棺桶
時:1931年(昭和六年)、秋
場所:中国・南京、国民政府主席官邸
蔣介石は、激しい怒りで机の上の硯を床に叩きつけた。
真っ黒な墨汁が、絨毯に染みを作っていく。
「……日本鬼子め! 我が国の領土で、我々の旗(青天白日旗)を掲げず、勝手な真似を!!」
財務部長の宋子文が、青ざめた顔でアメリカの雑誌(TIME誌)の最新号を差し出した。
「主席。問題は旗だけではありません。アメリカの世論が……完全に日本に持って行かれました」
「何だと! お前の妹(宋美齢)が教会で泣き落としをして集めた金だろう!」
「ええ。ですが、日本軍は『アメリカの物資を、我々の力で難民に届けた』と宣伝しています。
写真を見てください。白いトラクター。清潔な水。温かいスープ。
そして、その横で……我々の軍隊が難民の荷物を奪おうとして、日本の砲艦に追い払われている写真まで載っています」
蔣介石は、その写真を見て血の気が引いた。
そこには、中国兵がアメリカの小麦袋をネコババしようとしている現場が、はっきりと写っていた。
「……愚か者どもめ! 外国の記者が乗っている船に手を出す馬鹿がどこにいる!!」
蔣介石の怒号が、豪奢な執務室に響き渡った。
彼の前には、長江流域の警備を担当する軍司令官たちが、震えながら直立不動で並んでいる。
「主席! し、しかし、あの船団は張作霖の五色旗を掲げ、我が軍の支配地域に無断で……」
「だからといって、税関吏を差し向けて『通行料を出せ』と要求するなど、狂気の沙汰だ!」
蔣介石は、デスクに叩きつけられた欧米の新聞記事を指差した。
『南京政府、難民の命より関税を優先』
『米赤十字の救助船団を妨害する国民党軍。彼らは飢えた民を強制労働キャンプに送り込んでいる』
アメリカのFFB(連邦農業局)から借款として受け取った45万トンの小麦。
蔣介石はこれを難民救済ではなく、共産党軍や反逆する地方軍閥を討伐するための「兵糧」として横領していた。
難民には戒厳令を敷き、堤防修理という名の強制労働を課し、逆らう者は容赦なく処刑した。
それが、旧態依然とした中国の「軍閥の論理」だった。
だが、そこへ東郷一成の放った「三旗護送船団」が、アメリカの記者たちを乗せて、美味しいすいとんと清潔な水を配りながら遡上してきたのだ。
メンツを潰された南京政府の役人と現地軍は、嫌がらせ(二重関税や検疫を理由とした足止め、ゲリラを装った銃撃)を仕掛けたが……。
それは全て、日本海軍の8センチ砲で蹴散らされ、その「醜態」を欧米のカメラマンにバッチリ撮影されてしまった。
「……主席。このままでは、我々は国際社会で完全に孤立します」
宋子文が、青ざめた顔で言った。
「アメリカ国務省の知人からも、『これ以上、貴国を擁護するのは難しい』と電報が来ています。……すべては、あの東郷一成の罠です」
「分かっている!」
蔣介石は、頭を抱えた。
「だが、どうすればいい! 奴らはアメリカの赤十字を盾にしている。手を出せば我々が悪党になる!」
その時、部屋の隅に控えていた南京政府の若手エリート将校――欧米留学帰りの秀才が、冷たい笑みを浮かべて進み出た。
「主席。……簡単なことです。奴らの『化けの皮』を剥がせばいいのです」
「化けの皮?」
「ええ。現在の日本海軍の強さの源泉は、軍事力ではなく『NCPC債』という金融の信用力です」
若手将校は、自信満々に語り始めた。
「東郷一成は、海軍を『投資銀行』と『食肉加工業者』に変えてしまった。
彼らは確かに金を持っています。美味い肉も食っています。
……ですが、軍隊が商売に熱中し、贅沢を覚えれば、必ずその牙は鈍ります。今の日本海軍の実態は、ただの『肉屋と銀行員の集まり』に過ぎません」
宋子文の目が、微かに光った。
「……つまり、彼らが『安全な投資先』ではないと、世界に証明すればいいのだね?」
「その通りです、財務部長」
将校は頷いた。
「国際金融の中心であり、NCPC債の決済の舞台でもある『上海・共同租界』。
もしあそこで、我々の軍隊が日本人街を攻撃し、彼らの銀行や倉庫を炎上させたらどうなるか。
