防爆壁、起動
時:1932年(昭和七年)、春
場所:ワシントンD.C. 日本大使館付属事務所
その部屋には、IBM製のパンチカード集計機が発する、規則正しくも暴力的な機械音が響き続けていた。
だがエミリーの耳には、その音よりもはるかに巨大な「地鳴り」が聞こえていた。
「……ミス・クリハラ。糖分の補給を推奨します」
黒いメイド服姿の小百合が、新しいオレンジジュースを机に置いた。
「ありがとう、小百合さん。でも……今はそれどころじゃなくて」
エミリーの青白い顔には極度の集中と、得体の知れない恐怖が張り付いていた。
彼女の机の上には、ヨーロッパの各都市――ウィーン、ベルリン、パリ、ロンドンから、AT&Tの最新鋭多重回線を通じて送られてきた、膨大な商業電報と新聞記事のデータが山積みになっている。
「……小百合さん。東郷さんを呼んでください。
『時限爆弾のタイマーが、ゼロに近づいています』って」
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数分後、東郷一成少将と副官の樋端久利雄大尉が地下室に降りてきた。
エミリーは、大きな黒板に三つのグラフを書き出していた。
「……観測結果を報告します」
エミリーの声は少女のままだが、その内容は大人びた冷徹さを帯びていた。
「まず、ウィーンの新聞広告です。
先月から、高級自動車や宝石、美術品の『売り急ぎ』の個人広告が異常なペースで増えています。一方で、CA銀行の公式発表は『業績は安定、配当は維持』です」
エミリーは、次のグラフを指した。
「次に、オーストリア国鉄の貨物輸送データ。
CA銀行の傘下にある企業群のうち、日本海軍が前払い金を入れていない企業……つまり、純粋な国内向け産業の貨物移動量が、前年比で40%落ち込んでいます。工場が止まっている証拠です」
エミリーは、チョークを置いた。
史実では1931年5月に起きたCA銀行の破綻。
東郷の資金注入によって約1年延命されたその怪物は、内部の腐敗を極限まで溜め込み、史実の数倍の破壊力を持つ「超新星爆発」を起こそうとしていた。
「……見事だ、エミリー君」
東郷は、満足げに拍手をした。
「やはり君の『目』は正確だ。私が計算した爆発の時刻と一致している。
あえて追加するなら、パリとジュネーブの短期金融市場でフランス系の銀行が、先週から密かに、そして急速に、オーストリア向けの短期貸付コールローンの借り換えを拒否し、資金を引き揚げ始めている」
樋端が、青ざめた顔で尋ねた。
「少将。我々の当初の推定よりも、被害規模が大きすぎませんか?
これだけ大穴が空いているなら、オーストリア国家の全予算をつぎ込んでも足りません。オーストリアは破産します!」
「そうだな。「フランスが打った『5000万ドルの延命薬』は、完全に尽きた。
……CA銀行は、もう実体としては死んでいる。彼らは今、新しい借金で古い借金の利子を払う段階にいる。
破綻の公表は、早ければ来月。遅くとも今春中には確実に起きる。
政府による損失保証は数学的に完全に不可能となり、オーストリアという国家自体が即日デフォルト(債務不履行)に陥る。そしてオーストリアが破産すれば、連鎖的にドイツに火がつき、ロンドンの『ポンド』が燃える」
東郷は、懐からメモ帳を取り出した。
「だからこそ、我々は血の滲むような思いで『防爆壁』を構築してきたのだ」
東郷は黒板に書かれたエミリーのデータの横に、代わりに四つの単語を書いた。
【一、AT&TとIBM(情報通信網)】
「金融パニックが起きれば、真っ先に欧州の通信網はパンクし、検閲がかかる。
だが我々は、AT&TとIBMの技術を導入した最新回線と暗号機を持っている。世界の誰も真実を知らない中、我々だけが『クリアな視界』で市場の混乱を見下ろし、指示を出すことができる」
【二、モナコ公国のGesco(法務防壁)】
「CA銀行が破綻すれば、フランスは血眼になってオーストリアの工場資産を差し押さえようとするだろう。
だが、その法的権利(Gescoの債権)は我々がモナコの法廷で完全にロックしている。フランスは一歩も手を出せず、我々は無傷で工場からの出荷製品を日本へ持ち出せる」
【三、ノルトヴォレの羊毛(ドイツ防壁)】
「オーストリアの火の粉がドイツに飛んでも、ドイツ最大の爆弾であった『ノルトヴォレの不良在庫』は、我々がすでにアメリカのアパレル市場を使って処理済みだ。
