クレジット・レーティング
時:1931年(昭和六年)
場所:ニューヨーク・マンハッタン、ガーメント・ディストリクト(衣料問屋街)
「……ミスター・ゴールドスタイン。貴社は今月、上海の業者から生糸を買い付けようとされていますね?」
合衆国銀行の融資担当者が、ユダヤ系アパレル業者のゴールドスタイン社長に対し、にこやかに書類を差し出した。
「ああ、そうだ。日本の生糸より、中国産の方がわずかに安いからな。不況下では1セントでもコストを削りたいんでね」
ゴールドスタインは、葉巻をくわえながら答えた。
「なるほど。それは素晴らしい経営判断です」
担当者は、全く反対する素振りを見せずに微笑んだ。
「ですが、大変申し訳ありませんが、中国産の生糸をご購入される場合、当行が提供している『NCPC裏書スクリップ』による決済ネットワークはご利用いただけません。お支払いは、全額『ドル現金』でお願いいたします」
「……何だと?」
「さらに」担当者は、さらさらと条件を書き出した。
「NCPC決済枠から外れるため、当行からの運転資金融資の金利は、優遇レートの2%から、通常レートの8%に変更となります。
また、日本海軍が提携するロイズの特別割引海上保険や、優先的な船腹(貨物船の割り当て)もご利用いただけません。ご自身で手配をお願いいたします。
……よろしいですね?」
ゴールドスタインの顔から、スゥッと血の気が引いた。
中国産を買って浮くコストは、せいぜい数パーセント。
だが、NCPC決済の恩恵(低金利、安い保険、確実な輸送、手元ドルの温存)を失えば、コストは数十パーセントも跳ね上がる。
おまけに、今の時代に「ドル現金」を用意しろだと? そんなことをすれば、会社は一瞬で黒字倒産だ。
「……いや、待て! 今の話は無しだ!」
ゴールドスタインは、慌てて上海行きの発注書を破り捨てた。
「生糸は全部、日本の横浜から買う! NCPC決済で頼む! 中国の糸なんか、一束たりとも要らん!」
「賢明なご判断です、ミスター・ゴールドスタイン」
担当者は、満足げに新しい契約書を差し出した。
アメリカ政府は、中国に対する制裁も、関税の引き上げも一切行っていない。
だが、東郷が構築した「エコシステムの経済合理性」が、アメリカの商人たちに『自発的に中国産をボイコットさせる』という、サイレント・キルを実行していたのである。
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場所:ニューヨーク、ウォルドルフ=アストリア・ホテル 大宴会場
「……皆様。どうか想像してください。自由市場という名の下で、静かに絞め殺されようとしている、五億のアジアの民の姿を」
シャンデリアの輝きの下、チャイナドレスに身を包んだ宋美齢の演説は、まさに完璧な芸術であった。
流暢な東海岸の上流階級のアクセント。情熱的なジェスチャー。そして、瞳に浮かぶ大粒の涙。
会場に集まったのは、彼女の母校ウェルズリー大学の同窓生たち、キリスト教の宣教師ネットワークの重鎮、そして親中派メディア『TIME』誌の創業者であるヘンリー・ルースら、アメリカの世論を動かすエリートたちである。
「日本の海軍は、軍艦を造るだけでなく、不当な金融操作によってアメリカの自由な市場を歪めています。
彼らは我が国の生糸を市場から締め出し、中国から近代国家への歩みを奪い、アジアの経済を軍国主義の鎖に繋ごうとしているのです。
……どうか、アメリカの良心をもって、我々を、中国を助けてください……!」
宋美齢がハンカチでそっと目頭を押さえると、会場からは割れんばかりの拍手と、日本に対する怒号が巻き起こった。
「可哀想な中国を救え!」「日本の非道な経済侵略を許すな!」
アメリカ人の大好きな『虐げられる弱者を救う正義のヒーロー』というスイッチが、見事に押し込まれた瞬間だった。
だが。暗がりでそのニュースを新聞で見ていたニューヨークの労働者たちの反応は、驚くほど冷ややかだった。
「……ケッ。なんだこの女。お高くとまりやがって」
ペンキ塗りの仕事帰りの男が、ミントキャンディを噛み砕きながら吐き捨てた。
「着てるドレス、本物のシルクだぜ。こんなにピカピカに太った『可哀想な被害者』がいるかよ」
「本当だぜ。あの腐った牛肉で債券を作ってるって笑われてた連中が、そんなに怖いのか?」
「肉で裏付けられてるなら、少なくとも食えるじゃねえか」
「あの中国人の女や、ホテルの中で拍手してた金持ちどもは、フーヴァー・ビルで凍死しかけてた俺たちにパンの耳一つ恵んでくれたか?