『日本海軍は、自国の資産すら守れない』と世界に露呈します。NCPCの信用は暴落し、東郷の資金繰りは一瞬で崩壊するでしょう」
蔣介石は、眉をひそめた。
「だが、上海には列強の軍隊がいる。それに我々の直系軍を動かせば、全面戦争になるぞ」
「我々の部隊は使いません」
将校は、冷酷に言い放った。
「現在、上海近郊には広東派の『第十九路軍』が駐留しています。彼らは反日感情が強く、かつ我々(蔣介石派)にとっては目障りな地方軍閥です。
彼らを煽り、日本人租界を攻撃させましょう。
もし第十九路軍が勝てば、日本の信用は崩壊する。
もし日本軍が反撃して第十九路軍が全滅しても、我々にとっては政敵が一人消えるだけ。……どちらに転んでも、我々の勝利です」
蔣介石と宋子文は、顔を見合わせた。
それは極めて狡猾で、そして自国民の命を何とも思わない「毒の計略」だった。
「……やれ」
蔣介石は、低く命じた。
「日本海軍の豚どもに、本物の戦争というものを教えてやれ」
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時:1931年(昭和六年)、冬
場所:上海・フランス租界、高級ホテル・キャセイ(和平飯店)
紫煙の漂うスイートルームで、三人の男がコニャックのグラスを傾けていた。
アメリカ国務省から派遣された若手外交官、親中派として知られるアメリカ人ジャーナリスト、そして南京国民政府(蔣介石派)の特務将校である。
「……計画は整いました」
特務将校が、自信ありげに頷いた。
「上海を牛耳る青幇の顔役に資金を渡しました。我々が指示を出せば、日本人租界と、彼らが人道支援と称して独占している赤十字倉庫群で、大規模な『自然発生的な』暴動が起きます」
ジャーナリストが、タイプライターにセットされた原稿を叩いた。見出しの文字が、用紙の上で踊っていた。
若手外交官も、満足げに笑った。
「素晴らしい。日本の『NCPC債』の信用は、平和と人道の上に成り立っている。上海が火の海になれば、ウォール街の投資家たちも一斉に資金を引き揚げるだろう。
……我々は一発の銃弾も撃たずに、日本の経済侵略を止めるのだ」
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時:数日後
場所:上海・共同租界、日本海軍陸戦隊本部・経理室
同じ頃。
思想も正義もない、ただコーヒーとインクの匂いが染み付いた経理室で、海軍省から視察として派遣された軍務課長・沢本頼雄は、IBMのパンチカードと制度債の事務処理要員を母体に編成されたばかりの暗号戦部隊から弾き出された「上海市内の物流動態データ」を睨みつけ、口を歪めていた。
「……南雲。ビンゴだ」
沢本は長江奥地から戻ってきたばかりの南雲忠一大佐に、数枚の集計表を差し出した。
「ここ数日、虹口地区周辺の商取引に、異常な『ノイズ』が発生している。
……まず青幇系のダミー会社から、若い男向けの『安い木綿の平服』が3,000着、緊急発注された。
次に租界外れの複数の印刷所が、通常の3倍のインクと紙を消費し、夜間稼働を続けている」
沢本と海軍兵学校で同期の南雲は、コーヒーを啜りながら黙って聞いている。
「極めつけは、これだ」
沢本は、一枚の発注書のコピーを叩いた。
「上海の主要な葬儀業者と棺桶屋に対し、昨日付で『白布100反』『花輪50基』、そして『安物の棺桶200棺』の前払い予約が入っている。代金の出処は、上海の外資系銀行(アメリカ資本)だ」
「……なるほど」
南雲は、カップを置いた。
「若い男向けの平服(便衣兵の衣装)。大量のインク(反日を煽るビラ)。
そして、200の棺桶(犠牲者となる『愛国烈士』の準備)。
……実に分かりやすい。彼らは我々の倉庫を襲い、わざと『200人ほどの死者』を出して、それを悲劇の英雄に仕立て上げるつもりだな」
沢本は、背筋が寒くなるのを感じた。
敵の暗号を解読したわけではない。スパイを潜入させたわけでもない。
ただ、「日本海軍の息がかかった銀行・倉庫・保険・物流網」から吸い上げた商取引の伝票を束ねただけで、敵の軍事作戦からプロパガンダの台本まで、全てが丸裸になってしまったのだ。
