三旗護送
時:1931年(昭和六年)、夏
場所:中国・漢口(武漢)、長江流域
その光景は、地獄の入り口を塞ぐ「鋼鉄の門」のようだった。
未曾有の豪雨と融雪が引き起こした「長江大水害」。数千万人が家を失い、数百万人が餓死と疫病の危機に瀕している、今世紀最大の人道危機である。
濁流に沈んだ漢口の市街地。水深数メートルに達した泥水の中を、無数の難民たちが屋根の上や急造のイカダにしがみつき、飢えとコレラの恐怖に震えていた。
彼らを救うはずの国民党軍や地方軍閥は、救援どころか高台の安全地帯を占拠し、被災者から身ぐるみを剥ぐ略奪集団と化していた。
「おい! そこの小舟! 金目のものを置いていけ! なければ女を置いていけ!」
国民党の軍服を着た兵士たちが、銃を突きつけて難民を脅す。
そこへ、低い汽笛の音が響き渡った。
霧の向こうから現れたのは、巨大な「城」だった。
日本帝国海軍・第十一戦隊旗艦、河川砲艦『勢多』。
吃水わずか1メートルのその船体は、氾濫原の最奥部まで難なく侵入し、難民たちの目の前にその威容を現した。
その後ろには、『堅田』『比良』『保津』など13隻の砲艦と、真っ白に塗装された新型の上陸用舟艇『大発動艇』が何十隻も数珠繋ぎになって続いている。
だが、川岸に避難していた中国の難民や、欧米の視察船の目を最も引いたのは、その砲艦と大発の特設マストに掲げられた「三つの旗」だった。
最上段、艦尾で誇り高く翻るのは、日本の『旭日旗』。船舶の所属と指揮権、そして武装護衛の意思を示す。
その下、マストの右舷側に掲げられているのは、アメリカの『星条旗』。積荷がアメリカ赤十字と教会基金由来の援助物資であることを示す。
そして左舷側で風に揺れているのは……赤・黄・青・白・黒の五本からなる『五色旗』だった。
「……信じられない。日本の軍艦に、アメリカの国旗と、中国の旧国旗が同時に掲げられているぞ」
伴走するアメリカの報道船に乗った『TIME』誌の記者が、目を丸くしてシャッターを切った。
東郷一成が名付けた作戦名、『三旗護送』。
その光景は、長江の歴史において最も奇妙で、最も平和的で、そして最も「暴力的な」パレードであった。
「な、なんだあれは……!」
略奪をしていた中国兵たちが、後ずさる。
「……警告する。我々は日米中合同人道支援部隊である」
『勢多』の艦橋から、拡声器の中国語が響いた。
「これより、難民に対する食糧および医療品の直接配給を開始する。
配給の妨害、および難民への略奪行為を行う者は、『匪賊行為』と見なし、即刻撃滅する」
中国兵の一人が、自らの銃を構えて喚いた。
「ふざけるな! ここは中国の領土だ! 日本鬼子とメリケンの指図など受けるか!」
その時、
『勢多』の8センチ砲が火を噴いた。
砲弾は、中国兵たちが占拠していた高台の、ほんの10メートル先の水面に落ち、巨大な水柱を上げた。
泥水と爆風を全身に浴びて、中国兵たちは悲鳴を上げて逃げ散った。
艦橋で双眼鏡を下ろした海軍中尉が、冷たく言い放つ。
「……賊どもめ。次は直接当てるぞ」
川岸の国民党軍の将校たちは、目の前を通り過ぎる『莫大な富(食料と薬)』を、ただ指をくわえて見逃すしかなかった。
「……クソッ! 日本の軍艦じゃ手が出せねえ!」
将校が、地面に唾を吐く。
「なんでメリケンの物資を、東洋の鬼子(日本軍)が護衛してやがるんだ! あれがウチの部隊に入れば、三ヶ月は兵隊を食わせられるのに!」
略奪。横領。当時の中国軍閥の兵站は、現地からの略奪を前提としていた。
圧倒的な暴力。それこそが、この地で「人道」を貫くための唯一の保証だった。
また、日本海軍はすでに上海の列強領事団へ事前の根回しを終えていた。
『日本海軍長江砲艦隊は、米国赤十字の救援物資輸送支援のため、一定期間、救援識別旗を併掲する。これは交戦意思を示すものではなく、人道輸送の安全確保を目的とする。なお本作戦は、長江流域の地方当局および満州方面の輸送協力を受けております。従って、協力中国側の識別旗として五色旗を掲げることに、何ら政治的意図はありません』
アメリカ領事は、自国の赤十字が守られるならと大賛成した。
イギリスとフランスは「人道支援」という大義名分と、長江の航行秩序が維持されるならと渋々黙認した。
この外堀の埋め方に軍令部もぐうの音が出なくなり、ついに「三旗護送」という前代未聞の作戦が認可されたのである。
