緊急流動性基金 後編
前編の続きとなります。
FDRは初めて、少しだけ露骨に嫌そうな顔をした。
「東郷少将」
FDRの声が低くなった。
「貴方は、アメリカを敵に回すには賢すぎる。だが、アメリカの庶民に恩を売るには、少し賢すぎます」
東郷は、ふっと笑った。「面白い」
「面白いではない!」
メロンが耐えきれずに身を乗り出した。
「これは州知事の権限を明らかに越えている! 東郷少将、この提案に乗る必要はない。むしろ——」
「長官」
FDRは振り向きもせずに言った。
「先日、貴方はフーヴァー大統領の了解を得ずに、外国資産の凍結をちらつかせたそうですな。まず一言、申し上げることがあるのではないですか。
今さら権限の話を始めるなら、まず自分の酒臭い口をすすいでからにしていただきたい」
出淵大使は、今度こそ咳き込んだ。
東郷は声を殺して笑った。
メロンの顔が赤くなった。白くなった。そして岩が崩れるように、ゆっくりと口が開いた。
「……東郷少将」
財務長官の声は、かすれていた。
「昨日、私は……貴方に対して、不適切な発言をした」
出淵大使が、息を呑んだ。
小百合の表情は動かなかったが、その目が一瞬、メロンの顔に向いた。
「『ジャップの世話にはならん』と言った。……それは、撤回する」
それは謝罪というより、岩が渋々動いたような言葉だった。だが、アンドリュー・メロンという男が外国人に頭を下げたという事実は、この部屋の空気を決定的に変えた。
東郷は、メロンを静かに見た。
「……承りました、長官」
それだけだった。追い打ちも皮肉もなかった。
それがかえって、メロンには重かった。
⸻
「少将」
FDRは、声のトーンを変え話を戻した。
「では、ここまでを一つの枠にまとめましょう。Bank of United States 単独ではなく、ニューヨーク州監督下の緊急流動性基金に移す。名目は預金者保護。ガーメント地区への融資枠は明文化して残す。ただし、融資条件への特定国産品の抱き合わせは避ける」
基金になれば他の民間銀行や州債も巻き込め、日本単独の「恩着せがましい救済」という色を薄めることができる。
FDRの肩から、わずかに力が抜けた。
だがその一瞬の安堵を、東郷は見逃さなかった。
「知事」
東郷は、テーブルの上のティーカップの縁を指でなぞりながら、穏やかに続けた。
「サインの前に、少し、法的な手続きの整理をさせていただきたい。
我々は一介の軍隊であり、我々ができるのは、あくまで安全な銀行に『預金』をすることです」
FDRの眉が、ピクリと動いた。
「ですから、基金のスキームとしてはこうしましょう」
東郷は懐から万年筆を取り出し、小百合が出した紙の上に、さらさらと図を描いた。
「我々日本海軍の3億ドルは、これまで通り『合衆国銀行への預金』としてそのまま置いておきます。
その上で、知事が設立される『緊急流動性基金』の幹事銀行として、合衆国銀行を指名していただきたい。
……そうすれば我々の預金を裏付けとして、合衆国銀行が基金を主導して、ニューヨークの衣料問屋街(ガーメント地区)や困窮する市民を広く救済できる。
知事のメンツも保たれ、我々も面倒な手続きから解放される。完璧な枠組みではありませんか?」
モルガンの顔が、サァッと青ざめた。
「幹事銀行」にするだと?
