砲声と売り注文
時:1932年(昭和七年)、1月28日(上海事変勃発の日)
場所:スイス・バーゼル、BIS(国際決済銀行)内 横浜正金銀行連絡室
アルプスの冷たい風が吹きつけるバーゼルの街で、日本海軍の「金融兵器」が静かに稼働し始めた。
横浜正金銀行から出向している加納久朗は、時計の針を確認し、傍らの暗号通信手から受け取った電報を開いた。
『発電機、起動セリ。十九路軍、後退中』
「……始まったな」
加納は、暗号電文をライターの火で燃やした。
ブラックコーヒーを一口飲み、冷徹な目で複数の電話機を睨みつけた。
「よし。ロンドン、ニューヨーク、香港。……全市場で同時に仕掛けろ。
標的は、南京政府(蔣介石)発行の短期国庫証券、内国公債、および江浙財閥系の銀行株だ」
加納が受話器を取る。
「……作戦の第一波だ。額面1,500万ドル。……現在の市場価格は額面100に対して70前後。これを一気に売り浴びせ、価格を65まで押し下げる」
加納は言った。
「手加減は不要だ。上海では今、シナ軍が愛国心を燃やして我々の戦車に突撃してきている。
……彼らのその熱い血潮が、市場ではいくらの『負債』として計算されるのか。教えてやれ」
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場所:中国・上海、共同租界・外灘
砲声と黒煙が立ち上る閘北地区から数キロ離れた金融街では、砲弾ではなく「数字」が飛び交う、もう一つの凄惨な戦争が起きていた。
「……売りだ! 南京政府の公債を全部叩き売れ!」
証券取引所のフロアで、外国人ブローカーたちが絶叫していた。
「額面100に対して、現在の買い気配は……50!? いや、45を割り込みました!」
中国系の買弁が、青ざめた顔で報告する。
南京政府の公債は、数ヶ月前までは額面100に対して「70〜75」の価格で取引されていた。
だが、東郷一成が仕掛けた二段階の売り浴びせと、市場心理の爆薬がその価値を無残に破壊していた。
【第一波:開戦直後】
十九路軍が日本軍と衝突した直後。東郷のダミーファンドは、約1,500万ドル分の南京公債を「70」付近で静かに売り浴びせた。
市場は動揺した。「誰かが南京を見限っている」という噂が、ジワジワと広がり始めた。
【第二波:リバティ戦車の投入】
そして日本軍の陣地から「38トンの巨大戦車」が出現し、十九路軍が一方的に轢き潰されるというニュースと写真が、租界の外国人記者を通じて世界中に配信された。
「……アメリカ政府は、日本に戦車を売ったのか!?」
上海の金融界はパニックに陥った。
アメリカは表向き「中国に同情する」と言いながら、裏では日本に巨大兵器を輸出している(しかも合法なトラクターとして)。
『アメリカは南京を助けない』
その冷酷な事実が市場に確定した瞬間、東郷は本命、第三波の「3,500万ドル規模の空売り」をぶち込んだ。
売りが売りを呼び、セリング・クライマックスが発生。南京の公債価格は「45」まで一直線に急降下した。
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時:1932年(昭和七年)、2月
場所:ロンドン、シティ(金融街)
深い霧に包まれたロンバード・ストリートの証券会社で、ベテランの債券ディーラーが若手たちに素早い指示を飛ばしていた。
「……上海でドンパチが始まったぞ。日本軍の重戦車が出たそうだ」
「ボス! 中国関連の債券、全部投げますか!?」
「馬鹿野郎、素人みたいな真似をするな」
ディーラーは、葉巻を咥えたままリストを仕分けした。
「清朝末期から中国の債務を見てきた大英帝国を舐めるなよ。
『海関(関税)』と『塩税』を担保にした古い外債はキープだ。列強の管理下にあるから、南京が燃えようが利払いは止まらん。安くなったところを拾い集めろ。
売るのは、蔣介石が刷った『南京政府の短期軍費公債』と『政府保証債』だ。
あれは今から紙くずになる。
……ニューヨークの連中がパニックを起こす前に、全力で空売り(ショート)を浴びせろ!」
彼らは日本に協力しているわけではない。
ただ、最も冷徹なリスクヘッジと鞘抜きを行っているだけだ。
「悪い中国を売り、良い中国を買う」
ロンドンのプロたちは、戦争という悲劇を極めて正確な利回りに変換していた。
