胃袋の同盟
時:1931年(昭和六年)、年初
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・オーバルオフィス
大恐慌による農業危機に頭を抱えていたハーバート・フーヴァー大統領の前に、東郷一成海軍少将は一枚の壮大なメニュー表――いや、青写真を広げた。
「……大統領。貴国の農家が苦しんでいるのは、『作ったものが売れないから』ではありません。『食べる口(需要)』が足りないからです」
東郷は地図上の日本、そして満州を指差した。
「極東には、巨大な胃袋があります。
しかし、彼らはまだ『肉の食べ方』を知らない。
……我々がアメリカの豊かな食文化を、その広大な市場に移植しましょう。買付量は、初年度で40万トンを予定しております」
東郷の提案は、フーヴァーにとって天の恵みだった。
売れ残った中西部の牛肉や豚肉を買い取ってくれるだけでなく、種牛、屠殺設備、缶詰機械、さらには「料理人」や「食品技師」まで丸ごと雇用し、日本へ連れて行くというのだ。
フーヴァー大統領は目の前に置かれた契約書案を睨みつけ、深く息を吐いた。
「……少将。君は、我が国を食い物にする気か」
「人聞きが悪いですね、大統領」
東郷一成は、余裕の笑みを浮かべていた。
「私は貴国のダブついた食肉を買い取り、農家を救う上客としてここにいるのですよ」
フーヴァーは、東郷の言葉を冷たく遮った。
「その『上客』が、我々の国民を直接餌付けしようとするから問題なのだ。
いいか。我が政府は、君たち日本海軍がアメリカ国内で、直接失業者にシチューを配ることを二度と認めない。
……それは救済ではない。我が政府に対する公開処刑だ」
東郷の片眉が、わずかに上がった。
フーヴァーは、かつての「炊き出し」で、政府の威信がどれほど地に落ちたかを痛感していたのだ。だからこそ、今回は絶対に「看板」を渡さない構えだ。
「さらに」フーヴァーは続けた。
「農民への買付代金は、すべて『ドル』または『連邦農業信用券』で支払うこと。あの忌まわしいNCPC債は、農民の目につく場所では使わせない。
そして肉は全て連邦検査済みとし、国内での配給は連邦政府または州政府が指定する機関(FFBなど)に限る」
同席していたスティムソン国務長官とメロン財務長官が、安堵の息を漏らした。
フーヴァーは、東郷の国内浸透をブロックしたのだ。これで日本海軍の「恩着せがましいプロパガンダ」は終わる。
だが、東郷は少しも慌てていなかった。
むしろ、彼はこの「拒絶」を待っていた。
「……なるほど。大統領の『自助努力』と『国家の威信』への強いこだわり、感服いたしました。
では、我々は国内での救済配給から手を引きましょう。農民への支払いもドルで結構です」
東郷は、懐から別の書類を取り出した。
「その代わり。……我々が買った肉を『国外』へ輸出することについては、全面的に自由を認めていただきたい」
「国外へ?」
東郷は、書類をフーヴァーの前に滑らせた。
「ええ。我々が用意した『特別冷蔵輸送船』および『港湾冷凍施設』を、合衆国農務省の『輸出検査済み保管施設』として一括認定していただきたい。
また、シカゴなどの食肉加工業者との契約延長条項付きの3年間の長期オフテイク契約を、商務省およびFFB(連邦農業委員会)の公式な承認の下で結ばせていただきます」
「……アドミラル・トーゴー。それは我が国の農業と食品産業にとって、これ以上ない福音だ。
だが……」フーヴァーは技術者らしく、物流のネックを指摘した。
「大量の生肉を、太平洋を越えて運ぶ手段がない。既存の商船の冷蔵庫では、とても足りないぞ」
東郷は、にっこりと微笑んだ。
「ご安心を。そのための『巨大な冷蔵庫』は、すでに貴国の造船所とウェスティングハウスに発注済みです。……貴国の海軍が手放してくれた、あの大変『頑丈な』旧式巡洋艦の一部を回します」
プラット海軍作戦部長が、ハッとして立ち上がった。
「だ、大統領! その船は——」
「プラット提督」東郷が冷ややかに遮った。
「あれは軍艦ではありません。『アメリカの農家の肉を運ぶ、大切な商船』です。
もし貴軍がこれを妨害すれば、それは日本の海軍を怒らせるだけでなく、中西部の畜産農家全員を敵に回すことになりますよ?」
プラットは言葉に詰まった。
さらに東郷は、条件を重ねた。
「そして、農民への支払いはドルで構いませんが、貴国の加工業者や輸出商社との『商業決済』については、ドルに加え、NCPC債で裏書されたスクリップ使用も承認していただく。
……表の看板はドル。裏の決済はNCPC。これで、貴国のメンツも保たれるでしょう?」
フーヴァーは、机の上で手を組んだ。
東郷の狙いは見えている。
彼はアメリカの「国内の看板」を政府に譲る代わりに、「海外市場」と「冷蔵物流インフラ」という、本当の旨味を全てかっさらうつもりなのだ。
だが、断れるか?