それはつまり、モルガンをはじめとするウォール街の銀行が供出する救済資金の配分権を、東郷の息がかかった合衆国銀行が握るということだ。
「……なるほど。見事な整理だ」
FDRは、表情を崩さずに言った。東郷が「直接支配」から「間接支配」へ身を躱したことを悟ったのだ。
「では、その形で結構です。ご協力に感謝します」
「どういたしまして。……ああ、念のための確認ですが」
東郷は、今度はジャック・モルガンに顔を向けた。
「日本海軍が預けた3億ドル。これは当座の運転資金ですから、『要求払い預金』となりますよね? 定期預金ではありませんから、海軍が引き出したいと思った時には、いつでも、即日現金で引き出せる。
……合衆国の銀行法ではそういうルールですよね、モルガンさん?」
ピタリ、と。
モルガンと、そしてメロン財務長官の呼吸が止まった。
要求払い預金。
それは客が「返せ」と言えば、銀行は必ずその日のうちに現金を用意しなければならない絶対のルール。
もし東郷が明日、「3億ドル全額引き出す」と言えば、合衆国銀行は即座に破綻し、幹事銀行を失った緊急基金は崩壊し、ニューヨーク経済は数時間で心肺停止に陥る。
ジャック・モルガンは、答えなかった。
答えられなかった。
ウォール街の帝王が、銀行法の基本条項を前に、完全に沈黙した。
要求払い預金の即時引き出しは、銀行業の根幹を支える権利だ。これを否定すれば、アメリカの銀行制度そのものを否定することになる。しかし認めれば——東郷が握る引き金の存在を、モルガン自身の口で公認することになる。
「私はただ、預金規約を確認しただけです」
東郷は微笑んだ。
「ご安心ください。日本海軍は鞘を抜くつもりはありません」
一拍の間があった。
「——今は」
沈黙が、部屋に満ちた。
東郷は、再びモルガンの目を真っ直ぐに見据えた。
「……モルガンさん。あと一つ、率直にお伺いしてもよろしいですか」
モルガンが、わずかに顔を上げた。
「……なんだ」
「この基金、海軍の3億ドルだけで本当に足りると思いますか?」
部屋の空気が、また変わった。
「合衆国銀行だけではない。今、ニューヨーク州内には、連鎖的な流動性不足に陥りかけている銀行が他にもある。ガーメント地区の業者が複数の銀行と取引していることは、貴方もご存知のはずです」
東郷は、静かに続けた。モルガンは黙っていた。
「この3億ドルは、錨です。船は、錨だけでは港に繋ぎ止められても、人は乗れない。
ウォール街が先日、合衆国銀行への3,000万ドルのつなぎ融資を拒んだことは存じております」
東郷の声には、刃のような静けさがあった。
「あの時の3,000万ドルと、今日の参加表明。……どちらが安くつくか、モルガンさんなら計算は早いでしょう」
モルガンの顎の筋肉が、かすかに動いた。
「……基金への参加額は」
「任意で結構です」
東郷はあっさり言った。
「ただ、この会談の記録は残ります。知事がお持ち帰りになる」
FDRは何も言わなかった。ただ、書類の端に何かを書き留めはじめた。
モルガンは、しばらく暖炉の火を見ていた。
「……6,000万ドル」
「ありがとうございます」
東郷は深く頭を下げた。
取引が成立した瞬間の、過不足のない礼だった。
出淵大使は、この瞬間の記録をどう書けばいいか、しばらく考えた。
結局、こう書いた。
「モルガン氏、東郷少将の要請により基金参加を表明。金額六千万ドル」
事実しか書けなかった。事実だけで、十分すぎた。
ただ、外交官としての出淵の常識は、この日完全に崩壊した。一国の海軍武官が、アメリカの州知事とウォール街の帝王を相手に、たった一つの机の上で『国家の主権』を値踏みし、取引したのだから。
⸻
「……では、私からも改めて条件を」
東郷は静かに、しかし絶対的な重みを持って言った。
「米連邦政府、または州政府が、日本資産の『凍結』、NCPC決済の『差別的禁止』等を行った場合。……これらの基金契約は無効とし、3億ドルは即時解約可能とする」
「それは認められない」
FDRは、東郷の言葉を鋭く遮った。
「知事?」
「少将。貴方が要求しているのは『治外法権』だ。アメリカ政府が主権を行使した瞬間に、3億ドルを引き揚げて市場を崩壊させる『起爆スイッチ』を渡せと言っている。
……そんなものを握らせたままでは、我々は永遠に貴方の顔色を窺って政治をしなければならなくなる。断固、拒否する」
FDRの目は本気だった。