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場所:ニューヨーク、ウォール街
一方海の向こうのウォール街は、ただのパニックだった。
中国の複雑な内情など知らない投機筋にとって、上海の炎上は「チャイナ・リスク」という一語に集約された。
「中国が燃えてるぞ! 全部売れ! 中国関連の証券は全部だ!」
「代わりに日本のNCPC債を買え! 満州関連のインフラ株もだ! あいつらは勝つ!」
東郷一成が放った「5,000万ドルの空売り」という第一の矢は、ロンドンと香港のプロたちを巻き込んで1億ドルに膨れ上がり、さらにニューヨークの素人たちのパニック売りを呼んで、瞬く間に数億ドル規模の「巨大な売り圧力」となって、南京政府の息の根を止めにかかった。
さらに、この血の匂いを嗅ぎつけたのは証券マンだけではない。
ロイズなどの保険組合は「戦争リスク」を理由に、上海・長江向けの海上保険料を300%引き上げた。
海運会社は「危険水域割増」と「前払い決済」を要求し、中国の輸出商社の首を物理的に絞め上げ始めた。
誰も、日本に味方しているわけではない。
「顧客の資産を守るため」「自社のリスクを回避するため」という、資本主義として100%正しい理由で、世界中が束になって南京政府を殴りつけていた。
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時:1932年(昭和七年)、2月
場所:中国・南京、国民政府財政部・部長室
国民政府の金庫番であり、宋美齢の兄でもある財政部長・宋子文は、受話器を握りしめたまま、胃液を胃袋ごと吐き出しそうなほどの吐き気に襲われていた。
受話器の向こうからは、上海にいる江浙財閥の銀行頭取の、半狂乱の声が響き続けている。
『……宋部長! もう限界だ! 政府の軍費公債の買い支えなど、これ以上一元たりともできん!』
「落ち着きたまえ! 今、第十九路軍が上海で日本軍と血みどろの戦いをしているのだぞ! 我々が資金の供給を止めれば、彼らは弾も撃てず、メシも食えなくなる!」
宋子文は必死でなだめようとした。
『戦線のことなど知るか! こっちは市場で殺されているんだ!』
頭取が絶叫する。
『日本軍の戦車が動いたというニュースが流れた瞬間、誰かが上海と香港の市場で、恐ろしい規模の空売りを浴びせてきた!
額面100に対して70あった政府短期債が、一気に40まで暴落したんだぞ!!』
宋子文の目の前が真っ暗になった。
「よ、よんじゅう……!?」
だが、真の地獄はそこからだった。
『担保価値が消えたんだ! 政府債を担保にしていた手形割引も、企業への融資も、すべて追加証拠金(追証)を求められている! 払えなければ貸し剥がしだ!
……信用収縮だけで、さらに1億5,000万元の時価が市場から消えた! 上海の金融機能は完全に心肺停止だ!!』
国民政府の月間予算は約2,200万元。そのうち軍事費が1,800万元を占めている。年間で約2億6,400万元だ。
国家予算の半分以上が、ただの「時価評価損」として一瞬で蒸発した。
「……待て。 たしかアメリカへの生糸輸出で外貨を稼ぐのは……」
『もうアメリカ、特にニューヨークの商人は、我々の生糸を買ってくれない!』
頭取は泣き叫んだ。
『奴ら、日本海軍のNCPC債で決済しないと、金利も保険も高くつくからと言って、自発的に中国産をボイコットしやがったんだ! 生糸問屋も全滅だ!』
ガチャン、と無情にも電話が切れた。
宋子文は受話器を持ったまま、ガクリと膝をついた。
債券の時価損。担保信用の崩壊。
輸出金融の連鎖的な焼失。
宋子文はハーバード大学で経済を学んだエリートだ。彼には、今上海で何が起きたか、その被害総額がどれほどのものか、残酷なほど正確に計算できた。
「……3億、いや、4億元以上……」
彼は、震える手で頭を抱えた。
「たった数週間で、国家予算の1.5年分……パニックが続けば、その倍、3年分の『信用』が燃え尽きる……」
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時:同日 夜
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
「……上海の相場、完全に崩れました。
南京政府の資金調達能力は麻痺。見事な雪崩ですね、閣下」
護衛の橘小百合は、テレタイプから吐き出される印字テープを見ながら、無表情で報告した。