ここで断れば、農民の怒りは爆発し、中西部の票は今度こそ完全に失われる。
東郷は、フーヴァーの政治生命という急所を完璧に握っていた。
「……よかろう」
フーヴァーは、苦渋に満ちた声で言った。
「その条件で承認する。
ただし、東郷少将。……君はまた自由市場という名を借りて、我々の首に新しい鎖を巻きつけたのだな」
「私は、貴国の余剰在庫を片付けたに過ぎませんよ、大統領」
東郷は、恭しく頭を下げた。
「貴方がたが守ったのは誇り。私が頂いたのは胃袋。
……互いに、欲しいものを手に入れた。素晴らしい取引ではありませんか」
⸻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
木梨鷹一大尉は、東郷から渡された分厚いプロジェクト計画書を見て、目を剥いた。
そこにはアメリカ中西部の地図の上に、血管のように張り巡らされた物流ネットワークが描かれていた。
『日本海軍・外郭団体による、米国産畜産物の大量買い取り・物流再編計画』
・過剰な豚肉・牛肉の市場底値での大量買い付け
・シカゴの巨大食肉加工工場のライン借り上げと、缶詰(コンビーフ等)の大量生産
・余剰な冷凍車の買い占めによる、専用貨物列車の運行
・冷蔵船団による、日本勢力圏への大規模輸出
「……少将。これは、ただの買い付けではありません。アメリカの畜産業界から物流まで、一つの巨大な『食肉コンビナート』を、我々の資金で丸ごと構築することになりますよ。想定費用も、年間1億ドルに達するかもしれません」
木梨は、そのスケールの大きさに息を呑んだ。
「ですが、少将。なぜ『肉』なのですか? 今、不況で一番困窮しているのは小麦農家です。フーヴァー大統領も連邦農業局(FFB)を通じて小麦の価格支持(買い支え)を行っています。……我々が小麦を買ってやれば、大統領に大きな恩を売れるのでは?」
東郷の目が、冷たく光った。
「木梨君。君は政治の『地雷』を分かっていない。……我々は、小麦には絶対に手を出してはならないのだ」
「なぜです?」
「小麦は、アメリカにとってただの農産物ではない。国家の象徴だ。日本なら、『米』だな」
東郷は、机の上のペンでテーブルをコツンと叩いた。
「中西部の小麦農家、巨大な穀物エレベーター、シカゴ商品取引所。これらはアメリカという国の胃袋であり『開拓者の魂』だ。
フーヴァー大統領は今、国庫を空にしてでもこの小麦の価格を買い支えようと必死になっている。だが、彼らが買い上げた小麦は国内で売る場所がなく、倉庫で腐るのを待つばかりだ。制度としてはすでに破綻している」
東郷は、言葉を区切った。
「そんな泥沼の限界状況に、外国の軍隊(我々)が札束を持ってしゃしゃり出て、『小麦を買ってあげましょう』と言ってみたまえ。どうなる?」
木梨は、ハッとした。
「……『外国の軍隊が、アメリカの主食市場を操作している!』『我々の命綱である小麦が、日本の海軍に支配された!』と……政治家やマスコミが一斉に発狂しますね」
「その通りだ」東郷は頷いた。
「小麦を買うということは、フーヴァーの農業政策に正面から介入し、彼の失敗を浮き彫りにすることを意味する。それは救済ではなく、アメリカの誇りに対する『宣戦布告』として受け取られるのだ」
「なるほど……。しかし、肉なら違うと?」
「肉は違う。肉は『価格支持政策』の聖域ではないからだ」
東郷は、ニヤリと笑った。
⸻
時:1931年(昭和六年)
場所:満州・奉天、張作霖大元帥府
奉天の街は、香ばしい肉の焼ける匂いに包まれていた。
張作霖は自らの執務室で、日本海軍から「技術指導」として派遣されてきたアメリカ人シェフが焼き上げた、分厚いTボーンステーキを平らげていた。
「……美味い! なんだこの肉は!今までの筋張った東北(満州の中国側からの呼び名)の牛とは、全く別物ではないか!」
張作霖の横では息子の張学良が、これまたアメリカ式の「ハンバーガー」を美味そうに頬張っている。
「親父、これ最高だよ。パンに肉が挟んであるから、馬の上でも片手で食える。
軍隊のメシにはうってつけだ」
東郷の代理人である黒田が、恭しく一礼して言った。
「お気に召して何よりです、大元帥。
……この牛肉はアメリカのアイオワ州から、我々の『特別冷蔵輸送船(元・米装甲巡洋艦)』で運ばれてきたものです」
黒田は、窓の外を指差した。
奉天の駅には、アメリカ製の巨大な「冷蔵貨車」が連なっている。
そしてその横には、アメリカの技術と設備を惜しみなく導入した、近代的な屠殺場と食肉加工プラント(コンビーフ工場)の建設予定地があった。
「大元帥。日本海軍からのご提案です。
この『アメリカ式食肉インフラ』を、満州に根付かせませんか?