⸻
時:同日
場所:漢口・日米合同救済キャンプ
砲艦の護衛の下、上陸した海軍陸戦隊とアメリカ赤十字のスタッフが、瞬く間にテント村を設営していく。
「整列しろ! 順番に配給する!」
陸戦隊員たちが、機械のような正確さで難民を誘導し、一人500グラムの小麦粉と、子供には粉ミルクを配っていく。
だがアメリカ赤十字の医師、ウィリアムズは、絶望のあまりぬかるんだ地面に膝をつきそうになった。
日本海軍の砲艦と陸戦隊のおかげで、軍閥の略奪は防げている。アメリカから届いた何万トンもの小麦粉の山も、確かにそこにある。
だが、難民たちは次々と死んでいった。飢えではなく、見えない病魔によって。
「……ダメだ。また赤痢だ! こちらのテントでは腸チフスが発生している!」
ウィリアムズは頭を抱えた。
「なぜだ! 小麦粉は配っているはずだぞ!」
従軍記者に問われ、ウィリアムズは泥水の海を指差した。
「水だよ! そして火だ!
見渡す限り水没して、乾いた薪が一本もない! 遺体を焼くことも、水を煮沸消毒することもできない! 難民たちは、自分たちの排泄物が混ざったこの泥水をそのまま飲んでいるんだ!」
さらに悪いことに、「小麦」というアメリカの善意そのものが、現地の難民を苦しめていた。
長江中流域の農民は、米を主食としている。彼らは配られた白い小麦粉をどう調理していいか分からなかった。水害で薪がないためパンを焼くことも、麺を茹でることもできない。
「彼らは小麦粉を水で溶いて、生煮えのまま泥水と一緒に飲み込んでいる! あるいは、騙されて悪徳商人に二束三文の米と交換されている!
……我々が運んだのは食糧じゃない。病原菌の餌だ!」
その時だった。
重低音を響かせ、長江を上ってきた日本の輸送船が接岸した。
その巨大なデリックが、次々と奇妙な形状の機械を陸揚げしていく。
そして海軍の純白の制服とは異なる、カーキ色の軍服を着た一団が降り立った。
「……日本帝国陸軍・防疫給水部隊。海軍からの『御依頼』により、只今到着した」
部隊を率いる軍医将校が、出迎えた海軍陸戦隊の大尉に敬礼した。
「お待ちしておりました。……早速ですが、水をお願いします。米国の赤十字がパニックになっています」
「任せたまえ」
陸軍の軍医たちは、手際よく機械を水辺に設置した。特殊な珪藻土フィルターを用いたこの最新鋭の浄水装置――『石井式濾水機』は、長江の泥水とバクテリアを完璧に濾過し、瞬く間に透明な飲料水を生み出し始めた。
「……石井三等軍医正。機材の調子はどうかね」
「完璧ですよ、海軍の大尉殿」
石井四郎。この陸軍軍医は白い白衣を翻し、『石井式濾水機』のバルブをひねった。
泥と死骸と汚物が混ざり合った長江の茶色い水が、機械を通って、反対側の蛇口から「無色透明な真水」となって勢いよく流れ出てくる。
「どんな泥水だろうが、コレを通せば一瞬で無菌の飲料水になります。……赤痢もコレラも怖くありませんよ」
石井は自らその水をコップに汲んで飲み干し、ニヤリと笑った。
「さあ、飲めるぞ! 煮沸しなくても大丈夫だ!」
陸軍兵士たちが、難民たちに清潔な水を配り始める。
なぜ、犬猿の仲である陸軍の部隊が、海軍の船に乗っているのか。
東郷は陸軍省の永田鉄山を通じて、石井四郎にこう持ちかけたのだ。
『アメリカの記者と赤十字の目の前で、君の発明した濾水機の実地試験をやらないか。機材の調達費も輸送費も、すべて海軍で出そう』と。
陸軍は、喉から手が出るほど実地でのデータと「手柄(予算獲得の実績)」が欲しかった。
海軍は、水害地域で活動する兵士たちのための安全な水が欲しかった。
アメリカ赤十字は、コレラを防いだという人道支援の成功例が欲しかった。
そして難民たちは、生きるための水を欲していた。
⸻
陸軍が水問題を解決した横で、海軍も「燃料」と「食」の問題を力技でねじ伏せていた。
輸送船から大量のドラム缶が降ろされる。
「薪がないなら、油を燃やせ!」
海軍の大尉が指示を飛ばす。
海軍が持ち込んだのは、はるばるベネズエラから運んできた「艦艇用重油」と、それを使用する大型の野戦用バーナーだった。
さらに巨大な鉄鍋がいくつも据え付けられ、海軍の主計兵(調理担当)たちが腕まくりをした。
「小麦粉の使い方が分からんのなら、俺たちが調理してやる!
