ヘネラル・ベルグラーノ
時:1931年(昭和六年)
場所:ワシントンD.C. レストラン「オールド・エビット・グリル」
その日の個室には、分厚いステーキの焼ける香りと、上質な葉巻の煙、そして「余裕」が充満していた。
テーブルを囲んでいるのは、全米畜産牛肉生産者協会のロビイストたちと、フーヴァー政権の農務長官アーサー・ハイドである。
「……信じられんことだよ、長官」
テキサス出身のロビー団長が、ナイフで分厚い肉を切り分けながら豪快に笑った。
「たった半年前まで、我々の牧場は首をくくる寸前だった。それが今や、屠殺場を一日中フル稼働させても、日本の『冷蔵船団』の注文に追いつかん!」
「全くですな」ハイド農務長官も、バーボン(ミネラルウォーター)のグラスを掲げた。
「日本海軍・東郷少将の『3年間の全量買い取り契約』のおかげで、中西部の農家の所得はV字回復が見えました。大統領も、次回の選挙に向けて胸を撫で下ろしておられますよ」
団長は肉を飲み込むと、満足げに腹をさすった。
「そこでだ、長官。昨年成立した『スムート・ホーリー関税法』の件だがね」
ハイド長官は、少し身構えた。
同法に含まれる「口蹄疫発生国からの未調理食肉の輸入全面禁止」条項。これは、畜産ロビーがアルゼンチン産の安い牛肉から国内市場を守るために、強引にねじ込んだ条項だった。アルゼンチン政府は激怒し、報復関税をチラつかせている。
「アルゼンチンの牛肉輸入の件ですか? 我々も、彼らとの関係悪化には頭を痛めておりまして……」
「いやいや、もういいんだよ」
団長は、鷹揚に手を振った。
「我々の倉庫は空っぽだ。日本が全部買ってくれるからな。国内市場の価格も高止まりしている。
……つまりアルゼンチンの安い肉が少しばかり国内に入ってきたところで、我々の利益は揺るがないってことさ」
「ほ、本当ですか!?」ハイドは目を輝かせた。
「ああ。その代わり、アルゼンチン政府と交渉して、我々の『お仲間』……デトロイトの自動車メーカーや、シカゴの農機具メーカーの製品を、無関税でアルゼンチンに買わせる約束を取り付けてくれ。
我々畜産業界は寛大だからね。工業界の連中にも、少しは甘い汁を吸わせてやろうじゃないか」
畜産ロビーの「軟化」。
それは、アメリカ政府がアルゼンチン市場のドアをこじ開け、南米奪還の橋頭堡を確保するための、最大のマスターキーだった。
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時:同日 夕刻
場所:ホワイトハウス・オーバルオフィス
「……素晴らしい!!」
フーヴァー大統領は、ハイド長官からの報告を受けて机を叩いた。
「畜産業界が譲歩したか! これで、アルゼンチンとの通商交渉が再開できる!」
同席していたスティムソン国務長官も、興奮を隠せなかった。
「大統領、これは外交的な大勝利に繋がります。
ペルーやチリ、ボリビアなどのかつてのアメリカ資本の債権は、すでに日本海軍に買収されてしまいました。
ブラジルは日本の資金(イタビラ製鉄所など)で急速に重工業化し、我々の影響力は低下しています。
……ですが、ブラジルの永遠のライバルである『アルゼンチン』を我々が経済的に支援し、アメリカの工業製品と資本で囲い込めば、南米におけるパワーバランスを維持できます!」
「そうだ、ヘンリー!」
フーヴァーの目には、久々に「辣腕エンジニア」としての自信が満ちていた。
「アルゼンチンの牛肉を例外規定(パタゴニア地方など無菌地域の指定)で輸入してやる。
