太平洋熟成
時:1931年(昭和六年)、夏
場所:ニューヨーク、ブルックリン「ピーター・ルーガー・ステーキハウス」
ウィリアムズバーグ橋を渡った先にあるその老舗ステーキハウスは、不況下にあっても、本物の味を求める富裕層で密かに賑わっていた。
お忍びで訪れたFDRとホプキンスは、店の奥のプライベートテーブルに通された。
「……お待たせいたしました、知事閣下」
店のオーナーが、うやうやしく巨大な皿を運んできた。
熱々に熱された皿の上で、分厚い「ポーターハウス・ステーキ」がジュージューと音を立て、溶けたバターと肉汁が混じり合って跳ねている。ナッツとチーズを思わせるドライエイジング特有の芳醇な香りが、FDRの鼻腔をくすぐった。
FDRはナイフを入れ、一口大に切った肉を口に運んだ。
表面のカリッとしたクリスピーな食感。その直後、凝縮された赤身の強烈な旨味と上品な脂の甘みが、口の中で爆発した。
「…………っ」
FDRは目を閉じ、ゆっくりと咀嚼した。
美味い。圧倒的に。
彼がこれまで晩餐会で食べてきた、どんな高級フレンチの肉料理よりも、原始的で力強く、そして完成された味だった。
「……素晴らしい味だ」
FDRは目を開け、オーナーに言った。
「このドライエイジングの技術……。最近東洋人の珍客が、これについて根掘り葉掘り聞いていかなかったかね?」
オーナーは少し驚いた顔をして、それから苦笑した。
「お耳に入っておりましたか。ええ、数ヶ月前に。
牧師の格好をした、酷く英語の流暢な日本人の紳士がいらっしゃいましてな。肉の焼き方から、熟成庫の温度、湿度の管理まで、それはもう熱心にメモを取っていかれましたよ」
「……それで、全部教えたのか?」ホプキンスが顔をしかめた。
「隠すようなものでもありませんからな。ですが……」
オーナーは、少し声を潜めた。
「あの紳士、ただレシピを聞いていっただけじゃありません。うちで一番腕のいい肉磨き職人を引き抜いていきやがったんです」
「引き抜いた?」FDRは眉をひそめた。
「ええ。何でも『太平洋を渡る船の中に熟成庫を作ったから、そこで肉を管理してくれ。給料は今の三倍払う』と。
最初は冗談だと思いましたが、その紳士が置いていった『NCPC』とかいう紙切れを銀行に持っていったら、本当に莫大なドルになったもんで……職人の奴、喜んで船に乗っちまいましたよ」
FDRは手に持っていたフォークを、カチャリと皿に置いた。
「……そうか。職人まで連れて行ったか」
「はい。あの紳士、帰り際にこう言ってましたよ」
オーナーは、懐かしそうに目を細めた。
「『素晴らしい味だ。だが我々の厨房なら、醤油と大根を使ってもう少し日本人好みの、白飯に合う究極のソースが作れるかもしれない』と。
……ハハハ、ステーキに大根と醤油だなんて、東洋人の味覚は奇妙なものですな」
オーナーが笑いながら去った後。
テーブルには、重苦しい沈黙が降りた。
「……フランク。大衆紙は『腐った肉』と笑っていますが……」
『JAP NAVY BACKS BONDS WITH ROTTEN BEEF!』
(日本海軍、腐った牛肉で債券を裏付け!)
『読者諸君、朗報だ! 日本の提督たちはついに完全に狂ったらしい!
彼らが最近発行した新しい「NCPC債」の担保は、なんと金でもドルでもなく、船の底に吊るした「腐りかけの牛肉」だというのだ!
金本位制ならぬ、肉本位制!
彼らの金庫には、もはやネズミの餌しかないらしい。我々のアメリカ海軍は、ステーキハウスに転職した黄色い猿どもを恐れる必要など全くない!』
FDRは、その新聞を放り投げた。金を払ってしまったのが残念だった。
「……ハリー」
FDRは車椅子の肘掛けを強く握りしめ、顔を引きつらせていた。
「この国の新聞記者の脳みそは、ピーナッツバターでできているのか?」
隣のハリー・ホプキンスも、深い溜息をついた。
「……大衆は、日本経済が崩壊しつつある、というニュースを読みたがっているのです。だから、彼らの行動を『追い詰められた奇行』として解釈しようとする」
「奇行だと? 奇行なものか!」
FDRは、机をバンと叩いた。
「ハリー、君にはこれが何に見える! 東郷は、アメリカで買い叩いた牛を輸送する『時間』を使って価値を倍増させ、それを担保に新しい資金を調達しているんだぞ!