小麦粉を練ってちぎり、アメリカの牛肉と一緒に煮込め! 海軍式『すいとん』だ!」
重油バーナーの強烈な火力で煮立てられた、肉と野菜と小麦粉のスープ。
それは、薪がなくて冷たい泥水しか飲めなかった難民たちにとって、まさに天上のご馳走だった。
「美味い! 美味いよ……」
難民たちが、涙を流しながら温かいスープを啜る。
アメリカが持ち込んだ「素材(小麦)」は、日本の「技術(防疫)」と「エネルギー(燃料)」、そして「ノウハウ(調理)」が合わさって、初めて彼らを救う命の糧となったのである。
ウィリアムズ医師は、脱帽するしかなかった。
「……負けたよ。我々アメリカは小麦を与えただけだった。だがあなた方日本人は、それを『命に変換するシステム』ごと持ってきた」
その時、アメリカ赤十字の視察員や『TIME』誌の記者たちが乗る報道船から、歓声とどよめきが上がった。
「……オーマイゴッド。見ろ、あの巨大な艀を!」
河川用の平底の大型艀の上に、文字通り『城』のような巨大な鉄の塊が鎮座していた。
全長10メートル、重量38トン。アメリカ製重戦車『マークVIII・リバティ』だ。
車体は眩しいほどの白塗りに塗装され、側面には太い英語のレタリングが施されている。
『MOBILE POWER PLANT(移動発電所)』
『FLOOD RESCUE TRACTOR(水害救助トラクター)』
主砲が収まっていたスポンソンは木製のカバーで塞がれ、車体上部には太い煙突と、巨大なケーブルドラム、配電盤、そして周囲を真昼のように照らす大型サーチライトが据え付けられている。
「……信じられない。あれは我が軍がスクラップにした戦車じゃないか!」
記者が、カメラのシャッターを切りながら叫ぶ。
「違いますよ、ミスター」
案内役の日本海軍士官が、にこやかに答えた。
「あれは戦車ではありません。我々がアメリカの商務省から『荒地整地用トラクター』として合法的に輸入したものです」
艀が、水没を免れていた漢口の堅牢な石造り埠頭に接岸する。
海軍の特設クレーンが唸りを上げ、38トンの白い巨体をゆっくりと陸地に降ろした。
「あの巨大なリバティ・エンジン(400馬力)を、キャタピラを回すためだけではなく、内部の発電機を駆動するために使います。
夜間照明用の電力、通信所の電源、堤防補修用の重機材の牽引……。あれ一両で、この難民キャンプ全体の電力を賄える『移動式発電所』なのです」
リバティのエンジンが轟音を上げ、太いケーブルを通じて、陸軍・石井四郎の『濾水機』や、野戦病院のテントへと次々に電気が送り込まれていく。
暗闇と絶望に包まれていた漢口の泥沼に、アメリカ製エンジンの力で煌々とした文明の光が灯った瞬間だった。
「素晴らしい! ワンダフルだ!!」
記者たちは狂喜した。
「かつて人を殺した鋼鉄のバケモノが、極東の泥沼で光と命の水をもたらす平和のトラクターに生まれ変わっている! 日本の海軍は、最高にクールなアイデアマンだ!」
南京では、その夜、誰も眠れなかった。
“American Aid, Japanese Ships, Chinese Flag: Mercy on the Yangtze.”
(アメリカの支援、日本の船、中国の旗――長江の慈悲)
数日後、この号の『TIME』誌は全米で飛ぶように売れ、アメリカ市民は「我々の愛が中国を救った!」と感動の涙を流した。
誰も、あの「中国の旗(五色旗)」が、南京政府を真っ向から否定する意味を持っていることなど、露ほども気にしていなかった。
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