅子に腰を下ろすと、薄く笑った。
「褒め言葉として受け取っておきます、教授」
「褒めてはいない」
マクマリーは、机の引き出しから古いファイルを取り出した。
表紙には、擦り切れた文字でこう書かれていた。
Beijing, 1928.
「覚えているかね。北京で君が張作霖に会いたいと言い出した時のことを」
「もちろんです」
「私はあの時、君をアメリカ公使館の随行員として宴席に紛れ込ませた。国務省に知られれば、私の首が飛んでもおかしくなかった」
「結果として、張作霖は生き残りました」
「そして、私の報告書はスティムソンに握り潰された」
マクマリーの声には、皮肉よりも古い疲労が混じっていた。
「私はあの時、北京の混沌の中で、歴史が動く瞬間を見た。だがワシントンは見なかった。いや、見ようとしなかった。蒋介石の言葉の方が、美しく聞こえたからだ」
東郷は黙っていた。
「だから私は、今日の講義を開いた。アメリカ人に、せめて見たものを見たまま理解させるためにだ。……そこへ君が現れる」
「偶然です」
「嘘をつけ」
マクマリーは短く言った。
東郷は少しだけ肩をすくめた。
「では、半分だけ偶然です。ウォール街で用件がありましたので」
「長江救済・塩税収益債か」
「ええ。売れ行きは好調です。アメリカの善意は、利回りが付くとさらに美しく見える」
マクマリーは、額に手を当てた。
「それで、今日は何の用だ。中国事情の助言か」
「ええ。南京から江浙財閥。彼らはこれから、我々の制度に罵声を浴びせながら、同時にそれを使おうとするでしょう。その時、彼らがどこで嘘をつき、どこで本音を漏らすかを読む人間が必要です」
マクマリーは、すぐには答えなかった。
「それを私に読ませると」
「貴方は中国を知っている。しかも、愛しすぎて盲目になるほど若くはない」
東郷は、そこで初めて真面目な声になった。
「南京は崩れかけています。現実を理解しているのは宋子文くらいですが、政府そのものは信用できない。しかも蒋介石ともども下野した。汪兆銘は泥船の南京には戻らない。広東は独自路線を取る。張作霖は笑いながら保証料を取り続ける」
「よく分かっているではないか」
「分かっているつもりでいる人間ほど、見落とします」
東郷は、机の上の上海新聞を指先で叩いた。
「私はしばらく、中国を正面から見続けられません」
マクマリーの目が細くなった。
「……欧州か」
「ええ」
部屋の空気が少し冷えた。
「オーストリアのクレディは、まだ立っています。表向きは」
「君が延命したからだろう」
「傘下企業へ、3,000万ドルの注文を前払いで流しただけです。機械、鋼材。彼らには酸素になった。ですが、治っていません。一年遅らせるのが限界でした」
東郷は淡々と言った。
「駐米武官の君が、そうそう欧州へ飛ぶわけにもいくまい」
「その通りです。だから、目が必要です。それも、日本人以外であることが望ましい」
マクマリーは、すぐに理解した。
「ミス・クリハラか」
東郷は頷いた。
「彼女に、日本海軍の欧州向け行動を“観測”させたい」
「観測?」
「ええ。学術研究の名目です。貴方の研究室から派遣された調査員として、資料を読む。新聞を読む。商業電報を読む。可能ならば、企業広告、船舶運賃表、銀行の求人広告まで」
「君のためのスパイにしろ、と?」
東郷は即答した。
「いいえ、観測者です」
「言葉を綺麗にしただけだ」
「では、こう言いましょう。私は彼女に、盗ませたいのではありません。書かれているものを読ませたい」
マクマリーは、しばらく沈黙した。
北京でのあの夜。張作霖を「生かして使う」という、誰も思いつかなかった解を提示した、目の前の男。
その時、教授室の扉が控えめに叩かれた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「……入りたまえ」
マクマリーが声をかけると扉が開き、エミリー・クリハラが姿を見せた。