……ワシントンの連中は『自己責任だ』って俺たちを見捨てた。
でもよ、日本のカイグンさんは違った。言葉も通じねえ東洋人の兵隊さんがニコニコしながら、俺のガキに山盛りの肉入りシチューをよそってくれたんだ」
男たちの目に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
寒さで凍えていたはらわたに、熱いスープが染み渡っていったあの感覚。生き返った、と思ったあの瞬間の味。
彼らにとって宋美齢の演説は、腹の足しにもならない金持ちの戯言に過ぎなかった。
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さらに、その「アメリカの良心」が送り届けられた中国大陸・長江流域の現実は、宋美齢の美しい涙とは程遠い、地獄のような様相を呈していた。
時:同月
場所:中国・南京近郊の農村
「……また、小麦か」
米作農家の老人は、配給所から支給された麻袋を見て、絶望の声を上げた。
「俺たちは先祖代々、米を食って生きてきたんだ! こんな粉の塊、どうやって炊いて食えって言うんだ! 薪も足りねえのに!」
長江流域は、伝統的な米の栽培地帯である。
そこにアメリカから「余剰在庫の処分」として大量の小麦が押し付けられた。粉食の文化がない農民たちは、支給された小麦を上手く調理できず、消化不良を起こす者が続出していた。
さらに最悪なことに、大量の小麦が市場に流入したことで、現地の穀物価格は完全に大暴落していた。
「これで今年の秋に米が実っても、二束三文だ……。俺たちはどうやって生きていけばいいんだ」
アメリカの「善意の小麦」は、中国の農村経済を根本から破壊する猛毒として機能していた。
そしてその小麦の流通を握る国民党(蔣介石)の軍将校たちは、私腹を肥やすことに熱中していた。
「おい、この小麦の半分は軍の倉庫へ運べ! 残りは闇市で売りさばいて金に換えろ!」
国民党の将校が、ゲラゲラと笑いながら指示を出す。
「アメリカ様は気前がいい! この小麦(兵糧)があれば、共産党ゲリラや逆らう軍閥どもを兵糧攻めにして、一網打尽にできるぞ!」
蔣介石にとって、アメリカの小麦は被災者の救済ではなく、「内戦に勝つための軍事物資」であり「軍閥を買収するための資金源」に他ならなかった。
アメリカのキリスト教的ヒューマニズムは、中国大陸の泥沼の権力闘争の中で、最も腐敗した形で消費されていたのである。
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時:数週間後
場所:ワシントンD.C. J.P.モルガン商会・会議室
「……というわけで、中国の宋美齢夫人は、我が国の銀行団に対し、さらなる追加の『復興借款』と『武器の供与』を求めています」
宋美齢に同席した国務省の役人が、熱っぽく語った。
「これは、日本のアジア支配に対抗する素晴らしい大義です。皆様の銀行からも、是非とも愛国的な出資を……」
「お断りします」
その言葉を遮ったのは、モルガン商会の重役でも、国務省の人間でもなかった。
会議室の端に座っていた、東郷一成である。静かに微笑をたたえている。
「なぜ日本海軍の人間がここにいる!」
役人が色めき立つが、ジャック・モルガンが冷ややかにそれを制した。
「ミスター・トーゴーは、我々の重要な『NCPCファンド』の大口共同出資者だ。彼にはこの会議に参加する権利がある」
東郷は、分厚いファイル――IBMのパンチカードで集計された、中国大陸の最新の『物流データ』――をテーブルに滑らせた。
「皆様は投資家です。涙や道徳ではなく『数字』で語りましょう」
東郷は、冷徹な声で言った。
「マダム・ソォンは『アメリカの小麦が難民を救っている』と仰ったそうですが……我々のデータによれば、貴国が送った小麦の約60%は、難民の口に入る前に国民党軍の倉庫に消え、あるいは闇市で転売され、蔣介石の軍閥討伐資金に消えています」
