名前のない怪物
時:1930年(昭和五年)、12月13日
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・応接室
それは、日本側の人間が一人もいない部屋で起きた。
東郷一成少将と出淵勝次大使は、基金契約書の文面を最終修正するため、奥の執務室へ下がっていた。橘小百合や樋端久利雄もまた、書類鞄を抱えてその後に続いた。
扉が閉じる。
その瞬間、部屋に残されたアメリカ人たちは、初めて本当の意味で息を吐いた。
ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルト。
財務長官アンドリュー・メロン。
J・P・モルガン・ジュニア。
ハリー・ホプキンス。
四人の男が、異国の大使館の控室で、アメリカ合衆国の金融秩序について密談している。
あまりにも奇妙な光景だった。
壁には日本画が掛かっている。床には絨毯。テーブルには冷めかけた紅茶。窓の外には、冬のワシントンの灰色の空。
「……今のうちに、こちら側も条件を整理しておくべきだ。東郷が戻ってきてからでは遅い」
最初に口を開いたのはメロンだった。
その声は、疲れ切っていた。だが同時に、飢えた金庫番のような執念がこもっていた。
メロンは、まずFDRを一瞥した。
「我々は昨年――1929年の11月に、スティムソン国務長官が東郷大佐(当時)と『ポトマック公園の密約』を交わしている。
日本海軍は、我が国のナショナル・シティ・バンク(NCB)から南米の資源債権を買収した代償として、『今後3年間、日本が保有するドル資産の金転換を凍結する』ことに合意した。口頭合意だが、我が財務省も日本のオカダ海軍大臣も承認しているはずだ」
「ということは、だ」
メロンは立ち上がり、応接室の黒板の隅に冷徹な数字を書き込み始めた。
「東郷が今、合衆国銀行に預けている3億ドル。そして市場で投機されているNCPC債。これらはすべて、向こう3年間は絶対に『ゴールドの引き出し(正貨流出)』を引き起こさない、アメリカ国内に幽閉された『死んだドル信用』だ。
……金本位制のルール上、正貨流出のリスクがゼロであるならば……FRBニューヨーク銀行は、日本が凍結に同意した金準備(イヤーマーキング枠)を事実上の裏付けと見なすことで、新規の連邦準備券を発行できる。法的な解釈の変更だけで足りる。議会答弁の文言は私が作る」
ホプキンスは息を呑んだ。
メロンは東郷と合意した「3年の密約」を逆手に取って、「3年間は金を刷り放題の免罪符」に変換してしまったのだ。
「し、しかしアンドリュー!」FDRが叫ぶ。
「1929年から3年後、つまり1932年にはその爆弾が破裂する! 万一景気が回復した瞬間に日本が金を引き出せば、アメリカの金庫は空になり即死する!」
「3年後のことは、3年後の財務長官が考えればいい」
メロンは一歩も引かなかった。彼にとって重要なのは「今年度の予算の帳尻」だ。大恐慌で穴の空いた国家財政を、自分の任期中にどう取り繕うか。
「さらにだ、モルガン」メロンは振り返った。
「君は『NCPC準備付きスクリップ』をウォール街で清算・転売して手数料を稼ぐと言ったな?」
「ああ、長官。地方の炭鉱や工場は、そのスクリップで喜んで回る」
モルガンがニヤリと笑う。
「ならば、財務省は今年度の税制改正において、その『民間の代用貨幣による物品売買』に対し、1取引あたり2セントの印紙税を課税する。
……どうだ? もちろん、税金の支払いは『ドル現物』のみだ」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
メロンはまるで完璧な方程式を解いた数学者のような、恍惚とした表情を浮かべた。
「東郷の3億ドルは金利ゼロで固定化され、モルガンのスクリップが実体経済を回し、その摩擦熱から財務省がドルを徴税する。
……完璧だ。今年度の我が国の財政赤字は、これで数億ドル圧縮できる。ドルの表面的な権威も傷つかない。議会には『州政府の救済基金を財務省がバックアップしただけだ』と言い訳ができる」
FDRが顔を上げた。
「この時期に、取引税を?」
「この時期だからだ」
メロンは振り返った。その目は、疲労と焦燥でぎらついていた。
「正規税収の法人税は欠損金で最低2年は蒸発した。NCPCは直接課税に苦戦中。海軍資産売却は海軍省に邪魔された。押収酒の換金すら輸送協力を拒まれている。ならば、回っているものから取るしかない」
(……狂っている)
FDRは、額に冷や汗を浮かべながら呻いた。
「全員、自分の都合しか考えていない。
モルガンは手数料が欲しいから、スクリップを膨らませたい。
メロンは税収が欲しいから、スクリップ取引を膨らませたい。
地方自治体は給料を払いたいから、スクリップを刷りたい。
