緊急流動性基金 前編
時:1930年(昭和五年)、12月13日 早朝
場所:ニューヨーク州オールバニ駅
夜明け前の駅舎には、石炭の煙と雪の匂いが混じっていた。
プラットフォームに停まる特別車両の前で、ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、厚手の外套を膝に掛けたまま、車椅子の上から二人の男を見上げていた。
アンドリュー・メロン財務長官。
ジョン・ピアポント・“ジャック”・モルガン・ジュニア。
アメリカの財政と金融の、古びた王冠をかぶった男たちである。
「さて、紳士諸君」
FDRは、にこやかに言った。
「これからワシントンへ行きます」
メロンは露骨に顔をしかめた。
「知事、私は合衆国財務長官だ。君に連行される筋合いはない」
「もちろんです、長官」
FDRは穏やかに頷いた。
「ですから、ご自分の足でお乗りください。私は誰も連行していません。合衆国の信用を守るために、責任ある大人たちが同じ列車に乗るだけです」
だが、メロンは動かなかった。
「日本大使館へ行くなど、屈辱だ」
「屈辱?」
FDRは首を傾げた。
「先日、君たちは自国の銀行を救えなかった。今日はその銀行を救った男と、救済条件を交渉しに行く。……これは屈辱ではありません。後始末です」
「我々が頭を下げるとでも?」
「頭を下げる必要はありません。ただ、口を閉じる必要はあります」
その一言で、駅員までもが視線を逸らした。メロンの顔が赤くなった。
FDRは、声のトーンをわずかに変えた。
「……長官、一点だけ確認させてください。昨日、貴方が日本大使館で口にされたという『資産凍結』の件。フーヴァー大統領は、承知の上ですか?」
メロンの顔から、赤みが引いた。代わりに、土気色が広がった。
「東郷少将は、敵ではない。少なくとも、今朝の時点では」
FDRは続けた。
「彼は銀行に金を入れた『大口預金者』です。彼を敵に変えるのは簡単だ。蔑称を使い、愛国心を新聞に売ればいい。
……だがその瞬間、全米の預金者はこう学ぶ。
『外国の軍隊は助けてくれるが、自国の政府は助けを拒むのだ』と、ね。それは避けねばなりません。だから交渉します」
「何を」
メロンが吐き捨てた。
「目的は三つです。東郷資金を経営権に変えさせない。生糸取引を強制条件にさせない。そして、この救済を“日本海軍の慈善”ではなく“ニューヨーク州の預金者保護”として処理する」
FDRは、指を一本立てた。
メロンが思わず顔を上げた。
「……それを彼が呑むと?」
「呑まなければ?」
FDRは静かに聞き返した。
「我々は彼を敵と認定する。だがその前に、こちらが最低限まともな条件を提示したという記録を残す。それが政治です」
モルガンは皮肉に笑った。
「州知事が外交官気取りか。合衆国憲法違反(州による独自外交の禁止)の極みだな」
メロンは一言も言わず、列車に乗り込んだ。
次に、FDRはジャック・モルガンへ向き直った。
「ジャック。君は乗らなくても構わない」
FDRは穏やかに続けた。
「もっとも、今日の会談はニューヨーク州監督下の合衆国銀行の扱いについて話し合う場になる予定だ。ガーメント地区への融資枠の配分——そういった話なども、州政府と東郷少将だけで決めることになるが」
モルガンの目が、細くなった。
自分が部屋にいない場所で決まる。衣料産業の融資枠を、州役人と外国の軍隊が仕切る。ウォール街は蚊帳の外になる。
「……乗る」
モルガンは短く言った。だが乗り込む前に、FDRを振り返った。
「フランク」
モルガンの声は低く、葉巻の煙のように重かった。
「君は昔から妙なところがある。ハドソン河畔の貴族の顔をして、口を開けば救貧院の牧師のようなことを言う」
FDRは笑わなかった。
「君は危険だよ、フランク」
モルガンは、忌々しげに言った。
「資本家の言葉を理解した上で、群衆の側に立つ。社会主義者のようにね」
その言葉に、プラットフォームで視線をそらしていた駅員が思わず顔を向けた。
FDRは少しの間、モルガンを見つめた。そして静かに、しかし明確に答えた。
「安心したまえ、ジャック」
「……何が」