「現在の南京政府短期債の市場価格は『35』。……紙くず一歩手前です」
「そろそろだな」
東郷一成は、コーヒーを啜りながら静かに言った。
「……樋端君。空売りした公債5,000万ドル分を、現在の価格(35〜39)で全て買い戻しなさい」
副官の樋端久利雄大尉は、計算尺を猛烈な勢いで弾いた。
「額面5,000万ドルを、平均『72』で空売り。売却代金は3,600万ドル。
それを、平均『37』で買い戻す。買い戻し費用は1,850万ドル。
……粗利益は1,750万ドル。仲介手数料や借入料を差し引いても、純益は約1,500万ドル(約3,000万円)に達します!」
たった数週間のマネーゲームで、日本海軍の懐に「軍艦が一隻造れるレベルの現金」が転がり込んだのだ。
東郷一成は夜のコーヒーを嗜みながら、静かに頷いた。
「南京の軍事力は、『借金(信用)』の上に成り立っていた楼閣だ。
我々は、上海で大砲を撃って窓ガラスを割りながら、裏口から回って建物の基礎(国債)をダイナマイトで吹き飛ばしたに過ぎん」
東郷は、デスクの上のチェスの駒――ナイトを指先で倒した。
「小百合君。砲弾を撃てば、敵の陣地が壊れる。
だが、国債を空売りすれば……敵がまだ撃っていない『未来の砲弾』を、箱ごと消し去ることができる」
「……残酷な戦法です」
「小百合君は、優しいな」
東郷は、声のトーンを変えた。
「だが兵士が血を流す前に、国が『これ以上戦えません』と白旗を上げるのだ。死人の数は最小限で済む。極めて人道的だろう?」
小百合の長い脚が、かすかに震えた。顔がじわりと赤に染まる。
「その通りですが、閣下。宋美齢が、アメリカで寄付金を集めていたのでは」
「その寄付金が南京に届く頃には、彼らの国家信用は3億元(約1億ドル)以上目減りしているよ。
……彼女の流した涙は、焼け石に垂らした一滴の香水にしかならん」
東郷は立ち上がり、窓の外を見た。
小百合も視線を一度だけ窓の外へ向け、そして戻した。
ワシントンは雪だった。
アメリカの親中派ジャーナリストがいくらペンで日本を非難しようと、市場の帳簿は「南京の死」を宣告していた。
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場所:中国・南京、国民政府総統府
宋美齢は、上海事変の勃発を受けて急遽アメリカから呼び戻された。
ニューヨークの婦人会、オハイオの教会、ワシントンの慈善晩餐会。彼女の涙と流暢な英語は、確かにアメリカ人の心を動かしていた。集まった寄付金は、ついに300万ドルを超えた。
それは、ひとりの女性政治家が信仰と演説と美貌だけで集めた金としては、奇跡に近い額だった。
だが南京の空気は、その奇跡を祝福するものではなかった。
総統府の廊下には、軍靴の音と、怒号と、紙の匂いが満ちていた。財政部から運び込まれた電信の束が、机の上に山のように積まれている。
彼女が総統執務室に入ると、夫の蔣介石は窓辺に立っていた。背中だけで怒りが分かった。机の前には宋子文が座っている。顔は土気色で、眼窩だけが暗く落ち込んでいた。
「……300万ドル、集まったわ」
宋美齢はそう言った。声は、自分でも驚くほど小さかった。
蔣介石は振り返らなかった。
「300万ドル?」
その声は低く、掠れていた。
「上海で失われた信用は、すでに6億元(約2億ドル)を超えた」
宋美齢は一瞬、意味を理解できなかった。
手から、300万ドルの目録が滑り落ちた。
「2億、ドル……?」
彼女がアメリカ中を飛び回り、キリスト教の教義と人道主義に訴えかけて、血の滲むような思いで集めた300万ドルの善意。
それが同じアメリカのウォール街で、たった数週間の「空売りと信用収縮」によって、その何十倍もの規模で消し飛ばされたのだ。
「……なぜ……」
宋美齢は、床に崩れ落ちた。
「アメリカ人は、あんなに中国のために泣いてくれたのに。
一緒に日本を許せないって、怒ってくれたのに……っ!」
「泣いた者と、金を貸す者は違う」
宋子文が、乾いた声で言った。
その一言は、兄妹の間に刃物のように落ちた。
世界の資本主義の心臓(金融市場)は、すでに中国を見限っていた。
なぜなら、彼らは知っていたからだ。
国家を戦わせるのは、同情ではなく信用だということを。
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