半分本当のこと
時:1931年(昭和六年)、夏
場所:オハイオ州、とあるメソジスト教会
「……私たちは、大砲も、爆弾も求めておりません」
祭壇の前に立つ宋美齢は、両手を胸の前で組み、祈るように語りかけていた。
「私が求めているのは、長江の泥水の中で凍えている赤ん坊を包む、一枚の温かい毛布です。
病に苦しむ母親たちを救う、一錠の薬です。
……主の愛を信じるアメリカの皆様。どうか、極東で泣いている幼い命に、貴方たちの温かい光を分けてはいただけないでしょうか」
宋美齢の目から、一筋の美しい涙がこぼれ落ちた。
礼拝堂のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。婦人たちはハンカチで目を押さえ、男たちは財布の紐を緩めた。
「可哀想に……! 私たちの少しの我慢で、中国の子供たちが救われるなら!」
「政府は何をしているんだ! 日本の軍隊ばかり儲けさせて、あの哀れな難民たちを見殺しにする気か!」
礼拝が終わると、教会の寄付箱には、不況下とは思えないほどの大量の小銭とドル紙幣が溢れかえった。
宋美齢は、孤児院やキリスト教系の学校、赤十字を窓口に指定し、蒋介石の南京政府(軍部)の影を完全に消し去った。
彼女はウォール街という「冷酷な脳」ではなく、アメリカの感情をハックすることにすぐ切り替えたのだ。
この『草の根の善意』はやがてうねりとなり、議員たちに「日本を規制せよ」という圧力をかける最大の武器となるはずだった。
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時:数週間後
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
「……マダム・ソォンの『中国水害難民・救済基金』。全米の教会と赤十字を通じて、すでに200万ドル近い寄付金が集まっているようです」
副官の樋端久利雄が、苦虫を噛み潰したような顔で報告した。
「TIME誌のヘンリー・ルースも、大々的に『中国の孤児を救え』というキャンペーン記事を打ちました。
アメリカのメディアや宗教界隈が急速に『日本=強欲な加害者』『中国=可哀想な被害者』という構図に傾きつつあります。議会でも、この世論に押されて『日本への生糸決済の制限』を言い出す議員が出始めるかもしれません」
樋端は、焦燥感を隠せなかった。
「閣下。理屈(経済合理性)では勝てても、相手が『赤ん坊の命』を盾にして感情論で攻めてきた場合、アメリカのような民主主義国家では一気に盤面がひっくり返る危険があります」
だが東郷一成少将は、窓際のソファで新聞を読みながら、ふっと笑った。
「……素晴らしい行動力だ。マダム・ソォンは、やはり優秀な政治家だな。
ウォール街から追い出された後、泣き寝入りせずに『大衆の善意』を組織化するとは」
「感心している場合ではありません! このままでは、我々のNCPC経済圏が悪者にされてしまいます!」
「樋端君」
東郷は、新聞をパタンと閉じた。
「君は、慈善事業の本質をまだ分かっていないようだ。
……集まったその『200万ドルの寄付金』。それを彼女たちは、どうやって中国の赤ん坊の口に届けるつもりかね?」
樋端は、ハッとした。
「アメリカの教会で集めたドル紙幣を、そのまま中国の難民に配っても、泥水の中では何の役にも立たない。
彼らはその寄付金を使って、アメリカ国内で毛布や薬や食料を買い付け、それを船に乗せて、太平洋を渡って上海まで『運ばなければ』ならないのだよ」
東郷の瞳の奥で、冷徹な海軍将官の炎が静かに燃え上がった。
「樋端君。慈善活動とは、感情のビジネスではない。純然たる『兵站』だ」
東郷は、デスクの上の書類に手を伸ばした。
「……上海の海軍特別陸戦隊、および海軍の河川部隊を使う。軍令部に意見具申だ。
我々も、大々的な『長江水害・日米合同・内陸部救済作戦』を発動する」
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時:1931年(昭和六年)、夏
場所:東京・市ヶ谷、陸軍省・参謀本部・海軍省合同会議室
「……狂気の沙汰だ! 断じて許可できん!」
陸軍参謀本部の作戦課長が、東郷一成が提出した『長江水害・内陸部救済作戦計画』の書類を机に叩きつけた。
「水害で泥沼と化した内陸部に、我が軍が極秘に開発した最新鋭の上陸用舟艇(大発動艇)を投入するだと!?