「なっ……! 証拠があるのか!」
「ええ。上海の港湾における荷動きと、長江流域の穀物相場の相関データです」
東郷は、容赦なく事実を突きつけた。
「さらに、彼らに追加のドルを融資したところで、国民党にはそれを『返済する能力(産業)』がありません。彼らは内戦に忙しく、インフラを整備する気もない。
……出資した金は腐敗した将校の懐に入り、永遠に返ってこない不良債権になります」
ウォール街の銀行家たちの顔から「民主主義への同情」がスゥッと消え去り、「貸し倒れの恐怖」が浮かび上がった。
東郷一成が、ゆっくりと身を乗り出した。
「我々日本海軍は、直近ではイタビラの鉄鉱山に鉄道を敷き、ブラジルの農民に『仕事』を与えました。
アメリカ中西部の肉を適正価格で買い取り、インフラ(冷蔵船)を構築しました。
我々の出す『NCPC債』には、確実な実物資産の裏付けと、それを履行する組織力があります。
……さて、銀行家の皆様。
同情で中国の腐敗した内戦に金をドブに捨てるか。
それとも合理的に我々日本のインフラに投資し、確実なリターンを得るか。
……どちらが資本主義として正しいか、悩む必要はありませんね?」
ジャック・モルガンは、フッと笑って葉巻の灰を落とした。
「無論だ、東郷少将。我々は慈善事業家ではない。儲からない涙に、払うドルはない」
アメリカの世論がどれだけ中国に同情しようとも、金庫の鍵を握るウォール街のエリートたちは、決して「回収できない慈善事業」には手を出さなかったのだ。
「……ならば」
宋美齢は、なおも引き下がらずに銀行家の方を見た。
「銀行団の皆様。我が国民政府に、直接の借款(ドル融資)をお願いいたします。
そうすれば、我々も通貨(法幣)を安定させ、日本のNCPCに対抗する金融システムを構築できます!」
だが、ウォール街の銀行家の目は、先ほどの「涙を流していた観客」のものとは全く違っていた。
そこにあるのは、冷徹な査定者の目だった。
「マダム・ソォン。貴女は先程の演説で、日本が悪いと声高に叫ばれた」
銀行家は、冷ややかに言った。
「ですが、我々金融界から見れば、現実は全く逆です。
日本は、大恐慌で潰れかけた我々の銀行を『3億ドルの現金』で救ってくれました。
日本は、アメリカの中西部から大量の肉を買い、農民とコックに仕事を与えてくれました。
日本は、我々の預金者に安心を与え、確実に契約を守る、最高のビジネスパートナーです。
……ひるがえって、貴女の国(南京政府)は、我々に何を保証できるのですか?」
「そ、それは……! 我々は四億の巨大な市場を……!」
「四億の難民、でしょう」
銀行家は、容赦なく切り捨てた。
「貴国の北(満州)には張作霖が居座り、国内では軍閥と共産党が内戦を繰り広げている。洪水が起きてもインフラ一つ直せない。
おまけに、貴方の実家である宋一族が、国家の富を独占しているという黒い噂も絶えません。
……マダム。日本は我々の銀行を救いましたが。
貴方は我々に、内戦の泥沼にドブ金(不良債権)を放り込めと仰っている。……我々の株主が、それを許すとお思いですか?」
宋美齢は、顔面を蒼白にして凍りついた。
彼女の最大の武器であった道徳的優越性が、金融資本主義の「クレジット・レーティング」の前に、粉々に叩き割られた瞬間だった。
アメリカ人は、涙を流して同情はしてくれる。
だが、自分たちの利益と財布を犠牲にしてまで中国を助けようとする者は、このウォール街には一人もいなかったのだ。
「……マダム・ソォンの演技は、なかなか見事でしたがね」
会議室を出る道すがら、東郷は静かに呟いた。
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