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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第三章

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涙は塩辛い

 時:1932年(昭和七年)、3月

場所:ワシントンD.C. 日本大使館・晩餐室


 債務再編交渉の前夜。東郷一成は、わざわざ南京政府の代表である宋子文と宋美齢を、日本大使館のディナーに招待した。

 表向きは『明日の交渉に向けた友好的な晩餐』だ。


 食卓は、恐ろしく静かだった。

 白いクロスの上に置かれた銀器は、磨き抜かれていた。窓の外では、ポトマック川が冬の闇の中で鈍く光っている。


 テーブルの中央には東郷一成少将。

 その対面には、精根尽き果てた顔の国民政府財政部長・全権の宋子文と、血の気のない顔をした宋美齢。

 東郷の隣には同席した出淵勝次駐米大使が、なぜか冷や汗を流しながら座っていた。


 黒地に白のエプロンという、伝統的なメイド服に身を包んだ橘小百合が音もなく近づき、最初の一皿を置いた。


 宋子文は、目の前に置かれた小さな前菜を見下ろした。

 薄く焼いたパンの上に、ほぐしたコンビーフが載せられ、粒マスタードと刻んだ香草が添えられている。


「アメリカ産のコンビーフです」

 東郷は、まるで天気の話でもするように言った。


「長江救済用に買い付けたものの一部です。もとは余剰在庫でしたが、保存性が高く、輸送に耐え、少し手を加えれば立派な料理になる。……物資とは、扱い方次第ですな」


 宋子文は、返事をしなかった。

 彼には分かっていた。 これは前菜ではない。  

アメリカの余剰を日本海軍が信用と兵站に変えたという、食べられる報告書だった。


 次に出されたのは、澄んだ琥珀色のスープだった。

 小さく切られた牛肉と、柔らかな小麦団子。香味野菜の甘み。泥水と疫病の記憶など微塵もない、上品な一皿。


「長江で出したすいとんを、少し料理人に整えさせました」

 東郷は匙を置いた。


「小麦だけでは、人は救えません。水、火、肉、秩序、器、配る手順。全てが揃って、初めて食糧になります」


 宋子文の指が、ナプキンを握りしめた。

 それは南京政府ができなかったことだった。  

 アメリカの善意を、命に変えること。  

 東郷はそれをやり遂げ、今、その記憶を皿に載せて出している。


 そして、メインの魚料理が運ばれてきた。


 銀盆の中央に、白い塊が鎮座していた。  

 塩釜だった。

 給仕役の小百合が小さな木槌を手に取り、東郷の合図を待つ。


「鯛の塩釜焼きです」

 東郷は宋子文を見た。


「塩で包んで焼く。外から見れば、白い岩のように見えます。ですが中の身は、焼かれながらも守られる。余分な水分は抜け、旨味は残る」


 木槌が振り下ろされた。コン、という乾いた音。  

 塩の殻に亀裂が走る。  

 二度、三度。白い外殻が崩れ、湯気が立ち上った。


「お飲み物はどうされますか?」  

 東郷が、にこやかに尋ねた。

「香り高い中国茶と、アメリカン・コーヒー。どちらもご用意しておりますが」


 中国の威信を取るか。アメリカの支援にすがるか。  

 だがどちらを選ぼうとも、それを注いでくれるのは「日本海軍(東郷)」なのだ。


「……コーヒーを」  

 宋美齢が、血の滲むような声で言った。

「苦くて、真っ黒なコーヒーを頂くわ。……今の私の気分に、ぴったりだから」


「かしこまりました」  

 東郷の合図で、メイド姿の小百合が優雅な手つきでコーヒーを注いだ。


「そして、デザートです」


 運ばれてきたのは、美しく冷やされたガラスの器。

 真っ白な杏仁豆腐だった。

 ほのかに甘いシロップに、赤いクコの実が添えられている。


 宋子文は自国の伝統的な菓子が出されたことに、僅かな戸惑いを覚えた。


「……これも、日本の海軍が手配したものですか?」

 宋子文が問う。


