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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第三章

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邪魔をするな

 時:1931年(昭和六年)

場所:ロンドン・ダウニング街11番地(財務大臣公邸)


 ガチャン!!!

 大英帝国の威信を象徴するその部屋で、美しいボーンチャイナのティーカップが、暖炉のレンガに叩きつけられ、粉々に砕け散った。


 後に首相となる財務大臣、ネヴィル・チェンバレンの顔は、普段の冷静な紳士のそれではなく、領地を荒らされた激怒の獅子と化していた。

「……アルゼンチン政府が、我が国への『ポンド配当の送金』を後回しにすると通達してきた、だと?」


 報告に上がった財務省の官僚は、青ざめた顔で頷いた。

「は、はい……。彼ら曰く、『アメリカ市場への牛肉輸出で潤沢なドル現金が入ったため、ポンドでの決済を急ぐ理由がなくなった』と。

 さらに、ブエノスアイレスの港には、アメリカ製のフォードやGMの自動車、トラクターが関税ゼロで山のように陸揚げされています」


「……ヤンキーども、許さんぞ!!」

 チェンバレンは、ブエノスアイレスから届いた報告書を握り潰した。

「我々の『第六の自治領』に、アメリカの軍艦と自動車をねじ込み、我々の市場を奪うだと!?

 ただでさえポンドが危機に瀕しているこの時に、大英帝国の最も確実な投資先を荒らすとは……完全に我々を殺しに来ている!」


 史実において、アルゼンチンは「イギリスの非公式帝国」であった。

 1930年時点で、イギリスはアルゼンチンに4億3,510万ポンド(約21億ドル)という莫大な資本を投下しており、その実に62.3%が「鉄道会社」に集中していた。イギリスはアルゼンチンの牛肉を買ってやる代わりに、その代金を強制的に「イギリス系鉄道会社への配当や債務返済」に割り当てさせていたのだ。


 だが今、アメリカが「ドルと軍艦」という極上の餌をぶら下げて、アルゼンチンをそっくりそのまま掻っ攫っていった。


「アメリカの薄汚い自動車モータリゼーションのせいで、我が国の鉄道インフラはアルゼンチンで完全に時代遅れのスクラップになりつつある!」

 傍らに控える商務院総裁ランシマンが、頭を抱えて呻いた。


「このままでは、我々がアルゼンチンに投下した4億ポンドもの資産は紙くずになるぞ!

 しかもヤンキーどもめ、我々の庭に15.2センチ砲を15門も積んだバケモノ巡洋艦まで輸出しおって! これは我が国に対する明白な宣戦布告だ!」


 チェンバレンの眼が、氷のように冷たく光った。

「……アメリカ人は、南米を自らの裏庭だと思っている。だから、我々からアルゼンチンを奪うことに、何の倫理的躊躇もなかったのだろう。

 我々が不況で苦しんでいる隙を突き、我々の生命線を土足で踏みにじった」


 ランシマンが、青ざめた顔で言う。

「大臣。アメリカは『日本がチリを援助したことへの対抗措置だ』と言い訳をしています。

 『イギリスだって、日本の金でチリの戦艦を直したじゃないか』と……」


「詭弁だ!!」

 チェンバレンが吠えた。

「我々がチリの戦艦を直したのは『過去の借金の精算』だ!

 だがアメリカがアルゼンチンでやっているのは『未来の市場の強奪』だ!

 一緒にされてたまるか!」


「報復だ!」

 ランシマンが吠えた。

「アルゼンチンに伝えろ! 『我々は今後、貴国から肉は一グラムも買わん! オーストラリアやニュージーランドといった英連邦から全て調達する(帝国特恵体制)!』とな!」


 だがその威勢のいい脅しを、イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン総裁が冷ややかに、そして絶望的な声で打ち砕いた。

「……無理だよ、ランシマン君。それは完全な自殺行為だ」


「なぜだ、ノーマン総裁! 帝国には広大な領土があるだろうが!」


「『技術の壁』だよ」

 ノーマンは、苦々しげに葉巻を置いた。

「我が国の労働者や市民が求めているのは、アルゼンチン産の極上な『チルド・ビーフ(冷蔵肉)』だ。

 オーストラリアやニュージーランドからイギリスまでは距離が遠すぎる。今の冷蔵技術では、肉が腐ってしまう。だから彼らから買えるのは、『フローズン・ビーフ(冷凍肉)』だけだ」


 ノーマンは、冷徹な事実を突きつけた。

「一度完全に凍らせた肉は、解凍時にドリップが流れ出し、靴底のように硬くなります。

 大臣。もし明日から、労働者たちの食卓から柔らかいサンデー・ローストが消え、噛み切れないオーストラリア産の冷凍肉に変わったらどうなるか、お分かりですか?