講義の時と同じ濃紺のワンピース。白い襟。大きい胸に抱き抱えたノート。彼女は部屋の中に東郷がいることに気づき、一瞬だけ足を止めた。
「先生、コーヒーをお持ちしました」
マクマリーは、疲れたように椅子へ深く腰掛けた。コーヒーカップを受け取る。
「ありがとう、ミス・クリハラ。……君の今日の見解は、見事だったよ。私の知る限り、あの『NCPC債』の本質をここまで正確に言語化した人間は、君と……もう一人しかいない」
「……もう一人、ですか?」
エミリーが首を傾げた。
「ああ。その君の将来について、悪い大人たちが相談しているところだ」
エミリーは、少し困ったように東郷を見た。
「お久しぶりです、ミス・クリハラ」
東郷は丁寧に会釈した。
「今日の質問は見事でした。有事の予約台帳。あれは、私自身も使いたくなる言葉です」
「……使わないでください、東郷さん」
エミリーは、思わず言った。
マクマリーが微かに笑った。
東郷も、ほんの少しだけ目を細めた。
「では、借用は控えましょう」
東郷の声は、穏やかだった。
「翻訳者なら、金を出せば雇えます。だがあなたは先ほど、NCPC債を『有事の予約台帳』と呼んだ。それは翻訳ではない。理解です」
「少将。彼女はまだ子供だ」
マクマリーの声が低くなった。
「存じています」
「彼女は正式な学生ですらない」
「だからこそ、貴方がたの講堂で白い目で見られている」
その言葉は静かだったが、鋭かった。
東郷は続けた。
「この国では、彼女は日本人の名を持つために疑われる。日本では、彼女はアメリカの言葉を持つために疑われるでしょう。つまり彼女は、どちらの国の物語にも完全には収まらない」
彼は、少しだけ目を細めた。
「だから帳簿を読むのに向いている。帳簿は国旗より正直ですから」
マクマリーは長い沈黙の後、言った。
「彼女を何に使うつもりかね」
「書かれないものを探すこと」
エミリーは、ノートを胸に抱きしめた。
この男は、自分の孤独を慰めてくれているのではない。
この男は自分の孤独を、最高の「武器」として評価してくれているのだ。
それが分かった。分かったのに、不思議と腹は立たなかった。
東郷はエミリーを見た。
「銀行の破綻は、破綻した日に始まるのではありません。求人広告が変わり、企業の注文書が短くなり、役員の名前が新聞から消え、誰かがホテルの予約を取り消した時には、もう始まっています」
エミリーの指が、ノートの端を押さえた。
ホテルの予約。
その言葉だけで、彼女には分かった。
この人は部屋の名前ではなく、誰が本当に部屋代を払ったかを見ろと言っているのだ。
「東郷さん。私は、何を書けばいいのでしょう」
⸻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館付属事務所
外から見れば、そこはただの古い煉瓦造りの建物だった。大使館本館から少し離れ、表札も控えめで、出入りする者も多くはない。
だが中へ入れば、そこには奇妙な帳簿の巣があった。
ワシントンの乾燥した空気が窓ガラスを叩く中、この事務所は膨大な書類の山と、紙の乾いた匂いに支配されていた。
アメリカの各種経済統計、地方紙の切り抜き、ウォール街の取引記録、そしてヨーロッパ各国の商務電報。
その紙の海の中央で、一人の少女が猛烈な勢いでノートにペンを走らせていた。
エミリー・クリハラ(15歳)。
「マクマリー教授研究室所属の調査助手兼連絡員」として、ジョンズ・ホプキンス大学から派遣(実質的な引き抜き)された日系二世の少女だ。
「……ミス・クリハラ」
背後から、平坦で抑揚のない声がした。
「紅茶の温度が適温から逸脱しつつあります。摂取を推奨します」
エミリーが振り返ると、そこには黒いドレスに白いエプロンという、いかにも「英国風メイド」の出で立ちをした少女が立っていた。
橘小百合(18歳)。
透き通るような白い肌。そして何より、感情の起伏を一切感じさせない硝子玉のような瞳が特徴的だ。だがその顔立ちは、エミリーが想像していた日本人女性とは少し違っていた。
