輸出決済スクリップ
時:1931年(昭和六年)
場所:東京・霞が関、大蔵省・特別会議室
その日の会議室は、まるで異端審問の法廷のようだった。
大蔵大臣・高橋是清と海軍軍務局長・堀悌吉の前に、各省各界から召喚(あるいは怒鳴り込み)にきた重鎮たちがズラリと並んでいる。
農林省の官僚、帝国農会の幹部、そして国粋派の思想家。
彼らの矛先は、ワシントンにいる東郷一成が始めた「米国産食肉の大量輸入と、海軍ダイナーによる給食事業」に向けられていた。
「……堀局長! 海軍の専横も極まれりだ!」
農林省の局長が、顔を真っ赤にして机を叩いた。
「我が省が所管すべき食糧流通に軍が介入し、あまつさえアメリカから年間数十万トンもの冷凍肉を買い付けるなど! 国内の畜産業は壊滅するぞ!」
「ほう、壊滅ですか」
堀は涼しい顔で、一枚のデータを示した。
「現在の国内産牛肉の価格は、100匁(約375g)で1円30銭。
対して我々が買い付けたアメリカの冷凍肉(コンビーフ用端肉など)は、関税込みで100匁30銭未満。
……局長。一日1円の賃金で働く土工や工場労働者が、1円30銭の高級和牛ですき焼きを食えるとでも?
我々の肉は、高級和牛の競合にはなりません。『今まで肉を食えなかった者たち』の胃袋を満たしているだけです」
「だ、だが! 食生活の改善は農林省の管轄で……!」
「では農林省に、この40万トンの肉を買う『ドル』がおありですか?」
堀の冷徹な一撃に、農林官僚は言葉を詰まらせた。
ドルを持っているのは、NCPC債を運用する海軍だけだ。
堀は淡々と追撃した。
「では局長。国内畜産業界に、十五銭で労働者の腹を満たせる献立を本日中に提出させてください。
できないなら、壊滅するのは畜産業ではなく、あなた方の面子です」
次に噛み付いたのは、和服姿の国粋主義の思想家だった。
「アメリカの獣肉など! 皇国の清浄な精神を汚す毒だ!
米と野菜と一汁一菜こそが、日本人の強靭な精神を作るのだ!」
だが、ここで高橋是清が腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! 先生、精神で腹は膨れんよ」
是清は、キセルをふかしながら続けた。
「それに、東郷の小僧が考えたあの『チリビーンズぶっかけ飯』や『ライスバーガー』。あれは実に合理的だ。
肉の脂と塩気で、米が何杯でも食える。おかげで国内の余剰米が飛ぶように消費されておる。
アメリカの肉が、日本の米を食わせているのだ。これこそ『和魂洋才』ならぬ『米魂肉才』ではないか」
さらに堀は、懐からある写真を取り出してテーブルに滑らせた。
それは、非合法な労働組合の地下機関紙に載っていた写真だった。
「……ご覧ください。共産党の連中が、我々の給食所を『ファシズム的餌付け』だと批判しているビラです」
堀は、同席していた内務省の役人を見据えた。
「ですが、現場の労働者たちはこのビラを捨てて、十五銭の『海軍肉飯』の列に並んでいる。
彼らは腹が減っているから赤化するのです。
我々が十五銭の肉飯を配ることは、警察の弾圧よりも遥かに安上がりで強力な『防共政策』なのですよ。
……それとも農林省や内務省は、労働者が飢えて革命を起こす方をお望みですか?」
沈黙。
誰も東郷の「カロリーの暴力」に勝てない。
彼らは皆自分の立場でしか語っていないが、東郷の設計したシステムは「人間の生存本能(食欲)」と「治安維持」という絶対的な大義名分で場を支配しているからだ。
反論の余地を失い、押し黙る官僚たち。
その空気を完全に掌握した高橋是清が、重々しく、しかし張り詰めた声で最終宣告を下した。
「……諸君は自由だ、精神だ、所管だ、国体だとよう言う。だが、その自由とは何かね」
ダルマ蔵相の鋭い眼光が、部屋の隅々まで射抜いた。
「貧乏人が肉を食えず、子を売り、赤旗にすがり、外国へ棄てられる自由か?」
会議室は、死に絶えたように静まり返った。
それが、いまだ貧乏な日本人の現実だった。その現実から目を背け、縄張り争いをしている役人たちへの、政治家としての強烈な一喝。
是清は、傍らの書記官に顎でしゃくった。
「……今日の議事録の締めくくりに、こう残しておけ」
是清は、目の前の反対派たちを冷ややかに見据えたまま、はっきりと言い放った。
