ヘアカット
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・応接室
東郷が笑い、FDRが重々しく頷きかけた、その瞬間だった。
車椅子の後ろに控えていたハリー・ホプキンスが、サッと前に出て、FDRの肩を強く掴んだ。
その指は、痛いほどに食い込んでいた。
「……知事。ダメです。まだサインしてはなりません」
ホプキンスは、FDRの耳元で切迫した声で囁いた。
「なんだ、ハリー。たかが地方の代用通貨だろう」
「『たかが』ではありません。知事、今現在、全米でスクリップがどれだけ流通しているか、連邦政府は把握していると思いますか?」
FDRは、メロン財務長官をチラリと見た。メロンは不快そうに顔を背けた。
「……誰も、知らないのです」
ホプキンスの声は震えていた。
「シカゴの市役所がいくら刷ったか。バージニアの炭鉱がいくら刷ったか。政府の帳簿には一切載っていません。実態は完全にブラックボックスです。おそらく数億、下手すれば10億ドル規模の『見えない通貨』が、すでにアメリカの底辺を回っている」
ホプキンスは、懐から数枚のしわくちゃの紙片を取り出してテーブルに並べた。
デトロイトの商工会議所が刷ったもの、炭鉱町が刷ったもの、そして南部の互助会が刷ったもの。デザインも額面もバラバラの「スクリップ(代用貨幣)」たち。
東郷は黙って聞いていた。
ホプキンスは、鞄を携え入室してきた樋端大尉を真っ直ぐに見据えた。
「ですが……あなた方は『目』を持っている。違いますか?」
樋端久利雄は、半開きの口元をわずかに歪めて、鞄から一枚の書類を取り出した。
「……我々が発行を把握しているスクリップの、州別・都市別の流通残高、および決済ベロシティ(流通速度)の推移データです」
ホプキンスは息を呑んだ。
「なぜ……なぜ、あなた方にそんな正確な数字が分かるのですか!?」
「簡単なことです。我々には、IBMがありますから」
樋端は、事も無げに言った。
「IBM……!」
「ええ。我々が投資し、構築させたパンチカード式集計システム。
全米のNCPC提携銀行や、過去の炊き出し時の給食所の物資調達ラインから上がってくる日々の決済データは、すべてパンチカードに打刻され、ニューヨークのデータセンターで『日次』で集計することが可能です。
……我々はどこの街のパン屋が、今日何枚のNCPC裏付けスクリップを受け取ったか、翌朝には把握できる制度を持っています」
ホプキンスは、背筋が凍るのを感じた。
今のアメリカ政府が何ヶ月かけても把握できない草の根の経済動態を、この日本海軍は「翌日」には数字として把握している。
「……地方のスクリップは、放っておけば絶対に『過剰発行』されます」
ホプキンスの目は、血走っていた。
「悪意ではないのです。善意と無知が原因です。市役所は『給料を払わなきゃ暴動になる』と刷る。地方銀行は『NCPCという準備資産があるなら大丈夫だ』と受ける。商工会は『隣町もやってるならうちも』と真似る。
そして誰かが必ずこう言うのです。
『このスクリップは日本海軍の任務信用で裏付けられている。絶対に安全だ。だから、裏付け資産の十倍刷っても問題ない』と」
ホプキンスは、東郷を睨みつけた。
「それは地獄の呪文です。
NCPC債を担保にしたスクリップが無限に増殖すれば、地方発の猛烈なハイパーインフレが起きる。ドルの価値は完全に破壊され、最終的にNCPCの信用すら吹き飛びます。
……東郷少将。貴方はその暴走リスクを分かっているはずだ。だからこそ、自分の手元資金は『3億ドルのロックアップ(定期預金)』として安全圏に隔離した。違いますか?」
東郷の瞳の奥で、微かに賞賛の光が灯った。
「知事は優秀な部下をお持ちだ。現場の事情をよく理解しておられる」
「……少将」
ホプキンスは、乾いた唇を舐めた。
「取引を、したい。……あなた方が持つその『市場の統計データ(情報)』を、我々ニューヨーク州に提供していただきたい」