東郷はNCPCの需要が欲しいから、それを売りたい。
……そして私は国民を救済したい。だから、止められない」
全員がアクセルを全開にしたまま、猛スピードで走り出した瞬間だった。
「……ただし、だ」
メロンは、絞り出すような声で言った。
「スクリップの券面に、日本海軍の名前を出すことは絶対に許さん。
『NCPC兌換保証』などという文字が市場に流通してみろ。庶民は一瞬で『この紙切れは日本海軍が保証している』と理解する。それはドルの敗北を政府が印刷物で認めるようなものだ。
許せる文言は、せいぜいこれだけだ」
メロンが震える指で差し出したメモには、いかにも官僚が好みそうな、実態を巧妙に隠蔽した英語が並んでいた。彼が提示した最後の防衛線――券面の文言規制。それは財務省としてのプライドと、ドルの表面的な権威を死守するための「官僚の知恵」であった。
『Backed by approved reserve assets(承認された準備資産による裏付け)』
「これなら、表向きは『ニューヨーク州の救済基金が認めた、正当な民間決済手段』として説明がつく」
メロンは満足げに胸を張った。看板さえ整えば、中身が日本の軍票(NCPC)のレバレッジであろうとも、ドルの体面は保たれるというわけだ。
FDRは、ジャック・モルガンの顔を見た。
モルガンのぎらついた目が、メロンのメモを見た瞬間に歓喜で歪むのを、FDRは見逃さなかった。
モルガンは、メロンの書いた “approved reserve assets” という文字を見つめた。
そこには、NCPCとは書かれていない。
つまり、NCPCだけとも書かれていない。
彼の脳内で、焦げついたり滞った債権、値崩れした不動産担保証券が、急に「準備資産」という名札をつけ始めた。
モルガンは、咳払いをして紳士的な笑顔を作った。
「……メロン長官のお考え、非常に素晴らしい。合衆国の威信を守るためにも、我々金融界は『NCPC』という文言を券面に出さないことに全面賛成いたします。
……その代わり、準備資産の『承認』と『清算』の実務は、我々モルガンを中心とする銀行団のコンソーシアムにお任せいただきたい」
「もちろんだとも、ジャック」メロンは頷いた。
「印紙税の徴収ルートさえ明確にしてくれれば、細かい組成には口出しせんよ。市場のことは市場が一番よく知っているからな」
だが、今度はメロン財務長官の「どんぶり勘定」に、ホプキンスが疑わしげに眉をひそめた。
「……長官。スクリップ(代用貨幣)による取引1回につき『2セント』の印紙税を課す、とおっしゃいますが。
失礼ながら、たかが2セントの小銭を集めて、現在の数億ドルに上る財政赤字の穴埋めになるとは到底思えません。焼け石に水ではありませんか?」
「素人の君たちは『たった2セント』と侮るが、これは通貨の性質を全く分かっていない者のセリフだ」
メロンは最高級の葉巻の先端を切り落としながら、憐れむような目でホプキンスを見た。
「現在、我が国ではドルが退蔵(タンス預金)されて実体経済から消えている。だが、この『承認された準備資産によるスクリップ』は違う。地方自治体、衣料産業、そして近く大量に発生するであろう退役軍人の補償問題にも対応できる。
彼らはその紙切れを貯め込まない。いや、貯め込めない。パンを買い、ミルクを買い、家賃を払うために、凄まじい速度で市場をグルグルと回り始めるのだ(流通速度の爆発的上昇)」
メロンは胸を張って計算を披露した。
「全米の労働者や退役軍人、約1,500万人が、このスクリップを使って毎日平均2回、日用品の買い物をすると仮定する。年間約110億回の取引だ。
それに加え、アパレル問屋、地方の炭鉱、町工場のBtoBの決済が、年間最低でも5億回。
これらすべての決済に、一律で『1取引あたり2セント』の印紙税を課す。
115億回 × 0.02ドル = 2億3,000万ドル。
これにモルガンが地方銀行へ卸す際の『清算登録手数料(1回10セント)』の分け前を乗せれば、財務省が手にするドルキャッシュは年間3億ドルを超える。我が国の減り続ける連邦歳入の、なんと『1割』を、この紙切れ1枚で補填できるのだ!」
メロンは傲慢に笑った。
「しかも増税法案として正面から出す必要はない。救済スクリップの登録・清算に必要な印紙として、歳入法の雑則に滑り込ませればよい!」
彼にとって、この3億ドルは壊滅しかけたフーヴァー政権を救う「奇跡の聖杯」にしか見えていなかった。
だが、ホプキンスの顔色は青ざめる一方だった。
彼はソーシャルワーカー上がりの専門家として、あまりにも残酷な矛盾に気づいてしまったのだ。
「……ま、待ってください、長官。
確かに計算上はそうなりますが……取引のたびに『2セントのドル現金』を要求するのですよね?