アメリカの余剰種牛を輸入し、満州の広大な大地で育て、アメリカの機械で加工する。
……そうすれば、元帥の軍の兵士たちは常に腹一杯肉を食え、士気は天を突くでしょう。
そして余った肉は、我々日本海軍がNCPC債でもドルでも全量買い取ります」
張作霖は口元の脂を拭いながら、豪快に笑った。
「ハッハッハ! 東郷閣下は、本当に軍人とは思えんほど商売が上手い!
我々に美味い肉を食わせながら、その肉を作る機械や牛はアメリカから買わせ、出来上がった缶詰は日本人や海軍の腹に収まる。我々は余剰品の輸出で財政が助かる。
……見事な『胃袋の同盟』だ。
いいだろう、乗った! これで東北の兵隊たちは、蒋介石の貧乏な兵隊どもを、肉の力で圧倒してやるわ!」
⸻
時:1931年(昭和六年)
場所:東京・芝浦、海軍指定推薦大衆食堂
昼時のサイレンが鳴ると同時に、工場のゲートから作業着姿の労働者たちが吐き出され、通りに面した開業したばかりの奇妙な建物へと吸い込まれていった。
ガラス張りの明るい店内。床は白黒の市掛け模様のリノリウム。
中央には巨大なステンレス製の鉄板が鎮座し、白い調理服を着た男たちが、目にも止まらぬ速さで「何か」を焼き続けている。
彼らがトレイを持って並ぶ配膳カウンターからは、日本の伝統的な魚や煮物の匂いではなく、香ばしく焼けた肉の脂と、トマトソースの強烈な匂いが漂っている。
「おう、今日のおかずは『ミートローフ』と『ポークビーンズ』か!」
「アメリカ産の分厚いステーキ肉をミンチにして焼いたやつだ。腹にガツンと来るぜ!」
ジュウウウウウ! という派手な音と共に、焦げた脂とスパイスの香りが店内に充満する。
労働者たちはカウンターの丸椅子に座るや否や、食券を叩きつけた。
「オヤジ! 『冷珈琲付き 海軍餅ハンバーガーセット十五銭』、一つ! チリもぶっかけといてくれ!」
「あいよ!」
コックが、鉄板の上で焼けている丸いパティ(アメリカ産廃棄寸前牛の挽肉)をコテで鮮やかに裏返す。
その隣では、パンではない「白い円盤」が焦げ目をつけて焼かれていた。
『米粉バンズ』である。
日本の余剰米を粉砕・アルファ化し、少しの醤油を塗って焼き固めた「ライス・ディスク」。
コックはその香ばしい米の円盤で、分厚い肉のパティとスパイスの効いたチリビーンズを挟み込み、パラフィン紙に包んで労働者の前に滑らせた。
「熱いから気をつけてな!」
労働者は箸も使わず、その塊に豪快に噛み付いた。
パリッとした米の表面が砕け、中から熱々の肉汁と、チリの強烈な塩気と辛味が口いっぱいに広がる。米の甘みが、アメリカの荒々しい肉の味を完璧に包み込んでいた。
「……くぅ〜っ! 効くぜ!」
労働者は、横に置かれた冷たいコーヒー(ブラジル産)でそれを一気に胃袋へ流し込んだ。
入店から注文、完食までわずか10分もない。
彼は腹の底から湧き上がる莫大な活力を感じながら、ゲップを一つして工場へと駆け戻っていった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