「……情報はタダではありませんよ、ミスター・ホプキンス」
東郷一成は、コーヒーにミルクを注ぎながら静かに言った。
「我々が莫大な投資をして構築した『羅針盤(スクリップ流通データ)』です。それを見せる対価として、貴方は何を提示できるのです?」
ホプキンスは、覚悟を決めた顔で言った。
「ニューヨーク州政府として……、全米最大のアパレル集積地であるマンハッタンのガーメント地区に対する、日本海軍品質保証済み絹繊維の長期調達枠としての『生糸の高値購入の文書保証』です」
東郷と樋端は、無言で視線を交わした。
完璧な提案だった。だが、次期大統領の最有力候補であるFDRの腹心が、そんな「公的な保証」をやすやすと差し出すには、必ず裏がある。
「素晴らしいご提案だ」東郷は微笑んだ。
「だが、それだけではないでしょう? 知事(FDR)は私に、このデータという『入口』を開かせる代わりに、どんな『出口の鍵』を掛けようとしているのですか?」
ホプキンスは、懐からもう一枚のメモを取り出した。
FDR直筆の、三つの条件。
「……さすがですね、少将。知事からの条件は、以下の三点です。
第一に、ヘアカット(担保掛目)の設定。
NCPC債をスクリップの裏付けとする場合、額面100%ではなく、流動性リスクを勘案し掛目を『50%』と規定する。つまり、1ドルのスクリップを発行するには、2ドル分のNCPC債を要求する。
第二に、発行総量規制。
NCPC債を裏付けとするスクリップの総発行残高は、ニューヨーク州の域内GNPの一定割合を上限とする。
第三に、サンセット条項(自動失効)。
FRBの公定歩合、あるいは失業率が規定の水準まで回復した時点をもって、NCPC債の準備資産としての適格性は自動的に喪失し、強制償還プロセスに移行する」
読み終えたホプキンスの背中は、冷や汗で濡れていた。
これが、FDRが「東郷の毒」をアメリカの体内に取り込みつつ、それが全身に回るのを防ぐために用意した、必死の「安全弁」だった。
樋端が、不快げに口を開いた。
「……ミスター・ホプキンス。それはあんまりな言い草ですな」
樋端は、計算尺をカチャカチャと弾いた。
「50%のヘアカットは、我々のNCPC債の担保効率を半分に落とすということです。GNPキャップは、NCPCスクリップの拡散速度を物理的に縛る。
そしてサンセット条項は……せっかく我々が苦労して貴国の中に開けた『風穴』が、景気が回復したら勝手に塞がるという仕掛けだ。
少将。これは『私に入口を与えると言いながら、入口の幅を半分にし、通行人数を制限し、時間が来たら扉を閉める』と言っているのと同じです。……虫が良すぎませんか」
東郷は、コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「確かに、厳しい条件だ。だが……」
その時だった。
応接室の奥のソファで、それまで腕を組んで不快そうに黙り込んでいた男――JPモルガン商会の総帥、ジャック・モルガン・ジュニアが、ふと顔を上げた。
彼は最初、地方の自治体が発行するスクリップなど、「不況のあだ花」「地方の紙くず」だと見下していた。
だからこそ、FDRが提案した『50%のヘアカット(ガチガチの安全弁)』に対しても、「まあ、日本への防波堤としては妥当なラインだろう」と聞き流していたのだ。
だが東郷とホプキンスの応酬を聞くうちに、彼の頭の中で「銀行家としての別の器官」が、むくりと目を覚ました。
(……待てよ)
モルガンの目が、細められた。
(このNCPC準備付きスクリップ。……我々ウォール街の銀行が、その清算・割引・再担保化のネットワークを独占できるとしたら……?)
彼の中で、金庫のダイヤルがカチリと音を立てて回った。
何億ドルというスクリップが、毎日アメリカ中を飛び交う。その度に、クリアリングハウス(手形交換所)を牛耳るモルガン商会には、莫大な「手数料」が落ちる。
それは、もはや「地方の紙くず」ではない。何もない不況下で突如として生まれた、巨大で、無尽蔵の『手数料市場』だ!