「ええ。我々の料理人が、少しだけ洗練させました。中国のものは、少し冷やすとよく締まります」

 東郷は、静かに答えた。

 なお、杏仁豆腐の製作者は東郷本人である。


「それでは、明日は重要な交渉が控えておりますので。……今夜はどうか、ごゆっくりと」


 東郷は、優雅にティーカップを掲げた。

 出淵大使はついに限界を迎え、口元をナプキンで覆ってむせ返った。


 出淵大使が退室し、宋子文と宋美齢が一言も発することなく足早に夜の闇へと消え去った後。

 誰もいなくなった晩餐室で、副官の樋端久利雄大尉は、呆れたように肩をすくめた。

「……マダム・ソォン、最後はまるで『日本軍という悪魔に国を蹂躙された悲劇のヒロイン』のような顔をしておいででしたね」


「人間とはそういうものだ」

 東郷は、残っていた中国茶を静かにティーカップに注ぎ足した。


「自分が放った矢が外れた時は『戦略』と呼び、相手が放ち返した矢が命中した時は『非道』と呼ぶ。

 アメリカの世論や上海の暴徒を操って我々を陥れようとした過去を、すでに自らの記憶の底から消し去っているのだろう」

 東郷は、ティーカップを月明かりに透かした。


 傍らで床を静かに拭き取っていた橘小百合が、無表情のままぽつりと言った。

「……不可解です。彼らが始めた物語なのに、なぜ彼らが被害者のように泣くのでしょうか」

 

「小百合君。彼らは嘘をつき続けるうちに、自分自身の嘘すらも信じ込むようになる。それが『政治家』という生き物の業なのだよ」

 東郷は、苦笑交じりに中国茶を飲み干した。



 翌日。日本大使館の空気はさらに混濁し、息苦しいものだった。


「……では、条件を」

 宋子文は、血の滲むような声で言った。

「いくらの金利なら、NCPC決済の枠組みに南京を加え、復興借款を出していただけるのですか」


 東郷は、少しだけ沈黙した。

 そして紅茶のカップを置き、静かに告げた。

「まず、南京政府による『反日救国金融安定令』の撤回。これは市場への最低限の謝罪です。そして、張作霖元帥の『保証』を取ってください」


 空気が凍った。宋兄妹は、自分の耳を疑った。


「中華民国大元帥、張作霖です。鉄道、鉱山、大豆、石炭、そして我々と共に構築した盤石の税収と秩序を満州に持つ人物です。

 彼が南京政府の『連帯保証人』となるなら、我々は南京政府向けの信用供与(借款)を検討できます」


 宋美齢は、ワナワナと震え始めた。


「中国を代表する政府であるなら、中国の有力者と話をつけることは、国内問題として当然のことではありませんか」

 東郷は、一切の表情を変えずに言った。


 宋美齢は、怒りのあまり立ち上がりかけた。

「これは、侮辱です!」


「いいえ。審査です」

 東郷の声は、少しも荒れなかった。


「マダム。あなたはアメリカの教会で、『南京こそが中国全土の民衆を代表する正統な政府である』と涙ながらに語りました。

 ……では、その正統性を満洲でも証明してください。

 張作霖元帥が南京政府を保証するなら、我々も、そして世界の金融市場も、南京を中国の中央政府として見るでしょう」


「そして、彼が拒めば?」

 宋美齢は、半ば殺意を込めて睨みつけた。


「その時は……南京政府は少なくとも『満洲』を代表していない、ということになります」


 宋美齢は、テーブルの下で爪が手のひらに食い込むまで拳を握りしめた。

 東郷は『中国の国内問題だから、中国人の間で話をまとめてきなさい』という、国際法上この上なく正しい正論を盾にしている。


 宋子文は膝の上の拳を震えさせたまま、かすれる声で尋ねた。

「……張作霖の保証とは、具体的に何を意味するのですか」


 東郷はアタッシュケースから分厚い証券の束を取り出し、テーブルの上にドン、と置いた。

 それは、暴落した南京政府系の短期国庫証券や軍費公債だった。


「……事変の最中、貴国の国債は市場で暴落しました。

 私はその投げ売りされた債券を、額面にして5,000万ドル分、買い集めさせていただきました。……底値でね」


 宋子文の顔から、さーっと血の気が引いた。

(やはり……あの暴落を仕掛け、買い戻したのはコイツだったのか!)