あの船首がそのままスロープになる構造は、帝国陸軍が島嶼防衛・敵前上陸作戦のために血の滲むような思いで開発した最高機密だぞ!
それをアメリカ人の記者や赤十字の連中の目の前でパカパカ開け閉めして見せるなど……『我々はこの舟で、いつでもフィリピンやハワイのビーチに戦車と兵隊を直接上陸させられます』と宣伝するようなものではないか!」
陸軍省の保守派将官も、青ざめた顔で同調する。
怒号が飛び交う中、海軍軍務局長・堀悌吉少将は、ゆっくりと立ち上がり、机の上に一枚のスケッチを置いた。
それは真っ白に塗装され、側面に巨大な『赤十字』と『星条旗』、そして『旭日旗』が描かれた大発動艇のイラストだった。
「……陸軍のお歴々。機密とは、隠すことだけが能ではありません」
堀が静かに、だが重みのある声で口を開いた。
「我々が作ろうとしているのは舟ではない。舟の『記憶』だよ」
「記憶だと?」
部下の沢本頼雄軍務課長が、言葉を継いだ。
「閣下。機密とは、存在を隠すことだけではありません。
『その存在の意味を、敵に誤認させること』もまた、最高の秘匿です」
沢本は、スケッチを指先で叩いた。
「敵は舟の形を見ます。ですが、大衆や政治家は『物語』を見ます。
隠すから、敵はそれを恐ろしい兵器だと疑う。
ですが、こうして堂々と人道支援の最前線に出し、アメリカ人のカメラの前で被災者を救助して見せれば……世界はこれを何と呼ぶか。
奇襲用の揚陸艇ではありません。『災害救助用の素晴らしい浅瀬用レスキューボート』と呼ぶのです」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
さらに沢本は、とどめを提示した。
「それに、作戦課長。
この救助作戦は、ただの宣伝ではありません。我が国軍の揚陸能力を飛躍させるための、最高の実地試験です」
「実地試験?」
「ええ。水害で崩壊した長江の内陸部は、そのまま『インフラの破壊された敵地の海岸線』と同じです。
どの程度の泥濘で接岸可能か。
車両(トラクターなどに偽装した戦車)の揚陸に何分かかるか。
一度にどれだけの小麦袋や薬品(弾薬や糧食の代わり)を運べるか。
沖合の輸送船と艀との接続効率はどうなのか。
……これら揚陸戦に必要な全てのデータを、アメリカの赤十字の『人道救助』という錦の御旗を使って、堂々と実戦さながらに収集できるのですよ。これ以上の演習場がありますか?」
作戦課長は、絶句した。
その時、これまで腕を組んで黙っていた陸軍軍事課長・永田鉄山大佐が、低く、押し殺したような声で呟いた。
「……待て」
永田は、机上の白い大発のスケッチを凝視したまま、顔を上げた。
「つまり、これは機密漏洩ではない。機密の『偽装登録』だな」
「何を言うか、永田大佐!」
保守派が睨みつけるが、永田の口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。
「分からないのか。
欧米の兵器台帳に、これを『上陸用舟艇』として記録させる前に、国際世論の記憶に『災害救助艇』として登録してしまうのだ。
一度“人道支援のシンボル”として世界に認知されれば……後になって欧米の軍部が『あれは危険な揚陸艦だ、我々も対抗して造るべきだ!』と予算を要求しても、議会や大衆は『ただのレスキューボートに怯えて軍拡するのか』と笑って予算を削るだろう」
永田は、堀悌吉を見た。
「……なるほど。相手の『認知』を改ざんして、兵器の対抗開発そのものを遅らせる。知能犯の海軍らしい、見事な悪知恵だ」
陸軍一の秀才が、海軍の罠を完全に理解し、そして共犯者として乗った瞬間だった。
「……もし後になって、この舟が兵隊を運んだらどう言い訳する気だ」
作戦課長が、絞り出すように問う。
「簡単なこと」
堀は、冷たく微笑んだ。
「『長江で難民を救うために作った舟ですが、有事なので兵士も乗せてみました』と言うだけです。
……現に長江で難民を救った実績がある以上、誰が最初から『あれは純粋な兵器だった』と断定できますか?