「『本件、農林省・内務省より強い異議あり。
ただし、代替財源、代替輸入手段、代替給食網、代替防共策、いずれも提示なし。
……よって、異議は感情として拝聴し、政策としては不採用とする』」
カン、と是清がキセルの灰を落とす音が会議室に響いた。
⸻
大蔵大臣室に戻った是清は、堀から手渡された分厚い決算報告書を読み、キセルを持つ手を止めた。
いつもなら豪快に笑い飛ばす是清の顔から、微かに「畏怖」の色が漏れていた。
「……堀君。東郷の『肉の商売』が儲かっているとは聞いていたが……これは、桁が違うぞ」
是清は、報告書の『第一期・北米畜産物および冷蔵物流事業・総括』のページを指で弾いた。
そこには、初年度の総取扱高が約2億8,000万ドル(約5億6,000万円)。
そこからアメリカでの買い付け、加工、旧式巡洋艦の冷蔵船化、満州でのプラント建設などの初期投資を差し引いた「純収益」が、約3,500万ドル(約7,000万円)と記されていた。
「これでも、意図的に利益を圧縮した結果です」
堀は、事も無げに答えた。
「初年度は、満州・張作霖軍への種畜・加工設備のエクスポートと、国内の『海軍指定食堂』チェーンへの機材リースといった『インフラの固定資産化』に多額の再投資を行いました。
ですが、そのインフラが完成した来年度以降は……我々はただ肉を運び、卸すだけで、年間6,000万ドルから8,000万ドル(約1.2億〜1.6億円)の純収益が持続的に発生します」
是清は、天を仰いだ。
生糸とNCPC金融で稼ぎ出す年間7,000万ドルに加え、肉と物流でさらに6,000万ドル。
合計1億3,000万ドル(約2億6,000万円)。当時の日本海軍の正規予算(約2億6,000万円)に、たった2つの裏帳簿だけで並んでしまったのだ。
是清は、しばし無言で堀を見つめ……やがて、低く笑い出した。
「ハッハッハ! 見事だ。見事すぎて、背筋が寒くなるわい!
軍艦を造るために国民に大根をかじらせるのが昔の軍隊だったが。君たちは国民にバーガーを食わせながら、その利益(お釣り)で大艦隊を造りおった!
……よかろう。大蔵省は一切手出しせん。東郷によろしく伝えたまえ。大ダヌキが白旗を上げたと」
堀は、深く頭を下げた。
⸻
時:1931年(昭和六年)
場所:ニューヨーク州オールバニ、知事公邸・書斎
窓の外のハドソン川は、夕日の訪れとともに鉛色に沈みかけていた。だが、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の心は、それ以上に暗く冷え切っていた。
彼の手元には、ホワイトハウスのフーヴァー大統領から届いた、いかにも慇懃無礼な親書が置かれている。
『……ルーズベルト知事。貴州が構築した「緊急流動性基金」と、NCPC債を裏付けとするスクリップ清算ネットワークは、我が国の中西部農家を救済する食肉輸出事業においても、極めて有用であると判断する。
つきましては、中西部の食肉業者および冷蔵物流業者が、ニューヨークの金融網を通じてNCPCスクリップによる商業決済を行えるよう、特段の便宜を図られたい……』
「……あの、無能めッ!!」
FDRは、親書を握り潰した。
「自分が『国内で日本海軍の名前を出したくない』『農民にはドルを払ったというメンツが欲しい』という理由で、裏の決済の手間と責任を全て私に丸投げしてきたのだ!
『私が農民を救うから、君は日本の紙切れの処理係をやりたまえ』とな!」
傍らで控えるハリー・ホプキンスも、この世の終わりのような顔をした。
「フランク。すでにシカゴの食肉パッカーや、カンザスの銀行、さらに冷蔵貨車のリース会社から、『日本向けの輸出契約を担保に、NCPC裏書スクリップを早くニューヨークで割り引いて(現金化して)くれ』という要請が殺到しています」
ホプキンスは、分厚い陳情書の束をドサリと置いた。
「彼らは言っています。『ドル現金が足りない。日本海軍が大統領も認めたNCPCスクリップで払うと言っているのだから、さっさと承認資産として認めろ』と」
FDRは車椅子の肘掛けを叩いた。
「だが、ハリー! ただでさえ地方の『救済スクリップ』でNCPC債の流通が膨らんでいるのに、今度は『輸出商業決済』の領域にまで、日本の信用が流れ込んでくるんだぞ!