「陰謀とは、思想ではなく『購買』なのだとさ。東郷の奴が言うには」
東郷一成とも同期の沢本は静かに立ち上がった後、南雲を振り返った。
「南雲。というわけで、『予約』は200人だそうだ」
南雲は、獰猛な笑みを浮かべた。
「棺桶屋に『キャンセル』が出ないよう、キッチリ200人詰めてやるわ。
彼らは、民衆の自然な怒りが爆発したというシナリオを書きたいようだが……随分と手回しのいい『自然発生』があったものだな。
アメリカから買った『移動式発電機(リバティ重戦車)』と『トラクター(M1917)』の暖機運転を始めておく。冬は冷えるからな。赤十字の倉庫の小麦が凍らないように、発電して温めてやらねば」
軍事動員ではない。
あくまで「救援物資の凍結対策」であり「アメリカ製発電機の夜間点検」である。
⸻
場所:東京・永田町、総理大臣官邸
総理大臣兼外務大臣、田中義一は、海軍から回ってきた「上海の領収書データ(棺桶と平服の大量発注)」を読み、深く、そして満足げなため息をついた。
「……見事だ。東郷の小僧がこしらえた目には、不逞の輩の腹の中の回虫まで見えているらしいな」
田中の前に直立しているのは、陸軍省軍事課長の永田鉄山大佐と、参謀本部作戦課長の小畑敏四郎大佐である。
彼らは陸軍の中枢を担う「バーデン=バーデンの盟約」以来の同志であり、今の日本陸軍で最も冷徹に世界を見据えている頭脳だった。
「総理」永田が一歩進み出た。
「海軍の報告が事実であれば、近日中に上海の共同租界で、便衣兵による大規模な暴動と、赤十字倉庫への襲撃が発生します。現地の海軍特別陸戦隊数千名だけでは、暴徒に偽装した第十九路軍(三万)を抑えきれるか……」
「だから、陸軍(お前たち)を呼んだのだ」
田中は、葉巻を灰皿に置いた。
「永田、小畑。最近関東軍の若手将校たちが、満州で不満の声をあげているという噂を耳にする」
永田と小畑は、ピクリと眉を動かした。
「私は、張作霖とは話をつけてある。満州は今、海軍の金とアメリカの肉で潤っている。そこへ火をつけるような馬鹿どもは、絶対に許さん」
田中の声は、長州閥の親分としての凄みを帯びていた。
彼は総理であり、外相であり、そして元陸軍大将である。
「……だが、若手たちの『ひと暴れしたい』という不満が、ガスのように溜まっているのも事実だ。
だから、ガスを抜いてやる。満州ではなく、国際社会の目の前でな」
田中は、上海の地図を指差した。
「朝鮮軍(朝鮮半島駐留部隊)の精鋭を、上海へ派遣しろ」
「朝鮮軍を、ですか?」
小畑が目を丸くした。史実において朝鮮軍は、関東軍の暴走に呼応して独断で満州の国境(鴨緑江)を越えた部隊だ。
田中はその「最も暴発しやすい部隊」を、あえて別の場所へ振り向けようというのだ。
「そうだ。海軍の輸送艦隊を使い、堂々と海を渡らせろ。
名目は……そうだな。『長江水害救援物資・上海中継基地の保護』。
これならアメリカも文句は言えん。彼らの赤十字物資を守るためだからな」
田中は、ニヤリと笑った。
「軍の暴走を抑えるには、中央の統制下で、合法的な『武功を立てる場』を与えてやるのが一番だ。
……小畑。作戦計画を立てろ。ただし、名前は極力地味なものにしろ。間違っても、上海出兵だの膺懲だのと勇ましい名前をつけるな」
小畑敏四郎は、その卓越した作戦頭脳をフル回転させた。
彼は一切の感情を排した、官僚的で退屈な作戦名を提案した。
「……では、『在上海邦人及救援物資保護予備配置要綱』。これでいかがでしょうか」
「うむ。それで、裏の作戦書には何と書く?」
田中が、試すように問うた。
小畑は、一切の躊躇なく答えた。
「『敵性勢力が租界および救援倉庫への攻撃を開始した瞬間、事前に配置した“救済機材(旧米軍戦車・大発・燃料など)”を、即時に“治安回復行動”へと転用し、敵を殲滅する』……です」
「よろしい」田中は深く頷いた。
「自分の葬式の準備をしてから喧嘩を売りに来るとは、南京の連中も随分と律儀なことだ」
いつもお読みいただきありがとうございます。
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