赤十字倉庫の戦争
時:1932年(昭和七年)、1月
場所:中国・上海、共同租界境界線
上海の街は、夜でも火薬庫のような異常な熱気に包まれていた。
連日のように学生や労働者たちによる抗日デモが行われ、日本人商店への投石や、日本人僧侶の襲撃事件が頻発していた。
「……南京の中央政府は弱腰だ! なぜ日本鬼子を追い出さない!」
「我々上海の民衆を守るのは、我々自身だ!」
その熱狂の中心にいたのは、上海周辺の防衛を担う国民政府・第十九路軍の将兵たちだった。
彼らは暗闇の中から、煌々とサーチライトで照らされた日本側の巨大な倉庫群を、憎々しげに睨みつけていた。
「……見ろ。あそこには、アメリカから送られてきた小麦の山がある。難民を救うための薬も、毛布も、燃料もある」
将校が、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「なぜだ! なぜ我々中国人のための物資を、日本鬼子が偉そうに管理しているのだ!
あれは本来、我々南京政府が受け取り、我々の手で民衆に配るべきものだ! 奴らは我々の物資を不当に独占し、恩着せがましく振る舞っているだけだ!」
彼らの怒りは、ある意味で正当だった。
自国の被災者を救うための物資を、外国の軍隊が独占し、しかも政敵(張作霖)の旗を振って配っているのだ。愛国心を持つ軍人ならば、はらわたが煮えくり返るだろう。
「……奪い返すのよ」
上海で志願した若い女性兵士が、小銃を握りしめて言った。
「あそこを守っているのは、最近商売ばかりしている腰抜けの海軍陸戦隊よ。我々が奇襲をかければ、一気に制圧できるわ。
あの倉庫を奪い返し、我々の手で物資を配れば、民衆は我々を本当の英雄として称えるはずよ!」
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時:1932年(昭和七年)、1月28日 夜
場所:中国・上海、共同租界・日本人居住区境界
冬の冷たい雨が降る中、第十九路軍の中国兵たちは、決死の覚悟で銃を握りしめていた。
「……突撃!! 日本鬼子を海に叩き落とせ!!」
指揮官の号令と共に、数千の中国兵がバリケードを突破し、租界の暗闇へと殺到した。
彼らは信じていた。アメリカがバックにいる。日本軍はただの張子の虎だ、と。
だが。
租界の裏通りを曲がった瞬間、彼らの目に飛び込んできたのは、逃げ惑う日本の民間人でも、慌てふためく軽装備の水兵でもなかった。
中国兵たちの足は、突撃から数歩で止まった。
日本の陸戦隊員が構えていたのは、彼らが想定していた「長い三八式歩兵銃」ではなかった。
木製の重厚な銃床。横から突き出た32発入りの長い弾倉。
そして精巧な削り出し加工によって鈍く黒光りする、極めてコンパクトな銃身。
オーストリア・シュタイア社製、九一式短機関銃(ステアーゾロトゥルン・日本海軍特別調達モデル)。
「撃て」
陸戦隊の下士官が、冷徹な声で命じた。
静かな路地裏が、一瞬にして鼓膜を劈くような連続発射音と、強烈なマズルフラッシュの閃光に包まれた。
毎分600発のペースで吐き出される9ミリ・モーゼル弾が、狭い路地を完全に弾の壁で埋め尽くす。
「ひぃぃっ! なんだこれは! 機関銃だ!」
中国兵たちは悲鳴を上げる間もなく、全身をハチの巣にされて次々と泥水の中に倒れ込んだ。
小銃のボルトを引く隙など、どこにもない。
シュタイアの職人たちが最高級の特殊鋼(シェーラー・ブレックマン製)を削り出して作ったこの銃は、雨の中でも泥の中でも絶対に弾詰まりを起こさず、トリガーを引いている間、ひたすらに死の雨を降らせ続けた。
下士官は銃口から白煙を上げる短機関銃を下げ、倒れた中国兵たちを一瞥した。
「馬鹿な連中だ。我々が『どこから出てくるか』も分からずに警備に立っているとでも思ったのか」
さらに、重低音のエンジン音が轟いた。
サーチライトの強烈な光が、雨の夜を昼間のように照らし出す。
「……なんだ、あれは」
別の戦場で先頭を走っていた中国兵が、その場に立ちすくんだ。
路地を完全に封鎖するように立ち塞がっていたのは、白塗りから本来の「軍用色」に塗り直されたM1917軽戦車と、リバティ重戦車の壁だった。
「シナ兵の諸君」
戦車のキューポラから顔を出した陸戦隊の士官が、冷徹な声で命じた。