 ……間違いなく、内閣が吹っ飛ぶ暴動が起きます」


 史実において、オーストラリアからチルドビーフを輸送する技術が確立されるのは1933年末のこと。1931年時点では不可能だった。


「そ、それは……国民には、愛国心で我慢してもらうしか……」

「問題は味だけではありません。 もっと恐ろしいのは『カネ』です」


 ノーマンは、アルゼンチンの地図を指差した。

「現在、我が大英帝国がアルゼンチンに投下している資本は、約5億ポンド(当時の為替で約25億ドル)。その6割以上が『鉄道会社』だ。

 アルゼンチンが我々に牛肉を売り、我々がポンドを払う。そのポンドがあるからこそ、アルゼンチンの鉄道会社は、我々イギリスの投資家に配当を送金できていたのだ。


 もしアルゼンチンが牛肉を全てアメリカに売り、ドルしか受け取らなくなればどうなる?

 イギリス系の鉄道会社は、配当を払うための『ポンドの外貨』を調達できなくなる! 鉄道の利益はアルゼンチン・ペソかドルに固定され、イギリスへの送金は不可能になるのだ!」


「なっ……!」


「我々がアルゼンチンを締め出せば、イギリスの投資家が持っている5億ポンドの資産は、一瞬で『不良債権』と化して紙くずになり、ポンドへの致命傷になる。

 ……アメリカは、それを分かっている! だから『どうぞご勝手に禁輸してください。その代わり、イギリスの鉄道会社は全部潰れますけどね』と、ワシントンで冷笑している!!」


 会議室は、死のような静寂に包まれた。

 アメリカは、イギリスの「喉元(食卓)」と「財布(投資資産)」を完全に人質に取ったのだ。

 アメリカとアルゼンチンは、イギリスの脅しなど鼻で笑って「どうぞご勝手に」と言える。今のイギリスは、アルゼンチンに報復することなど物理的・財政的に不可能なのだ。


「……終わった」

 ランシマンは、その場にへたり込んだ。

「アメリカのヤンキーどもは、我々の顔に泥を塗り、帝国の財産を合法的に奪い去った……。

 このままでは、ポンドの信用は完全に崩壊する……!」


 チェンバレンは、目を血走らせて執務机に向かった。

「……アメリカが『関税と武器』で市場を囲い込むなら、我々も帝国コモンウェルスの総力を挙げて対抗する。

 ランシマン!直ちに『オタワ会議(帝国特恵関税制度の構築)』の前倒しを準備しろ!

 アメリカの工業製品を、大英帝国の全市場から締め出せ! 関税の壁でヤンキーどもを窒息させてやる!」


「は、はい! ……しかし、それを行うと、世界経済のブロック化が加速し、取り返しがつかないことに……」


「もう後には引けんのだ!」

 チェンバレンは、万年筆をへし折る勢いで書類にサインした。

「アメリカは我々の腹を刺した。ならば、我々は奴らの首を絞める。

 ……日本など、今は関係ない!今の我々の最大の敵は、ワシントンの強欲な豚どもだ!」



 時:数日後

場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・大統領執務室


 「ハッハッハ! 見たかねヘンリー! ロンドンの連中、顔を真っ赤にして怒り狂っているぞ!」

 ハーバート・フーヴァー大統領は、国務長官のヘンリー・スティムソンから渡されたイギリス政府からの「強硬な抗議文」を読み、机を叩いて大笑いした。


「『もし合衆国がアルゼンチンへの経済侵透を止めないならば、大英帝国はオタワ会議において特恵関税ブロックを構築し、アルゼンチンの牛肉を全面禁輸する。以後はオーストラリアやニュージーランドなど、英連邦内からのみ食肉を調達する』……だとさ。