ライヒスバンクのシャハト総裁は我々に借りができ、ドイツ経済の致命傷は避けられる」
【四、アルミランテ・ラトーレの改装費(英国防壁)】
「そして最後、大英帝国だ。
イギリスはポンド防衛のために狂乱するだろうが、我々はすでにチリ戦艦の改装費をドルで肩代わりし、イギリス海軍とロイズ保険組合に『恩』を売ってある」
樋端は、息を呑んだ。
バラバラに見えていた東郷の爆買いと投資。
それは全て、来るべき欧州の金融爆発から日本海軍の利益を守るための、計算されたシェルターの建設工事だったのだ。
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時:1932年(昭和七年)、5月
場所:オーストリア・ウィーン、アム・ホーフ広場
歴史の審判は、春とともに訪れた。
その日の朝、ウィーンの空は五月晴れだったが、街を歩く市民の顔は皆、土気色だった。
クレディ・アンシュタルト(CA銀行)本店の重厚な石造りの建物の前には、見渡す限りの群衆が押し寄せていた。
「開けろ! 俺の預金を返せ!」
「ロスチャイルドはどこだ! 詐欺師ども!」
警察の騎馬隊が群衆を押し返そうとするが、絶望に駆られた人々の怒号は収まらない。
前日、オーストリア政府と国民銀行が発表した声明は、あまりにも唐突で、そして破壊的だった。
『クレディ・アンシュタルト銀行において、新たに約21億シリング(約3億ドル)に及ぶ巨額の損失および資産評価損が確認された。
当行の業務は一時停止され、政府主導による再建プロセスに移行する』
21億シリング。
それはオーストリアの国家予算の1年分を超過し、史実における最初の公表損失(1億4,000万シリング)の15倍という、天文学的な数字だった。
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時:同日
場所:フランス・パリ、フランス銀行(Banque de France)総裁室
「……どういうことだ。誰か説明しろ」
エミール・モロー総裁は、手元の報告書を見つめたまま、声の震えを隠せなかった。
「我々が1年前に注入した5,000万ドル(約3億5,000万シリング)は、どうなった?
あの資金でCA銀行の流動性は確保され、中欧はフランスの経済圏に組み込まれたのではなかったのか!?」
呼び出された財務官僚フルニエは、死人のような顔で答えた。
「……総裁。我々の5,000万ドルは、まさに『劇薬』でした。
我々の資金が入ったことで、市場は一時的にCA銀行を安全だと錯覚しました。
その結果……ハンガリーやポーランド、そしてドイツの銀行までもが、自分たちの不良債権や短期外債を、こぞってCA銀行のネットワークに押し込み、借り換え(ロールオーバー)を行ったのです」
「……なんだと?」
モローは絶句した。
「つまりCA銀行は、我々の資金を担保にして、中東欧のあらゆるゴミ債権を吸い込む巨大なブラックホールと化していたのです。
そして……その限界が昨日、一気に弾けました。
我々の5,000万ドルは、その爆発の『火薬』として完全に燃え尽きました。一フランも戻ってきません」
モローは、胸を押さえた。
フランスは「救済者」になるはずだった。だが結果として、中欧の金融危機を極大化させ、日本から借りた5,000万ドルをドブに捨てた最大のピエロとなってしまった。
「……だが、我々にはまだ……日本海軍への支払い義務が残っているぞ」
モローの呟きに、フルニエは青ざめて頷いた。
「はい。我々は日本海軍(BIS口座)から年利3.5%で5,000万ドルを借り、それをCA銀行に6%で又貸し(サヤ抜き)していました。
……CAからの利払い(300万ドル)は消滅しました。
しかし我々は、日本海軍に対して毎年『175万ドル』の利子を支払い、最終的には5,000万ドルの元本を返済しなければなりません。
……それも、フランス政府の責任で」
フランスは、オーストリアを助けるために日本の金を使い、オーストリアが死んだ後も、日本に借金を返し続けなければならない。
究極の屈辱構造だった。
「……国際連盟で、日本を糾弾しろ!」
モローが、狂乱して叫んだ。
「日本がCA傘下の産業を食い荒らしたからだ! 日本が中欧の軍需生産を支配したから、こんなことになったのだと!