だが……。
(50%のヘアカットでは、ダメだ)
モルガンは、心の中で舌打ちをした。
50%の掛目ということは、1ドルのスクリップを出すのに2ドル分のNCPC債が必要になる。これでは担保効率が悪すぎる。地方の小さな町や企業は、そんなに大量のNCPC債を積み増すことはできない。
発行額が伸びなければ、流通量も伸びない。流通量が伸びなければ……モルガン商会の手元に落ちる『手数料』も薄くなる。
モルガンの顔から、日本の侵略に対する警戒や、FDRへの反発といった政治的な感情が、スッと消え去った。
代わりに浮かんだのは、もっと危険で、もっと純粋な表情だった。
……理解した金融家の顔である。
「……少し、よろしいかな」
モルガンが重々しい声で口を挟んだ。
ホプキンスが怪訝な顔で振り向く。
「ニューヨーク州知事の安全弁の意図は理解できる。だが……50%のヘアカットというのは、少々『実務上の流動性』を欠くのではないかな?」
「……ジャック?」
ホプキンスは嫌な予感がして、身を乗り出した。
「何を言っているんです。50%は、ドルの信用を守るための最低限の防波堤だ」
「理想はそうだろう。だが、現実の市場を見たまえ」
モルガンは、まるで迷える羊を導く牧師のような、慈悲深い声を出した。
「地方の都市は今、明日のパンを買うためのスクリップを欲しがっている。だが彼らには、2倍もの担保(NCPC債)を積む余裕などない。50%という過酷な条件では、肝心の『救済』が末端まで届かないのではないか?
……市場の受容性を高め、発行体(地方自治体)の負担を軽減するためにも、ここはせめて……『70%』、いや『80%』の評価にすべきではないかな」
ホプキンスは絶句した。
表向きは「地方の救済」。
だが、その本音は「レバレッジを効かせて、手数料市場を最大化しろ」という、金融資本家の剥き出しの強欲だった。
「ジャック、それは危険だ!」ホプキンスが声を荒らげる。
「80%の掛目など、NCPC債にアメリカの経済を明け渡すようなものです! なぜ貴方が……!」
「私は、東郷少将の味方をしているわけではない」
モルガンは、冷ややかに言い放った。
「……そう、市場が求めているのですよ」
金融屋がこの言葉を使い始めたら、だいたい危ない。
モルガンは東郷に向き直り、囁くように言った。
「……東郷少将。ヘアカットが緩めば、NCPC債の需要はさらに増える。貴方にとっても、決して悪い話ではないでしょう?」
東郷は、コーヒーカップをゆっくりとソーサーに置いた。
カチャリ、という音が、静かな応接室に響く。
「……ええ。素晴らしいご提案です、ミスター・モルガン」
東郷は、満面の笑みを浮かべた。
「では、掛目は『75%』で手を打ちましょう。サンセット条項についても、段階的なフェーズアウト(解除)ということで合意します。
……これで、皆が幸せになれる」
「……取引成立ですね、少将」
ホプキンスは、深々と息を吐いた。背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
FDRは、ホプキンスに静かに目配せをした。ホプキンスは小さく頷いた。
「……少将、一つだけ個人的な質問をしてもいいですか」
「どうぞ」
「貴方は、これで満足ですか」
東郷は、少し考えるように窓の外を見た。
その方向には、日本がある。
「……私が欲しいのは、来年も農家が蚕を育てる理由です。派手な国旗の踏みつけ方ではない」
⸻
時:数ヶ月後
場所:長野県・諏訪、製糸工場
ガチャガチャという糸繰り機の音が、朝から晩まで響き渡っていた。
世界的な不況で一度は火が消えかけた工場が、今はフル稼働している。
「……ねえ、聞いた?アメリカのお上(州政府)が、うちの生糸を大量に買ってくれてるらしいわ」
休憩時間、女工たちがおにぎりを食べながら噂話をしている。
「なんでも、アメリカの貧乏な人たちに配る服を作るんだってさ」
「メリケンの貧乏人って、絹の服を着るのかい? さすがは金持ちの国だねえ」
「海軍さんが、上手いこと話をつけてくれたらしいよ。ありがたいことだねえ……」
彼女たちは知らない。
大恐慌に苦しむ日米の「最底辺の生存権」が、ワシントンの密室で取引されたことを。
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