「……お遊戯は、ここまでだ。
撃てぇッ!! アメリカの『赤十字物資』に指一本触れさせるな!!」
『泥濘地牽引隊』は装甲支援部隊となり。
『防疫給水支隊』は前線の野戦病院と給水ラインを維持し。
『応急発電班』は、強烈なサーチライトで中国兵の姿を夜の闇から炙り出した。
さらに後方の倉庫群からは、海軍に「間借り」していた日本陸軍・朝鮮軍の歩兵砲部隊が、完璧な測距データに基づいて無慈悲な弾幕を降らせ始めた。
「ひぃぃっ! なぜだ! 日本軍は金儲けしか能のない腰抜けじゃなかったのか!!」
「戦車だ! しかも、メリケンの戦車じゃないか!!」
中国兵の絶叫が、砲声の中に消えていった。
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時:開戦から三日後
場所:上海・共同租界、キャセイ・ホテル(和平飯店)
親中派のアメリカ人ジャーナリストは、ホテルのラウンジで頭を抱えていた。
彼が書いた「虐げられる上海市民」の悲劇的な記事は、ニューヨークのデスクからボツを食らっていた。
「……なぜだ。なぜアメリカの世論は、中国に同情しないんだ!」
彼は、国務省から派遣された若手外交官に詰め寄った。
外交官は、苦々しい顔で一枚のパンフレットをテーブルに投げ出した。
発行元は「日本領事館・広報部」。
『上海におけるテロリズムの真相:計画された暴動と、我々の救援物資保護について』
そこには、恐るべき証拠写真が並んでいた。
・青幇のアジトから押収された、暴徒用の「平服」3,000着の束。
・「自然発生的な暴動」が起きる3日前に、外資系銀行から支払われた「棺桶200棺」の領収書。
・そして日本軍の「白い戦車」が、アメリカの小麦粉を守るために盾になっている写真。
「……日本のスパイが、事前に全て嗅ぎつけていたんだ」
外交官は、吐き捨てるように言った。
「彼らは我々の記者を集め、親切にも『証拠物件の展示会』を開いてみせた。棺桶の領収書まで見せられては、もはや『可哀想な市民の自然な怒り』というストーリーは通用しない。
本国のアメリカ市民から見れば、これは『飢えた民衆を救う日本海軍の救援拠点を、マフィアと結託した中国軍閥が襲撃した卑劣な事件』にしか見えないのだ」
「くそっ……! ならば、戦場で日本が過剰な殺戮をしていると……!」
「……おい、あそこを見ろ!」
カメラマンが指差した。
眼下の租界の境界線で、巨大な重戦車が、赤十字のマークが描かれた倉庫の前に陣取っている。
その背後から、カーキ色の軍服を着た陸軍の兵士たちが、ロレーヌ製のタトラ6輪トラックから次々と降り立ち、素早く警戒線を構築していく。
「……あのトラック。見たことがないぞ」
ジャーナリストは絶句した。
これまでの日本の陸軍といえば、重い荷物を背負い、馬を引いて、泥まみれで行軍する姿が定番だった。
だが目の前の部隊は、自動車化されている。
トラックが兵士を運び、M1917軽戦車が弾薬や重機関銃を牽引する。疲労のない兵士たちは、機械のように正確に、便衣兵の潜伏しそうな建物を一つずつ包囲し、無力化していく。
「日本軍は、無理な突撃をしていない。彼らはただ水路と道路を封鎖し、圧倒的な物資と火力で、第十九路軍を兵糧攻めにしているだけだ。
……彼らは戦争をしていない。『巨大な害虫駆除作業』を、淡々とこなしているだけなんだ」
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場所:上海沖合・黄浦江河口付近
冬の冷たい雨が打ち付ける海上に、異形の巨船が停泊していた。
全長150メートル超、排水量1万4,000トン。かつてアメリカ海軍が誇った装甲巡洋艦『カリフォルニア』改め、日本帝国海軍特務運送艦『伊良湖』である。
その姿は、およそ軍艦には見えなかった。
主砲塔は撤去され、代わりにデリッククレーンが林立している。分厚い装甲に覆われた船体の中には、ウェスティングハウス製の巨大な冷却コンプレッサーが唸りを上げ、数千トンのアメリカ産牛肉や小麦、医薬品を完璧な状態で保管していた。
「……倉庫が二つ、燃やされたか」
艦橋の特設指揮所で、海軍軍務局から派遣された沢本頼雄大佐は、陸上からの報告を冷ややかに聞いていた。