ヴェルサイユ体制の危機だ! 今すぐ日本を制裁する声明を出せ!」
だがフルニエは床を見つめたまま、力なく首を振った。
「不可能です、総裁。……『Gesco』の帳簿があります」
その言葉が出た瞬間、総裁室の空気が氷点下まで凍りついた。
1年前。フランスは日本の契約を無効化するため、モナコに『Gesco』というペーパーカンパニーを作った。だが日本海軍にその債権を買い占められ、同時に『フランス政界・財界の裏金リスト』が日本の手に渡ってしまった。
「もし我々が、日本の工場接収を邪魔すれば……日本は必ず、あの裏帳簿を公開します。
そうなれば、フランス政府は倒れ、暴動が起きます。
……我々は、日本を非難することも、彼らの資産を奪うこともできないのです」
「……っ!!」
モローは、机上のクリスタル製インク壺を壁に投げつけた。
インク壺は粉々に砕け散り、黒い染みが壁紙を汚した。
日本を責めれば、自分たちの脱税・汚職リスト(Gescoの帳簿)が世界に暴露される。
第三共和政は崩壊し、パリの街にギロチンが立つ。
「……つまり我々は」
モローは、血を吐くような思いで呻いた。
「毎年金利を払いながら、日本がヨーロッパの工場を略奪していくのを、黙って見ているしかないと言うのか……?」
「……はい」
フルニエが、力なく頷いた。
この日、フランス政府が発表した「CA銀行破綻に関する公式声明」は、世界中の金融関係者を呆れさせるほど、奇妙で歯切れの悪いものだった。
『オーストリア金融機関の内部管理上の問題に深い遺憾の意を表明する。
フランス政府としては、国際協調の必要性を認識し、中欧安定への責任ある関与を継続する用意がある。
なお、一部の不透明な会計処理については、各国当局の冷静な対応を望む……』
それは、泥棒の言い訳のような声明だった。
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時:同日
場所:イギリス・ロンドン、政府暗号学校(GC&CS)
一方、大英帝国の諜報の中枢は、かつてないパニックに陥っていた。
暗号解読班の主任が、吐き気を催すような分厚い紙テープの山を前に、赤鉛筆をへし折った。
「……ダメだ! 全く読めん!!」
主任は、血走った目で部下たちを怒鳴りつけた。
「昨日から、日本大使館と東京、そして欧州各都市を結ぶ通信量が平時の三倍に跳ね上がっている。間違いなく何か重大な事態が起きているのだぞ!
……なぜ解読できない! 奴らの外交暗号のパターンは、大体把握していたはずだろう!」
「暗号機が、変わっています」
部下の数学者が、幽鬼のような声で答えた。
「しかも、通信方式自体がおかしいのです。……一つの回線の中に、複数の電文がグチャグチャに混ざり合って飛んできます。
我々が傍受できたと思っても、それは『横浜正金銀行の為替データ』と『海軍の暗号』と『アメリカへの牛肉とオレンジジュースの発注書』が混線したノイズの塊でしかありません」
主任は頭を抱えた。
「せめて、どこからどこへの通信が増えているか、トラフィック分析(通信量解析)だけでも出せ!
ウィーンか? バーゼルか? 」
「……全部、です」
部下は絶望的なグラフを提示した。
「ベルリン、バーゼル、パリ、ロンドン、ウィーン、東京。全ての拠点間で、均等に膨大な通信が交わされています。
……主任。これでは『日本が何かをしている』ことしか分かりません。
彼らがどこを攻めようとしているのか、何を恐れているのか……輪郭すら掴めません」
情報の世界において、見えないことよりも恐ろしいのは、「膨大な情報があるのに、本命がどれか分からない」ことだ。
AT&Tの多重通信システムと、15ローター式の『九二式印字機(特型)』の組み合わせは、世界最高の諜報網を誇るイギリスの耳と目を、完全にノイズの海に沈めていた。
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