 東郷はまるで慈善事業家のように、穏やかに微笑んだ。

「誤解なきよう、宋部長。我々は南京政府を破滅させたいわけではありません。

 もし私がこれを市場で紙くずとして損金処理すれば、貴国の信用は完全に死滅する。……私はそれを望まない。

 ですから一人の債権者として、再建可能な『返済計画』を求めたいのです」


 東郷の後ろで、同席していた香港上海銀行(HSBC)の代表と、J.P.モルガン商会の代理人が、深く頷いた。


「我々銀行団も、東郷少将の意見に全面的に賛同する」

 HSBCの代表が、冷徹に言った。

「南京政府の信用は、現在完全に失墜している。既存の融資を継続するためには、我々が納得できる『確実な担保』が必要だ」


 宋美齢が、たまらず立ち上がった。

「待ちなさい! これは日本の不当な金融攻撃よ! あなた方欧米の銀行は、日本の侵略に加担するというの!?」


 だがモルガンの代理人は、冷ややかに鼻を鳴らした。

「マダム・ソォン。我々は日本に従ったのではありません。南京政府の信用を査定しただけです。

 ……あなた方が上海で戦争を起こし、敗北した。我々はそのリスクを価格に織り込んだ。これは政治ではなく、純然たる『市場の判断』です」


 資本主義の論理。そこに同情やイデオロギーが入り込む余地はない。

 宋子文は妹を制して、震える声で尋ねた。


「……東郷少将。担保とは、何だ。

 海関(関税)の収入は、すでに過去の列強への借款で埋まっている。これ以上差し出せるものなどないぞ」


「分かっています。それに、今の南京政府の『政治的信用』を担保にするなど、リスキーすぎて銀行団も納得しない」


 東郷は、一枚の新しい契約書を滑らせた。

「担保は、『塩税ガベル』です」


 宋子文は、息を呑んで絶句した。


 塩税。

 中国の歴代王朝が最も確実な財源としてきた、塩の専売による税収。関税のように貿易に左右されず、地方軍閥に中抜きされにくい。人間は塩を舐めなければ生きていけないからだ。


「南京政府の信用は、いま市場で傷つきました」

 東郷は、慈悲深い声で言った。

「だが、中国人民の生活基盤には、まだ信用があります。その代表が塩税です。

 我々は、『中国人が明日も塩を舐めるという事実』を信用するのです。

 これなら銀行団の皆様も、張作霖元帥もご安心でしょう?」


「エクセレント」

 HSBCの代表が、手を叩いた。

「塩税の徴収局に、我々から監査官を送り込めば、利払いは完璧に保証される。これ以上に手堅い再建案はない」


 宋子文は、あまりの屈辱に歯から血が出るほど唇を噛み締めた。

「お前たちの政府は信用できないから、お前たちの国の民が舐める塩を差し出せ」と言われたのだ。

 主権国家として、これ以上の侮辱はない。


「……ふざけないでッ!!」

 宋美齢が、涙を流しながら絶叫した。

「そんな横暴が許されるはずがないわ! 私はアメリカの皆様に、この日本の非道を訴えます! 私の言葉に涙してくれた、何百万人の善良なアメリカ市民が、黙っていないわ!」


 東郷は、ゆっくりと立ち上がった。

 そして泣き崩れる宋美齢を見下ろし、極めて丁寧に言い放った。


「マダム・ソォン。貴女の演説は素晴らしかった。

 貴女の流した涙は、確かにアメリカの道徳を動かしました」


 東郷は塩税を担保とする契約書を、ペンの横に置いた。


「ですが、涙は『塩辛い』。

 ……ならば、その涙の対価として塩税を担保に入れていただくのは、極めて詩的で、理にかなっていると思いませんか?」


 宋美齢の泣き声が、ピタリと止まった。

 彼女の全身を、かつて経験したことのない絶対的な恐怖と絶望が突き抜けた。


「……サインを、部長」

 HSBCの代表が、事務的に促した。

「我々も、南京政府の破産は望んでいません。サインさえ頂ければ、追加の融資も検討しましょう」


 宋子文は、震える手でペンを握った。

 軍隊(第十九路軍)は壊滅した。

 国債は暴落した。

 米英の銀行は、東郷の案に完全に乗っている。

 ここでサインを拒めば、明日の朝、南京政府の金庫は完全に空になり、軍閥たちが一斉に反旗を翻すだろう。


 宋子文が血の滲むような屈辱の中で、塩税を担保とする債務再編の合意書にペンを走らせた。

 そのサラサラという音を聞きながら、出渕大使や銀行団たちは安堵の息を吐き、東郷一成の手腕に感嘆の視線を送っていた。


「……ご英断です」

 東郷は、美しくサインされた契約書を丁寧にアタッシュケースに収めながら、穏やかに言った。

「これで、貴国の財政はひとまず死を免れた」


 宋美齢はハンカチを握りしめ、虚無の目で東郷を睨みつけていた。

「……悪魔。あなたは、瀕死の中国から、人民の血の滲むような塩を取り上げたのよ。こんな暴挙、長く続くはずがないわ」


 東郷はアタッシュケースの留め金をカチャリと閉め、ゆっくりと宋美齢に向き直った。

 その瞳は、澄み切っていた。

「悪魔、ですか。……いいえ。私はただの、数字を扱う事務屋です」


いつもお読みいただきありがとうございます。


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諜報で負け戦場で負け、経済でも外交でも完膚なきまでに敗北したので、蒋介石の求心力が失われて南京政府はグダグダになりそう。 今蒋介石の後釜に座れそうなのは孫科ぐらいですがどう考えても短命政権にしかならな…
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