「私は社会主義者ではない」
FDRは、凍えた冬空を一瞬仰いだ。
「君たちが資本主義を自殺させる前に、首から縄を外そうとしているだけだ」
モルガンの顔に、屈辱と軽蔑と——ごくわずかな、認めたくない何かが混じった。
彼は答えなかった。答える代わりに、列車に乗り込んだ。
FDRは秘書に車椅子を押させながら、ホプキンスに耳打ちした。
「ハリー、メモしておけ。ジャック・モルガンは今日から、私の名前を自分の前で口にしないようになる」
「……何故です?」
「悔しいからだ」
列車の汽笛が鳴った。
朝の冷気を裂くように、白い蒸気がホームへ広がった。
FDRは、最後にメロンに向かってこう言った。
「ワシントンまでに、謝罪の言葉を一つくらい考えておくといい。短くていい。どうせ長いものは、君たちの口から出ると嘘に聞こえる」
⸻
時:同日 昼
場所:ワシントンD.C. 日本大使館
応接室には、奇妙な沈黙が降りていた。
アメリカ合衆国財務長官。
J・P・モルガン商会の当主。
ニューヨーク州知事。
その三人が、日本大使館のソファに並んで座っている。
出淵勝次大使は、額にうっすら汗を浮かべていた。この部屋には、正式な外交手続きで説明できるものが一つもない。
奥の扉が開き、東郷一成少将が現れた。後ろに、橘小百合が影のように従っている。
「これはこれは」
東郷は、穏やかに微笑んだ。
「ルーズベルト知事。まさか貴方が、財務長官とモルガン氏をお連れになるとは」
「私も、まさか日本海軍の少将がニューヨーク州の銀行行政をここまで刺激してくださるとは思いませんでしたよ」
FDRはにこやかに返した。
二人は笑った。
笑っていないのは、他の全員だった。
メロンが不快そうに身じろぎした。
「さて、少将。本題に入る前に、まず一つ、仮定の話をさせてください」
「どうぞ」
「もし明日の朝刊に、こんな見出しが出たとしたら、どうなるでしょう」
FDRは、懐から折りたたんだ一枚の紙を取り出した。
それは、実際の新聞ではなかった。だが、活字を模した手書きの見出しが走っていた。
『日本海軍、合衆国銀行を通じて融資に介入か——生糸購入を条件に金融支援』
出淵大使が、椅子の上で固まった。
「……これは」
東郷の声から、初めてわずかな温度が消えた。
「脅迫ですか、知事」
「情報提供です」
FDRは涼しい顔で答えた。
「昨日、合衆国銀行の前に集まった群衆を覚えていますか。貴方の部下が現金のトランクを開けて、彼らを静めた。あの光景を見た人々は今、この銀行が『日本に救われた』と思っている。感謝している者もいる。だが——」
FDRは、言葉を切った。
「——感謝は、一晩で恐怖に変わります」
その瞬間だった。
東郷の背後、壁際に控えていた橘小百合の指が、ほとんど音もなく動いた。
腰のあたり。軍服の布地の下。
そこに隠された小さな金属の輪郭へ、彼女の指先が滑る。
銃か。
あるいは、もっと小さく、もっと静かな何かか。
出淵大使は気づかなかった。
メロンも気づかなかった。
モルガンは、ただ不快そうに眉をひそめただけだった。
だがFDRは、見た。
車椅子に座った男の目が、一瞬だけ細くなる。
そして、東郷一成もまた見ていた。
彼は小百合の方を振り返らなかった。ただ、ほんのわずかに視線だけを横へ流した。
小百合の指が止まる。
次の瞬間、彼女は最初から何もしていなかったかのように、静かに両手を前で重ねた。壁に落ちた影までもが、元の形に戻った。
部屋の空気だけが、ほんの少し冷たくなった。
FDRは、今見たものについて何も言わなかった。東郷も言わなかった。
ただ、二人の間にだけ、言葉にならない了解が生まれていた。
ここは応接室である。
だが同時に、戦場でもある。
そして戦場では、新聞の見出しも拳銃の安全装置も、同じように人を殺す。
「……続けてください、知事」
東郷は、穏やかに言った。その声は、先ほどと何一つ変わっていなかった。
メロンとモルガンが、初めてFDRの言葉に真剣に耳を傾けた。
「もしこの見出しが出れば——自分が日本の軍人の融資条件のために、生糸の服を買わされていると知れば——あの群衆は翌朝、再び銀行の前に集まります。今度は感謝ではなく、怒りを持って。そして今度は、どんな現金のトランクも彼らを止められない」