先ほど長官が仰った通り、彼らはドルを持っていないからスクリップを使うのです。
……その印紙を買うためのドル現金を、彼らはどこから持ってくるのですか?」
メロンは、冷ややかに笑った。
「タンスの奥からさ」
「え?」
「どんな貧乏人でも、靴下の底やマットレスの下に、数枚のクォーター(25セント硬貨)やダイム(10セント硬貨)くらいは隠し持っているものだ。
彼らはスクリップでパンを買うために、その『隠しドル』を引っ張り出して、郵便局で2セントの印紙を買うのさ」
……。
ホプキンスは、吐き気を覚えた。
その時、ドアが静かに開いた。
基金の契約書を作成し終えた東郷一成が、出渕大使や小百合を伴って戻ってきた。
東郷は部屋を一瞥し、すぐに場の空気が変わっていることに気づいた。
FDRは蒼白。ホプキンスは沈黙。
メロンは満足げ。モルガンは上品に微笑んでいる。
「……何かを、決めましたね」
東郷は、静かに尋ねた。
メロンが、得意げに説明する。
「ああ。我が合衆国政府としての『体面』と『財政規律』を守るための、ささやかな修正を加えさせてもらったよ。券面にNCPCの名は出さない。承認準備資産とする。印紙税を課す。清算は銀行団に任せる。……これが我々の条件だ」
東郷は、しばらく黙っていた。
出淵大使は、黒板を見て顔色を失った。
小百合は無表情だったが、その指先だけがわずかに動いた。
FDRが、ゆっくりと顔を上げた。
「少将。貴方は今の条件の意味を理解しているのですか」
「ええ。名前を消せば、怪物は消える。そうお考えになった」
東郷は、黒板の“approved reserve assets”という文字を見た。
「……では、私からの修正要求は一つだけです。……ほんの形式的な、法的免責条項を追加させていただきました」
東郷一成は、流麗な英語で綴られた文書をテーブルの中央に滑らせた。
ジャック・モルガンが、老眼鏡をかけてその一文を読み上げた。
『日本海軍は本預金およびNCPC債を基金の準備資産として提供するが、当該資産を他の債権・証券・清算証書と混合して組成された商品について、いかなる元本保証・市場価格保証・償還保証も行わないものとする』
「……東郷少将。これはどういう意味かな?」
モルガンの声に、わずかな警戒が混じる。
「言葉通りの意味ですよ、ミスター・モルガン」
東郷は、コーヒーカップを手に取りながら微笑んだ。
「我々が保証するのは、帝国海軍の任務、あくまで『NCPC債そのものの元本』だけです。
……ただの、事務的な責任分解点の設定です」
その瞬間、ジャック・モルガンの心の中で警戒心がスッと消え去り、代わりに歓喜の炎が燃え上がった。
(……なるほど! この東洋人は分かっている!)
モルガンは内心で喝采を上げた。
東郷は「我々は君たちに、口出しはしない。好きにやれ」と言ってくれているのだ。
「……実に合理的で、スマートなご判断だ、東郷提督。我々金融界の裁量を尊重してくださるその姿勢、深く感謝する」
モルガンは、満足げに頷いた。
「財務省としても異存はない」
メロン財務長官も、即座に同意した。
「市場の商品の価値保証など、政府や軍隊がやることではない。投資はあくまで自己責任だ」
二人のアメリカの巨頭は、喜んでその契約書にサインをした。
「……知事? 貴方のサインがまだですが」
東郷が、不思議そうな顔でFDRを見た。
「……あ、ああ。……そうだな」
FDRは、手が震えるのを必死で抑えながら、万年筆を握った。
インクが、白い紙に黒々と吸い込まれていく。
「……これで、よろしいですね」
FDRは、絞り出すように言った。
「ええ。素晴らしい合意です」
東郷は丁寧に契約書を二つに分け、一部を鍵付きの鞄にしまった。
「これで、我が帝国海軍も枕を高くして眠れます。……皆様の、アメリカ合衆国の輝かしい未来に。乾杯」
東郷は、出淵大使が用意していたシャンパンのグラスを掲げた。
メロンとモルガンも、上機嫌でグラスを合わせた。
FDRだけが、そのグラスの中の泡が喉を通らなかった。
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