「ありがとう、小百合さん」
エミリーは、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
「でも、その格好……本当に、毎日大変ね」
「任務ですから」
小百合は、一ミリも表情を変えずに答えた。
「私の主任務は東郷閣下の護衛ですが、現在の副任務は『大使館における欧米人来客への威圧と幻惑』です。この衣装は、そのために最適化されています」
そこへ書類の束を抱えた木梨鷹一大尉が、呆れたような顔で入ってきた。
彼は私服姿だった。
「……橘さん。君がその格好で無表情に立っていると、欧米の記者やロビイストたちが『東郷提督は、ロシアの亡命貴族をメイドとして飼っている』と本気でビビるんだが。……まあ、防諜効果は抜群だがね」
木梨は、エミリーの隣に書類と差し入れの菓子を置いた。
「お疲れ様、エミリー君。追加の資料だ。
……しかし君たち二人が並んでいると、本当にここは日本の大使館か疑わしくなるな」
木梨は、苦笑しながら二人を交互に見た。
赤みがかった髪と大きな胸、西海岸の太陽を思わせるエミリー。
ロシアの血を引き、雪のように白く、冷徹な小百合。
「私服で街を歩いていたら、絶対に軍人どころか日本人にも見えないぞ。
大将(東郷)も、とんでもない『裏の顔』を二つも揃えたものだ」
「ミス・クリハラは軍人ではありません」
木梨は「そういう問題ではなく」と肩をすくめた。
「……小百合さん」エミリーは、ふと小百合を見上げた。
「東郷さんがヨーロッパで立ち回っていた時……小百合さんは、ずっと東郷さんの側にいたのですよね?」
「いいえ」
小百合は、本当に微かに視線を逸らした。
「私はその間、ワシントンで……東郷大佐の『留守番』をしておりました」
「留守番?」エミリーが首を傾げる。
「ええ。監視員を欺くために、大佐の軍服を着て、窓際で3分間直立不動の姿勢を維持し、コーヒーの匂いを漂わせ、規則正しい足音を立てるという……極めて高度な欺瞞作戦を」
「…………え?」
エミリーは、目をぱちくりとさせた。
「……あの東郷さんの軍服を、小百合さんが……?」
エミリーの視線が、小百合の胸元と、自分の胸元を交互に彷徨う。
「……コルセットと、サラシを併用しました。胸郭の圧迫による呼吸困難は、精神力で克服可能です」
小百合は極めて真面目な顔で、しかしどこか早口で答えた。
「ぷっ……あはははは!」
エミリーは、堪えきれずに吹き出した。
こんな美少女がサラシを巻いて足音の真似をしていたなんて。
「……笑い事ではありません、ミス・クリハラ。伊藤中佐の胃壁は、あの作戦でダメージを受けました」
小百合は少しむくれたように言ったが、その瞳の奥には、かすかな親愛の色が浮かんでいた。
「ごめんなさい、小百合さん。でも……なんだか、少し安心したわ」
エミリーは、涙を拭いながら言った。
「東郷さんのやってることは、世界をひっくり返すような恐ろしいことばかりだけど。
でも、周りにいる人たちは……あなたも、木梨さんも、みんな、とても人間らしいから」
「……人間、ですか」
小百合は、自分の手を見つめた。
かつて尼港で家族を失い、感情を殺してきた自分が、今、この日系二世の少女から「人間らしい」と言われている。
「……私は、閣下の『盾』です」
小百合は、静かに、しかし確固たる意志を持って言った。
「そして……もし貴女が、その『目』で見た真実のために危険に晒される時が来たら。
私が、貴女の盾にもなります。……約束します、エミリーさん」
エミリーは少し驚いたように小百合を見つめ、そして、太陽のように明るく微笑んだ。
「ありがとう、お姉ちゃん(シスター)」
言ってから、エミリーは自分の言葉に驚いたように目を瞬かせた。
「……今のは、記録しないでください」
「記録済みです」
「小百合さん」
「冗談です」
「絶対に冗談ではない顔でした」
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