農家はドルを受け取るかもしれない。だが加工業者も、輸出業者も、鉄道会社も、全て自分たちの帳簿をNCPC債で埋め尽くすことになる。
……年間40万トンの肉を動かすだけで、追加で1.5億〜2億ドルのNCPC債需要が生まれる計算だぞ!」
「……ですが、知事。ご決断を」
静かな、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
ソファの奥に座る男、ジャック・モルガン・ジュニアだ。
「我々ウォール街としても、このスクリップの取り扱いは急務と考えております。
地方の救済スクリップと違い、これは実物(肉)の裏付けがある『優良な商業手形』です。これをニューヨークの清算網から締め出せば、シカゴの連中が勝手に独自の清算所を作りかねない。……そうなれば、ニューヨークの金融覇権が揺らぎますぞ」
モルガンの目は、完全に「手数料を逃したくない銀行家」のそれだった。
「それに知事。以前合意した『掛目75%』ですが。この輸出決済分については、確実性が高いので『80%』、あるいは船積み完了後は『85%』に引き上げていただきたい。そうすれば市場に流動性が……」
「黙れ!!これ以上、東郷の思い通りにさせてたまるか!!」
FDRは吠えた。
激しい呼吸を繰り返しながら、机の上の紙を睨みつけた。
拒否すれば、フーヴァーと中西部の農民から「ニューヨーク州知事が農家を見殺しにした」と集中砲火を浴びる。大統領選の目は完全に消える。
だが丸呑みすれば、アメリカのサプライチェーンは日本のものになる。
(……分けるしかない)
FDRの優れた政治的頭脳が、「妥協案」を弾き出した。
「……ハリー。新しいカテゴリーを作れ」
FDRは、ペンを取った。
「『輸出決済スクリップ』だ。
これは、従来の貧困層向けの『国内救済スクリップ』とは全く別物として扱う。
国内の購買力を日本の紙切れに置き換えるものではない。あくまで『外国との貿易決済を円滑にするための、一時的な商業手形』だ。……そう定義する」
ホプキンスは目を丸くした。
「……それは、言葉遊びでは?」
「そうだ。だが、法と政治の世界では、言葉遊びが全てだ」
FDRは、猛烈な速度でルールを書き殴り始めた。
「第一に。この輸出スクリップは、農民への一次支払いには絶対に使わせない。あくまで業者間(BtoB)の決済に限る。
第二に。輸出スクリップの発行上限は、実際の輸出契約額に連動させる。契約額の最大60%までだ。
第三に。証拠として連邦食肉検査証、船積証券、輸出契約書を、毎日ニューヨーク基金に提出させる」
FDRは、モルガンを睨んだ。
「そしてジャック。掛目は75%だ。船積み完了後に限り80%を認める。……それ以上は一歩も譲らん。
我々はNCPC債の暴走を完全に監視し、コントロール下に置く。……日本海軍の信用を利用してやるのだ」
モルガンは、満足げに微笑んだ。
「素晴らしい。これぞ政治家の決断です、知事。我々も全力で協力しましょう」
(……メロンはこれを聞いて狂喜するだろう。またチャリンチャリンと印紙税が落ちてくると)
FDRはペンを投げ捨て、深く椅子に身を沈めた。
彼は知っていた。自分のやったことが「管理」などではなく、東郷一成の用意した「第二のパイプ」を、自らの手でアメリカの心臓に繋ぎ込んでしまったに過ぎないということを。
「……これでフーヴァーは『農民にドルを払った』と威張れる。
ジャック、君は手数料で儲かる。
財務省は印紙税を取る。
そして私は、『暴走を管理した』という政治的実績を手に入れた」
FDRは、乾いた笑いを漏らした。
「……全員が勝ったつもりになっている。
全員が少しずつ利益を得て、そして全員が、アメリカという国を少しずつ切り売りしたのだ。
最悪だな。実に最悪だ。……ハリー。今日の夕食は何だ?」
ホプキンスは、一瞬だけ視線を落とした。
「……シカゴのパッカーから送られてきた、特上のTボーンステーキです」
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