部屋が静まり返った。
「逆取り付け騒ぎ、です」
FDRは静かに言った。
「少将、貴方の3億ドルは、炎を消すこともできるが、炎上させることもできる。その引き金は、一つの見出しです」
東郷は、しばらくFDRを見つめた。この男は本当に新聞を使うだろうか。
——使う。この目は、使う目だ。
だが、東郷は笑った。
「知事、貴方は私を脅しているのではない……違いますか?」
FDRの口元が、わずかに動いた。
「……続けてください」
「もし貴方が私を本当に追い詰めたいなら、ここに来る前に新聞社に電話していた。わざわざ私の前でその紙を見せるのは、別の目的があるからです」
東郷は、その紙をFDRに返した。
「条件を聞きましょう、知事」
⸻
FDRは書類を開いた。
「第一に。貴方がたの資金を、Bank of United States 単独ではなく、ニューヨーク州監督下の緊急流動性基金に移す」
メロンが驚いてFDRを見た。モルガンも同じだった。
それは、日本海軍の資金を「ニューヨーク州が管理する公的な基金」にロンダリングする提案だったからだ。
「結構です。我々は銀行家ではない」
東郷は即答した。
「ただし、出資者として申し上げます。追加出資の上限は設けないでいただきたい。緊急時に機動力を失うのは、預金者にとっても不利益です」
FDRは少し間を置いた。
「……承知しました。ただし追加出資の都度、州監督当局への事前通知を義務付ける」
東郷は頷いた。
「第二の条件は?」
「基金の存続期間を設ける。当初二年。以降は連邦準備制度・州政府・出資者の三者協議により延長を判断する」
東郷の表情が、初めてわずかに固くなった。
「……知事、それは呑めません」
「理由を」
「出資者として、期間を区切られた資金は『緊急融資』ではなく『時限爆弾』です」
東郷は静かに、しかしはっきりと言った。
「二年後に基金が消えると分かれば、ガーメント地区の業者は今から次の資金源を探し始める。それは預金者保護ではなく、預金者の不安を制度化することです」
FDRは黙っていた。
「日本帝国海軍が出資者として求めるのは、期間ではなく条件です」
東郷は続けた。
「基金の流動性が一定水準を上回り、かつ加盟銀行の支払能力が正常化した時点で、三者協議により縮小・終了を検討する。期間ではなく、状態で区切るべきです」
FDRは少し考え、頷いた。
「……受け入れます。ただし、縮小・終了の判断権は三者協議とし、出資者の単独判断では行わない」
「それは当然です」
東郷は即答した。
「我々が一方的に資金を引き揚げれば、それこそニューヨーク中の新聞見出しになる」
FDRの口元が、かすかに緩んだ。
「第三に、融資条件として、日本生糸購入やNCPC決済を強制しない」
「強制はしません。便利な条件を提示するだけです」
東郷は即答した。
FDRは笑わなかった。
「言葉遊びは好みません」
「私もです。だから正確に申し上げています」
東郷は、ティーカップを静かに置いた。
「アメリカの業者が日本の生糸を買いたいと言う。日本側が、NCPC決済なら価格を下げ、船腹や輸送を優先すると言う。銀行が、その取引は健全だと判断して融資する。——これは強制でしょうか?」
「貴方が銀行の融資方針に影響を持っている」
「大口預金者は誰でも持っています」
空気が硬くなった。
「もし貴国がそれを禁じるなら、アメリカの商人に、より魅力的な取引を選ぶ自由を禁じることになります」
東郷の声が、少しだけ低くなった。
モルガンが低く唸った。「詭弁だ」
「市場原理です」
東郷は即答した。その言葉に、FDRの口元がかすかに歪んだ。
「貴方がた日本人から市場原理を説かれる日が来るとは」
「私も、アメリカの銀行家が預金を拒みたがる場面を見るとは思いませんでした」
沈黙。出淵大使の胃が、静かに一つ死んだ。
いつもお読みいただきありがとうございます。後編に続きます。
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