その見返りに、フォードやGMの車をブエノスアイレスに走らせ、アメリカの銀行が融資を行う。
……我が国の工業界の失業者も減り、モンロー主義の威信も回復する!」
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時:1931年(昭和六年)
場所:アルゼンチン・ブエノスアイレス、海軍省
1930年代初頭、アルゼンチンは「世界で最も豊かな国の一つ」として我が世の春を謳歌していた。
南半球の冬の足音が近づくブエノスアイレスで、アルゼンチン海軍の提督たちは、アメリカから持ち込まれた「信じられないカタログ」を前に、笑いが止まらなくなっていた。
アメリカの畜産ロビーが矛を収めたことで、アルゼンチンの牛肉はイギリスだけでなくアメリカ市場にも流れ込み、莫大な外貨がブエノスアイレスの国庫をパンパンに膨らませていた。
豊かな国家が次に欲しがるもの。それは「地域の覇権」を誇示するための巨大な大砲(軍艦)である。
この南米の「超優良顧客」を巡って、米英両国は血みどろの受注合戦を繰り広げていた。
特にアメリカの必死さは異常だった。
すでにワイオミング型戦艦2隻をイタリアに(3,000万ドルで)、旧式装甲巡洋艦7隻を日本海軍に(冷蔵艦への改造前提で2,000万ドルで)売り払うという「建前抜きのスクラップ換金」に手を染めていた合衆国海軍にとって、アルゼンチンからの新規受注は、不況下の造船所を救い、イギリスの南米権益を切り崩すための「絶対に負けられない戦い」だった。
「……現在、我がアルゼンチン海軍には、イタリアのオルデロ・テルニ社に発注した条約型巡洋艦『アルミランテ・ブラウン』と『ベインティシンコ・デ・マヨ』の2隻がある。だが、ブラジルやチリを完全に沈黙させるには、あと2隻……それも、世界最強の巡洋艦が必要だ」
海軍大臣の目の前には、アメリカ海軍作戦部長プラット大将の名前で送られてきた、とんでもない「大盤振る舞い」の提案書があった。
『最新鋭・1万トン級軽巡洋艦(15.2cm砲15門搭載)2隻の輸出提案』
「15門だと!? 軽巡の皮を被ったバケモノではないか!」
提督の一人が驚愕の声を上げる。
これは、アメリカ海軍が日本の『利根型(15.5cm砲12門)』に対抗するために設計を急いでいる次世代巡洋艦(後のブルックリン型)だった。
「しかも、それだけではない」
海軍大臣は、提案書の次のページをめくった。
「『もしこの巡洋艦2隻をご購入いただけるなら、オプションとして、我が国で最新設計の1,500トン型駆逐艦(ファラガット型)を6隻、格安でセット販売いたします』……だとさ」
「……はあ!?」
提督たちは顔を見合わせた。
「軍艦の通信販売か何かか!? 」
だが、アメリカ海軍の台所事情を知れば、この「狂気のセールス」の理由が透けて見える。
ロンドン会議で日本が「16%ルール(1,500トン以上の駆逐艦保有制限)」を撤廃させたため、米海軍は日本の特型駆逐艦に対抗すべく、艦隊駆逐艦の生産を1,850トンの大型艦『ポーター型(8門搭載・対空能力は妥協)』に全振りすることを決定した。
その結果、設計を終えていた1,500トンの『ファラガット型』は「小さすぎて太平洋では使えない」という烙印を押され、不良在庫(設計図)と化していたのだ。
「……ブラジルが日本とドイツの技術で重工業化するなら、我々はアメリカの最新鋭艦で対抗するしかない」
海軍大臣は、決断した。
「よし、買おう!
15門のバケモノ巡洋艦2隻と、駆逐艦6隻!