これは腐った肉ではない! チーズやワインと同じ、立派な『コモディティ(商品)先物取引』だ! 」
FDRは、グラスの赤ワインを一気に煽った。
血のような赤い液体が、彼の乾いた喉を潤す。
「……金本位制は、死んだのだ」
FDRは夜のブルックリンの街並みを見つめながら、静かに、しかし確信を持って言った。
「金塊は腹を満たさない。弾丸も作れない。
東郷が証明した通り、これからの時代を支配するのは、実体のある『モノ』と、それを動かす『システム』だ。
……私が大統領になった暁には、メロンが後生大事に抱えている金塊の呪縛を、必ず断ち切ってみせる。東郷が作った『肉本位制』に勝つためには、それしかない」
⸻
時:同日
場所:東京・日比谷、帝国ホテル・特別貴賓室
その夜、帝国ホテルのプライベート・ダイニングには、日中の「静かなる最前線」が敷かれていた。
アメリカへ向かう途中で東京に立ち寄った、国民政府主席・蔣介石の妻、宋美齢。
彼女が偶然同席していたのは、海軍の軍人ではなく、二人の可憐な少女だった。
一人は、海軍省の肝煎りで製作された国防記録映画で子役デビューを果たし、後に「清純なる日本の美」の象徴として国民的人気を得ることになる、会田まさ江(後の原節子)。
もう一人は、東郷一成少将の養女であり、まさ江の親友である東郷幸(11歳)である。
「……マダム・ソォン。お口に合いますでしょうか?」
幸は少し舌足らずな英語で、小首を傾げながら尋ねた。
だが、宋美齢の内心は出されたメインディッシュを前にして、煮えたぎるような焦燥と危機感で埋め尽くされていた。
「ええ……。素晴らしいお味よ、ミス・トーゴー。アメリカの最高級ステーキハウスにも引けを取らないわ」
宋美齢は優雅な笑みを張り付けたまま、口の中の肉――厚切りのTボーンステーキを咀嚼した。
外側は香ばしく、内側からは凝縮された肉の旨味と甘い脂が爆発する。ドライエイジング(枯らし)特有の、ナッツを思わせる芳醇な香り。
極東の島国でこれほど完璧な熟成肉が出されること自体が、彼女の常識を破壊していた。
「ふふっ、良かったです」
幸は、嬉しそうに目を細めた。
「これ、お父様がアメリカから買ってきた『古い軍艦(装甲巡洋艦)』を改造した、大きな大きな冷蔵庫のお船で運んできたお肉なんですって」
「船で、肉を……?」
「はい! 中にはGE社さんの最新のクーラーが入ってて、温度と湿度がずーっと同じなんです。それにオランダの『三軸ジャイロ』って機械で、波が荒くてもお肉が揺れないようにピタッて止まってるから、太平洋を渡ってくる二十日間の間に、お肉が最高に美味しく『熟成』されるんだそうです」
隣でまさ江が「海軍の方々は、魔法使いみたいですよね」と、無邪気に微笑んだ。
宋美齢は、二人の少女を改めて意識した。日本人にしては長すぎる首と肩の線。頬に乗る血色の良さ。笑うたびに動く唇の色が、不自然なまでに鮮やかだった。貧困の影がどこにもない。
宋美齢は、テーブルの下でナプキンを強く握りしめた。
(……古い軍艦と、アメリカの家電、ヨーロッパの軍事技術を組み合わせて……太平洋を渡る『時間』すらも、肉の価値を跳ね上げる『工場』に変えているというの……!?)