大口預金者としての特権は認める。だが「国家の主権」を人質に取られることだけは、次期大統領を目指す者として絶対に許容できなかった。
二人の間に、目に見えない火花が散った。
メロンとモルガンは、ただ沈黙してそのやり取りを見守るしかなかった。
「つまり、定期預金にせよと?」
東郷は、コーヒーカップを置いた。
「そうです。その代わり、我々も最大限の譲歩を用意しました」
FDRは、あらかじめ用意してきた「出血覚悟」のカードを一つずつ切り始めた。
「3億ドルのうち2億ドルを24ヶ月定期とし、金利は市場金利に特別プレミアムを上乗せして年4%。さらに、マンハッタンのガーメント地区への融資枠は維持し、我々が持つ市場の統計データへのアクセス権も付与します。そして万が一、我々の政府が不当な資産凍結を行った場合の『即時解約条項』も……」
「知事」
東郷の声が、FDRの言葉をピシャリと遮った。
「金利のパーセンテージ。部分的な融資枠。統計データ。……そんな細かい枝葉の話は、もうやめにしませんか」
FDRは言葉を詰まらせた。隣に座るモルガンとメロンも、怪訝な顔をした。
「私が、数パーセントの利息をせびる高利貸しに見えますか?」
東郷は、静かに微笑んだ。
「貴方がたが本当に欲しいのは、ただ一つでしょう。
『私が明日、気分次第で3億ドルを引き揚げて、アメリカの銀行システムを即死させるかもしれない』という、その恐怖からの解放。……違いますか?」
図星だった。
金利などどうでもいい。東郷の手から「即時引き出し」という時限爆弾の起爆スイッチさえ奪えれば、アメリカ経済はひとまず深呼吸ができる。
「いいですよ、知事」
東郷は、こともなげに言った。
「3億ドル、全額。2年でも3年でも、完全に固定化(定期預金)して差し上げましょう。
金利? いりません。ゼロで結構」
部屋が、死のような静寂に包まれた。
モルガンは耳を疑い、メロンは呆気にとられた。FDRの背筋には、逆に冷たい汗が流れた。
「……少将。それは……我々にとって、あまりにも都合が良すぎる話ですが」
「ええ。ですから、代金は『別のもの』で頂きます」
東郷は、テーブルの上に一枚の新聞の切り抜きを置いた。
それは、大恐慌でドルが枯渇した中西部の地方都市で、自治体や企業が給料代わりに発行し始めている『スクリップ(代用貨幣)』に関する記事だった。
「私が欲しいのは、これです」
「……スクリップ? そんな地方の紙くずをどうするのです?」
「知事。現在、全米で発行されているスクリップは、隣の町に行けば使えない、ただの不便な紙切れだ。信用がないからです」
東郷は、FDRの目をまっすぐに見据えた。
「そのスクリップを発行する際の『準備金(裏付け資産)』として、我々の『NCPC債』を組み込むことを、ニューヨーク州政府、ならびにウォール街の銀行団が承認すること。交換窓口は限定しません。ニューヨークでも、シカゴでも、デトロイトでも、スクリップを発行したい主体が市場でNCPC債を買えばいい。我々は売るだけです。
……条件は、ただそれだけです」
「なっ……!?」
メロンが、バネ仕掛けのように立ち上がった。
「馬鹿な!そんなことをすれば、我々のドルを介さずに、日本海軍の紙切れがアメリカ中の草の根で流通することになる!法定通貨への重大な挑戦だ!」
「長官。私は『法定通貨にしてくれ』とは言っていませんよ。ただの『商品券の担保』です。ニューヨーク州銀行法は、民間の商業手形を準備資産として認めています。NCPC債もその範疇に入る」
東郷は、涼しい顔でメロンを一蹴した。
「……黙ってください、長官」
FDRはメロンを振り返り、氷のような声で言った。
「貴方が愚かにも『資産凍結』などと口走らなければ、我々はここまで高価な保険料を払う必要はなかった」
「……州知事。受けろ」
モルガンが、低い声でFDRに囁いた。
「市場を安定させることが最優先だ。スクリップは過去の恐慌でも使われたが、景気回復とともに消えた。今回もそうなるはずだ」
FDRは、東郷の底知れぬ瞳を見つめ返した。
だが、FDRにも選択肢はなかった。今、この3億ドルを固定化できなければ、アメリカは終わる。
FDRは、わずかに口角を上げ書類を閉じた。
「……取引成立ですな、提督」
「素晴らしい。では、契約書を作りましょう」
二人は、互いに微笑んだ。薄い刃のような笑みだった。
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