巡洋艦の艦名はすでに決めてある。我が国の独立の英雄の名を冠し、『ARA ヘネラル・ベルグラーノ』および『ARA サン・マルティン』とする!」
大恐慌下でも豊かな農業輸出力を持つアルゼンチンは、米英を天秤にかけるしたたかさを持っていた。彼らはアメリカの焦りを見事に利用し、南米最強の艦隊を手に入れたのだ。
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時:同日
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
「……売れました! アルゼンチンが買います!」
クック大佐が、興奮気味に購入意向の報告を持ち込んだ。
作戦部長プラット大将と、兵站局長リーヒ少将は、固く握手を交わした。
「やったぞ! これで南米のバランスは保たれた!」
彼らにとって、この輸出契約は「一石三鳥」のウルトラCだった。
第一に、日本の傀儡と化しつつあるブラジルに対する、強力な軍事的防波堤の構築。
第二に、新型15門巡洋艦の「開発費・建造費」を外国の資金で賄い、海軍の財政的アピールとして、議会からさらなる海軍予算を引き出す。
第三に、不要になったファラガット型の設計図を金に換え、米国の造船所の雇用を守れる。
「……日本海軍も東郷も、さぞや悔しがっているだろうな」
プラットは、得意げに笑った。
「我々は、かつてワイオミングを売った時とは違う。ただの不用品処分ではなく、したたかに『同盟国』を武装させ、次世代の技術開発資金まで引き出したのだ!」
その日の作戦部長室は、久々に「攻め」の熱気に満ちていた。
プラットはアルゼンチン海軍からの「購入意向書」を何度も叩き、リーヒと不敵な笑みを交わした。
「……しかし提督。本当に、あの15門型を外国へ売るのですか。まだ我が海軍にも配備されていません」
リーヒが、改めて確認するように問う。
「だから売るのだ、ビル」
プラットは、冷酷な目で青写真を見下ろした。
「我が国の造船所に経験を積ませる。止まっている砲塔工場を動かす。……そして何より、あの15門という過剰な設計が抱える欠点(トップヘビーや斉射時の散布界の広がり)を、アルゼンチンの金で洗い出すのだ」
「……それを聞いたら、ブエノスアイレスは怒りますよ」
「言わなければよい」
プラットは、葉巻を切り落とした。
「彼らは『南米最強の艦隊』という肩書きに酔いしれ、喜んでドルを払う。我々はデータを取る。完璧な取引だ」
そこへ国務省から派遣された担当官が、真っ青な顔で口を挟んだ。
「お、お待ちください、提督! 英国が黙っていません!
アルゼンチンはイギリスの経済的生命線です。そこにアメリカの最新鋭艦を売り込み、同時にフォードやGMの工場を建設するなど……」
「英国は日本のドルでチリ戦艦を直した。こちらに説教する資格はない!」
プラットは一喝した。
「提督! それを口にした瞬間、米英関係が爆発します!」
「ならば書類には書くな! 国務省の仕事は『アメリカの国益』を守ることだろうが!」
プラットは、担当官を怒鳴りつけた。
「日本がブラジルとチリを押さえたのだ。我々がアルゼンチンを取らねば、西半球は完全に日本のものになる。……英国の顔色を窺って、自国の裏庭を失う気か!」
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時:数日後
場所:ホワイトハウス・オーバルオフィス
ハーバート・フーヴァー大統領は、就任以来、最も晴れやかな顔をしていた。
彼のデスクには、アルゼンチン政府と結ばれた「包括的経済・軍事協力協定」の書類が誇らしげに置かれていた。
「……見たまえ、ヘンリー(スティムソン)。これが我々の反撃だ」
フーヴァーは、グラフを指差した。
「アルゼンチンから、牛肉を一定量輸入する。
その見返りに、我が国のインターナショナル・ハーベスターの農機具、GMやフォードのトラック、GEの発電機、そして海軍の巡洋艦と駆逐艦を、アルゼンチンに大量に売り込む!」
それは大恐慌に苦しむアメリカの産業界にとって、まさに神風だった。
農業不況、造船所の失業、工業輸出の不振、そして海軍の不満。これら全てを、一つの契約で緩和できるのだ。
フーヴァーは、拳を握りしめた。
「明日、国民に向けてラジオ演説を行う。
『我々は日本に南米を奪われたのではない。合衆国はアルゼンチンを通じて、力強く南米へ戻った! 農家を救い、工場を動かし、造船所を救ったのだ!』……とな」
スティムソンも、ようやく安堵の息を吐いた。
これで、次の大統領選挙も戦える。東郷一成の引いたレールから、ようやくアメリカは自分たちの足で抜け出しはじめたのだ、と。
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