『半分本当のこと』が、世の中では一番強いのですよ」
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時:数週間後
場所:中国・漢口(武漢)、長江流域、水没した内陸部
「Go! Go! Go!」
アメリカ赤十字の視察員と『TIME』誌の記者が大興奮でカメラのシャッターを切る中、真っ白に塗られた『大発動艇』が、見事な操艦で泥濘の浅瀬に乗り上げた。
ガチャン!!
船首のバウランプが開き、スロープとなる。
そこから、真っ白に塗られたM1917軽戦車(名目:小型発電機運搬車)がキャタピラを軋ませて飛び出し、スタックしていた救急馬車を牽引して引き上げていく。
その後ろでは、水兵たちが素早い手つきで小麦粉の袋をバケツリレーで陸揚げしていた。
「素晴らしい! アンビリーバブルだ!」
記者が絶賛する。
「かつてのヨーロッパの殺戮兵器が、極東の地で『命を救うトラクター』に生まれ変わっている!
こんな浅瀬に直接乗り上げ、しかも船の頭が橋になって車両を降ろせるなんて! 日本海軍は、災害救助のためにとんでもない『魔法のボート』を発明したんだな!」
だが、そのカメラの死角――大発の操舵席の陰では。
南雲忠一大佐が、片手にストップウォッチ、もう片手に野帳を持ち、冷徹な目でタイムを計測していた。
「……バウランプ展開から車両揚陸まで、四十五秒。悪くない」
南雲は鉛筆を走らせた。
「だが泥の粘度が高い場合、スロープの先端が沈み込む。底板の補強と、車輪付き車両を降ろす際の滑り止め用の鉄板が必要だな。……よし、本国に電報を打て。『次期生産ロットからランプの表面に滑り止めのリブを追加せよ』とな」
数日後、この光景はアメリカ全土の新聞や雑誌を飾った。
『鋼鉄の怪物、長江の赤ん坊を救う!』
『日本海軍、アメリカ製旧式戦車を平和目的に再利用!』
『驚異の救助ボート! 浅瀬のヒーローたち!』
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場所:ワシントンD.C. 海軍省・情報局(ONI)
ONIの極東分析官は、『TIME』誌のグラビアページに載った「日本の白いレスキューボート(大発)」の写真をルーペで食い入るように見つめ、冷や汗を流していた。
「……提督! このボートの構造、ただの救命艇ではありません!」
分析官は、海軍作戦部長のプラット大将の部屋に駆け込んだ。
「船首のランプがそのままスロープになる構造。フラットな船底。……これは兵士だけでなく、軽戦車や大砲をそのままビーチに直接揚陸させるための、純粋な軍用強襲艇です!」
分析官は、声を裏返して叫んだ。
「もしこれを日本海軍が大量生産し、輸送船に乗せて運んできたら……太平洋の我々の島々(フィリピンやグアム)は、湾岸施設がなくても、どこからでも奇襲上陸を受けることになります!
直ちに議会に警告し、我々も同型の揚陸艇の開発予算を……!」
だがプラット大将は、忌々しげに葉巻を灰皿に押し付けた。
「……遅い」
「え?」
「遅いのだよ、分析官。君がそれに気づくのがな。
……議会の予算委員会は、すでにその要求を却下した」
プラットは、一枚の新聞記事を指差した。
そこには、日本の大発に乗って救出される中国の赤ん坊の写真が躍っていた。
「議員どもはこう言ったよ。『海軍はついに頭がおかしくなったのか。長江で難民を救っているあの素晴らしいレスキューボートを“侵略兵器”だと言い張り、対抗するための予算をよこせと言うのか』とな。
おまけに『あのボートは、我が国の古い戦車を運んで活躍している。アメリカの誇りだ』とまで言いやがった」
プラットは、深く暗い絶望の溜息をついた。
「日本はあの舟を兵器としてではなく、『人道のシンボル』として世界に売り込んだ。
……我々が今から『あれは危険な兵器だ』と叫んでも、誰も信じない。世間には『海軍が予算欲しさに言いがかりをつけている』としか映らんのだ」
分析官は、言葉を失った。
「我々は……」
プラットは、窓の外のワシントン記念塔を虚ろな目で見つめた。
「我々は戦争が始まる前から、すでに『目隠し』をされてしまったようだな」
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