 立派な脅し文句だが、これこそ負け犬の遠吠えだ」


 スティムソンも、冷ややかに同調した。

「ええ、大統領。イギリスは焦っています。我々がアルゼンチンの牛肉39万トン(約8億6,000万ポンド)をアメリカ市場に受け入れる見返りとして、アルゼンチン政府に『関税ゼロでの米国製自動車・トラクターの輸入』を約束させたからです。

 しかも国内の畜産ロビーには、日本海軍の年間1億ドル規模に達するオフテイク契約で得た利益を回して黙らせた。……完璧なディールです」


 アメリカの首脳陣は、勝利の美酒に酔いしれていた。

 彼らは知っていたのだ。イギリスの「英連邦から肉を買う」という脅しが、物理的にも経済的にも「絶対に実行不可能なブラフ(ハッタリ)」であることを。


 フーヴァー大統領は、自信に満ちた目で地図を見た。

「イギリスは、指をくわえてアルゼンチンが『アメリカの自動車モータリゼーション』に染まっていくのを見ているしかできない。

 我々は一滴の血も流さず、南米の覇権をイギリスから奪い取ったのだ。

 ……東郷少将には申し訳ないが、彼の肉の買い付け資金は、我々の外交的勝利のための最高の踏み台になったというわけだ」


 アメリカ合衆国は政府も海軍も、完全な勝利を確信していた。

 この「物理的・地政学的な前提」が覆るなど、あり得ないことだったからだ。



場所:ワシントンD.C. 日本大使館


「……はははは! 傑作だ!」

 東郷一成は、ロンドンから届いたイギリス政府の狼狽ぶりを伝える暗号電報を読み、腹を抱えて笑っていた。

 副官の樋端久利雄と護衛の橘小百合も、呆れたような顔でその報告書を見ている。


「……少将。アルゼンチンがアメリカから15門の巡洋艦を買ったと聞いて、てっきり我々も『ブラジルに戦艦を売って対抗しろ』と命じられるかと思いましたが」

 樋端が尋ねる。


「そんな無駄なことをする必要があるか、樋端君」

 東郷は、コーヒーカップを置いた。

「我々は何もしなくていい。ただ『静観』していればいいのだ。

 アメリカはブラジル(日本)に対抗しようと焦るあまり、イギリスの『一番踏んではいけない尻尾アルゼンチン』を全力で踏み抜いたのだ」


「……ですが、閣下」

 小百合が、静かに口を開いた。

「アルゼンチンがアメリカ製の冷蔵船や、食肉加工インフラの技術支援を求めてきた場合、彼らの牛肉をアジアに輸出する支援(仲介)をすべきではないでしょうか? 我々にとっても利益になります」


「ダメだ、小百合君」

 東郷は即座に、かつ冷徹に首を横に振った。

「アルゼンチンの『肉』と『冷蔵インフラ』には、絶対に指一本触れてはならない。

 関わるな。一切の口出しをするな」


「……なぜです?」


「そこが、米英の『リング』だからだ」

 東郷は、地図上のアルゼンチンを指差した。

「アメリカはアルゼンチンに武器と車を売り込みたい。イギリスはアルゼンチンの牛肉を人質にしてそれを阻止したい。

 両者が顔を真っ赤にしてナイフを突きつけ合っているところに、日本が『あ、その肉、うちが買いますよ』としゃしゃり出ればどうなる?」


 樋端がハッとした。

「……米英両国から、『空気を読め!』と一斉に矛先を向けられますね」


「その通りだ」

 東郷は、小百合の淹れたコーヒーを口に含んだ。


「目の前に利益があれば飛びつくのもいいだろう。

 だが、私は『敵が自滅している時は、絶対に邪魔をしない』。

 我々は、ブラジルの鉄とアメリカ中西部の肉だけを静かに運んでいればいい。彼らが南米の南端で、互いに憎悪を募らせていくのを、特等席で見物させてもらおうじゃないか」

いつもお読みいただきありがとうございます。


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