予想通り、第十九路軍と青幇の息がかかった便衣兵たちが、「自然発生的な暴動」を装って日本人街と赤十字物資の倉庫群に火を放ったのだ。
「陸戦隊の弾薬消費量、想定の範囲内。食糧・医薬品の予備は、本艦の第三冷蔵区画に十分あります。いつでも大発で揚陸可能です」
副官が報告する。
蒋介石の参謀は「倉庫を焼けば日本軍は干上がる」と考えたのだろう。
だが日本海軍が構築した兵站網は、陸の固定倉庫などハナから信用していなかった。
この『伊良湖』は、ただの肉倉庫ではない。
元・装甲巡洋艦の分厚い装甲帯(水線部5インチ、甲板3インチ)は、中国軍の野砲や迫撃砲など容易く弾き返す。そして巨大な発電能力は、ケーブルを通じて陸上の野戦病院に煌々とした光を供給している。
さらには、広大な船倉の一部を改造した洋上臨時病院として、負傷者を清潔な環境で治療・後送する機能すら備えていた。
「……敵は我々が補給線を絶たれて焦り、爆撃機を呼ぶのを待っている」
沢本は、双眼鏡で上海の空を見た。
上空には数機の海軍機が飛んでいる。だが、その翼の下に爆弾はない。積んでいるのは、増槽と大型の航空カメラだけだ。
「空から石を投げる必要はない。敵の動きは全て、この『目』が捉えている。
……さあ、次の大発を出せ。温かい食事と予備の弾薬を、最前線の兵士たちに届けるのだ。腹の減った軍隊に、治安は守れんからな」
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場所:上海、閘北地区のクリーク(水路)沿い
「なぜだ! なぜ日本の飛行機は爆弾を落とさない!」
第十九路軍の指揮官は、路地裏の司令部で闇夜の空を仰いだ。
彼らは、日本軍が焦って市街地を爆撃することを期待していた。そうすれば、手配していた親中派の欧米記者たちに「日本の残虐行為」として世界中に発信させ、国際連盟の介入を引き出すことができたからだ。
だが日本軍は空からは写真を撮るだけで、地上からはジリジリと、しかし絶対に破れない鉄の壁となって押し寄せてきた。
「……急げ! 日本軍のトラックや戦車は、この橋を通らなければ租界の北側には出られない。橋に爆薬を仕掛けろ!」
第十九路軍の将校が、暗闇の中で兵士たちに指示を飛ばしていた。
彼らの戦術は、史実の上海事変で日本軍を苦しめた「クリーク防衛線」だった。
網の目のように走る水路を天然の堀とし、橋を落として敵の機械化部隊を足止めし、対岸から機関銃の十字砲火を浴びせる。
だがその計画は、実行される前の昼、すでに上空から「見られて」いた。
『――航空隊ヨリ陸戦隊。目標甲ノ橋梁ニ敵兵約五十。爆薬ヲ設置中』
中国軍の将校が振り返ると、クリークの水面から、突如として低いエンジン音が響いてきた。
「なんだ!?」
暗闇の水路を滑るように進んできたのは、平底の船首を持つ奇妙な舟艇だった。
本来は上陸作戦に使う大発が、浅い水路でも運用可能な特性を活かし、水路を逆走してきたのだ。
「……水路から、日本の舟が来るぞ! 撃て!」
水路をさかのぼってくる白い大発に、小銃を向ける中国兵たち。
だが大発の船首にある巨大な鉄のランプ(スロープ)が、ガタン!と水路の岸辺に倒れ込んだ瞬間。
ランプが開いたその一瞬の隙間から、中に乗っていた数十人の陸戦隊員たちが、一斉にステアー短機関銃のフルオート射撃を浴びせてきたのだ。
上陸前の、最も無防備な瞬間を狙おうとしていた中国兵たちは、逆に舟の中から放たれた「数十丁の機関銃の砲火」を真正面から浴びる形になった。
対岸に渡るまでもなく、水路のど真ん中からの猛烈な機銃掃射が、爆薬を仕掛けようとしていた別の中国兵たちをも薙ぎ払う。
「ば、馬鹿な! 退却だ、路地裏へ逃げろ!」
将校は慌てて兵士たちを路地へ後退させた。
だがその路地の出口を塞いでいたのは、巨大な白い鉄の壁――戦車と、トラックで先回りしていた陸軍歩兵だった。
上空からは水上偵察機からパラシュート付きの照明弾が投下され、暗い路地裏を真昼のように照らし出した。
空から照らされ、正面は戦車に塞がれ、背後の水路には大発が展開している。
「……退路が、ない——」
第十九路軍の兵士たちは絶望の叫びを上げながら、光と弾幕の十字砲火の中に消えていった。
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