彼女の脳裏に浮かぶのは、今年(1931年)の夏に中国大陸を襲ったばかりの、未曾有の「長江大水害」と、数千万人の難民の地獄のような姿だった。
夫・蔣介石が率いる国民党軍は、満足な食糧配給(兵站)の制度を持っていない。飢えた兵士たちは暴徒と化し、現地住民から食糧や金を恐喝して回っている。軍の規律は崩壊し、絶望した農民たちは次々と共産党や張作霖の側へと流れていっている。
中国の兵士が泥水をすすり、民衆から略奪している時に。
日本の兵士たちは、アメリカから供給されるこの「極上のカロリーとタンパク質」を食って、戦意と体力を養っているのだ。
宋美齢は、日米の「余剰」に対する扱いの差を瞬時に見抜いた。
現在アメリカ政府は、長江の洪水支援と称して連邦農業局(FFB)が抱え込んでいた『45万トンの厄介な余剰小麦』を、中国に借款として押し付けようとしている。
表向きは「慈善」だが、実際にはアメリカの農業不況を救うための在庫処分であり、大量の外国産小麦の流入は、長期的には中国の地元農家から市場を完全に奪うリスクすら孕んでいる。
アメリカは、中国を「ゴミ捨て場」として扱っている。
一方で、目の前の日本海軍はどうだ。
彼らはアメリカの「余剰の肉」を底値で買い叩くだけでなく、それを自国のロジスティクスに組み込み、極上の資産へと錬金術のように昇華させている。
さらに言えば、中国の最大の輸出産業であった「生糸」も、東郷がニューヨークのガーメント地区を『合衆国銀行』で支配し、日本の生糸を優先購入させたせいで、その煽りをモロに食らい、壊滅的な打撃を受けているのだ。
(……勝てない。このままでは絶対に勝てない。
兵器の数ではない。経済の『制度』の次元が違いすぎる)
宋美齢の背筋を、氷のような絶望が這い上がった。
日本は、アメリカという巨大な市場の「物質(肉と機械)」を、完全に合法的に、そして合理的に奪い去っている。今の中国に、それを模倣する国力も組織力もない。
ならば、どうするか。
宋美齢の切れ長の目が、ゆっくりと吊り上がった。
(日本がアメリカの『物質』を奪うなら。
私は、アメリカの『精神』を奪うしかない)
アメリカ人という生き物は数字に弱いが、それ以上に「正義」と「自己評価」に弱い。
彼らが大好きな「キリスト教的ヒューマニズム」「民主主義への共感」、そして「弱き者を庇護する偉大なるアメリカ」という幻想。
(私がアメリカに渡り、流暢な英語で彼らの心に訴えかける。野蛮な帝国主義(日本)に蹂躙される、哀れで健気な民主主義国家(中国)のシンボルとして振る舞うのだ。
日本が『資本主義の構造』を突くなら、私は『民主主義とキリスト教の偽善』を突き、莫大なドル資金と軍事支援を直接引き出してみせる……!)
宋美齢が自らの内に「チャイナ・ロビーの魔女」としての覚悟を固めた、その瞬間だった。
「……マダム」
ふと、声がした。
先程まで庇護欲をそそるように笑っていた東郷幸が、手元のサイダーのグラスを置き、じっと宋美齢の目を見つめていた。
その瞳――アイスブルーにも似た、底知れぬ深さを持つ黒い瞳が、宋美齢の魂を真正面から射抜いていた。
(……え?)
宋美齢は、息を呑んだ。
目の前の少女の纏う空気が、一瞬にして変わったのだ。
「マダム。……アメリカのキリスト教徒の方々って、とっても『寄付』が好きですよね」
幸は、美しい唇を弧の字に歪めて微笑んだ。
「お父様が言っていました。
アメリカの方は、誰かを助ける時、自分も少し救われた気持ちになるんだって。
だから、マダムが泣いたら、きっとみんなマダムを助けたくなるんでしょうね?」
「…………っ!!」
宋美齢は、全身の毛穴が開くほどの悪寒を感じた。
たった今、自分の脳内で組み上げたばかりの「アメリカの精神をハックする」という国家戦略。
それを目の前の11歳の少女が読み取り、言語化し、そして「お見通しだ」と嘲笑ってきたように思えた。
「幸さん?」
隣の会田まさ江が、不思議そうに幸の顔を覗き込む。
「あ、ごめんなさい、まさ江さん。ちょっとおませなことを言っちゃった」
幸は、ペロリと舌を出した。
「でも、……泣くなら、うれしい時の方がいいなって」
宋美齢は息を呑んだ。
この少女は分かっているのだ。涙が、どれほど強力な武器になるかを。
「自分が泣くなら、本当に誰かが笑えた時。本当にうれしい時がいいです」
幸は、にっこりと微笑んだ。
「だからマダムも、いつか本当に『うれし涙』が流せるといいですね」
「……ええ。ありがとう、ミス・トーゴー」
宋美齢はワイングラスを掲げ、極上の笑みを張り付けた。
「あなたのような聡明なお嬢さんが日本にいるなら、アメリカの方々もさぞ退屈しないでしょうね」
グラスが軽く触れ合う。
チリン、という高い音が、優雅な特別室に響いた。
彼女たちの舌には、「太平洋熟成」のステーキの脂の甘みが、いつまでもまとわりついて離れなかった。
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