不名誉の日(A date which will live in infamy)
時:1930年(昭和五年)、12月12日 夜
場所:ニューヨーク州オールバニ、州知事公邸
暖炉の火が爆ぜる音だけが、重苦しい書斎に響いていた。
ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、車椅子の背もたれに深く身を沈め、目の前に座る二人の男――財務長官アンドリュー・メロンと、JPモルガン商会のジャック・モルガンを、氷のような目で見据えていた。
州知事公邸には、上質なハバナ葉巻の香りと、静寂、そして国務省や財務省、FDRの情報網からのレポートだけがあった。
JPモルガン商会の総帥、ジョン・ピアポント・“ジャック”・モルガン・ジュニアは、暖炉の火を背に、銀のティーカップを優雅に傾けていた。
「ジャック。そしてメロン長官。わざわざワシントンとウォール街から、この雪のオールバニまでご足労いただいて感謝するよ。
……なぜ、君たちクリアリングハウス(手形交換所)の連中は、たった3,000万ドルのつなぎ融資を出さなかった?」
FDRの口調は静かだったが、その奥には沸騰するような怒りが渦巻いていた。
モルガン・ジュニアはティーカップをソーサーにコトリと置き、心底不思議そうな顔をした。
「……落ち着きたまえ、フランク。たかが『洋服屋』が店を畳んだくらいで、何をそんなに騒いでいるんだね?」
「洋、服、屋……だと?」
FDRは絶句した。預金者40万人、資産2億ドルを抱える巨大商業銀行を指して、この男は今、そう呼んだのだ。
モルガン・ジュニアは、ハバナ葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「合衆国銀行の経営陣(マーカス一族)は、元々ガーメント地区(服飾街)で成り上がったユダヤ系の移民だろう。1907年の恐慌の時、私の父(J.P.モルガン・シニア)がそうしたように、本当に重要な『我々の仲間』の銀行に火の粉が降りかかれば、私が動く。
だが、ブロンクスやブルックリンの移民たちがいくら泣き叫ぼうが、ウォール街の強固な岩盤は揺るがない。むしろ弱小銀行が淘汰されれば、後で我々が彼らの優良な顧客を安値で拾ってやれる。……これは、資本主義の健全な『自浄作用』だよ」
そこには自分たちの安全地帯は絶対に脅かされないという、狂気的なまでの特権階級の自信が滲んでいた。
「というわけで、知事。我々も暇ではない」
モルガンが、不快げに鼻を鳴らした。
「州内の銀行(合衆国銀行)の監督不行き届きは州政府の責任だ。それを我々ウォール街に救済しろと迫り、挙句の果てにジャップの資金流入を許したのは貴方たちの……」
「黙れ」
FDRの低く、凄みのある声が、モルガンの言葉を切り裂いた。
FDRは、手元の書類――合衆国銀行の融資先リスト――を、二人の顔に向かって放り投げた。
「貴方がたは、東郷一成が『なぜあの銀行を選んだのか』、その本当の理由にまだ気づいていないのか? ただユダヤ系だから? 預金者が多いから? ……馬鹿も休み休み言え」
FDRは、車椅子から身を乗り出した。
「あの銀行の最大の融資先は、洋服屋こと、マンハッタンの『ガーメント地区(服飾街)』だ。全米のアパレル・繊維産業を牛耳るユダヤ系移民たちの、資金の心臓部だ。
……彼らが服を作るために、最も大量に輸入している原材料は何だ?」
メロンが、ハッとして顔を上げた。
「……まさか」
「そう! その『まさか』だ!!」
FDRは机を叩いた。
「生糸だよ!! 日本の最大の輸出産業だ!!」
ジャック・モルガンの顔から、サァッと血の気が引いた。
「貴方がたは『預金だから影響力は限定的だ』などと高を括っているようだが、とんでもない。
東郷は3億ドルの超大口預金者として、銀行の融資方針に完全に首根っこを食い込ませた。明日から何が起きるか教えてやろう。
合衆国銀行は、大口預金者たる東郷の意向を受けて、キャッシュがスッカラカンなガーメント地区のユダヤ系業者に潤沢な融資を行う。ただし、その融資枠には条件がつく。
『日本の生糸を、NCPC債決済で大量に買い付けること』だ」
FDRは、絶望的な未来の図面を空中に描いてみせた。
「日本はもう、関税も、我々の資本規制も一切関係なく、アメリカの巨大なアパレル市場という『需要』を、根元から丸ごと買い取ってしまったのだ。
……さらに言えば、不況で暴落しているニューヨークの高級不動産(ユダヤ系業者の担保物件)の生殺与奪の権すら、間接的に東郷の手の中にある。実体経済の急所を、たった3億ドルで完全に握られたのだ!」
メロンは、呻き声を上げて頭を抱えた。
東郷が仕掛けた「実体経済の完全掌握」という、三次元のチェスに全く気づいていなかったのだ。
いや、気付いていたとしても、民間取引に介入する法的根拠がない。
「……だが、知事!」ジャック・モルガンが食い下がる。
「あの銀行の破綻は自業自得だ! そもそも『Bank of United States』などという名前自体が、移民を騙すための詐欺だ!
英語の読めない移民たちに『政府の銀行だ』と誤認させ、連邦法(1926年制定の名称制限法)の抜け穴を突いてのうのうと営業していた悪党だぞ! あんな銀行、救う義理はない!」
FDRは黙って聞いていた。
モルガンは勢いを得たように続けた。
「あれは銀行界の品位を汚した。信用とは、看板の大きさで作るものではない。歴史、資本、経営、人格で作るものだ。あの銀行は、名前で信用を盗み、分不相応に膨張した。我々が救済のテーブルに着く道理はない。
……彼らは不動産に過剰投資し、怪しげな証券子会社を作り、分を弁えずに規模だけを膨張させた。あれは銀行の皮を被ったポンジ・スキーム(詐欺)だ」
「なるほど」
FDRは静かに言った。
「では、君たちはこう言いたいわけだ。あの銀行は詐欺まがいだった。品位に欠けていた。だから救わなかった」
「その通りだ」
「では預金者は?その詐欺まがいの名前を信じた40万人の預金者は、どうなる」
モルガンの口が止まった。
「不幸なことだ。だが――」
「だが?」
FDRの声が一段低く、そして重くなった。
「彼らは英語が下手だった。彼らは移民だった。彼らは金融を知らなかった。彼らは君たちの『上品な銀行』の扉を叩いても、身なりや血筋を理由に相手にされなかった。だから、自分たちに微笑みかけてくれる、あの銀行へ行った」
暖炉の火が揺れた。
「君たちは彼らに言うのか。騙された方が悪い、と」
メロンが口を挟んだ。
「知事、国家はすべての愚かな判断を救済することはできない。それは市場の規律を破壊する」
「違う」
FDRは即座に切り捨てた。その眼光は財務長官を射抜いていた。
「国家が救うべきなのは愚かな判断ではない。社会が作った罠に落ちた人間だ」
モルガンは不快そうに顔を歪めた。
「罠とは言い過ぎだ」
「本当に?」
FDRは机上の新聞を手に取った。
「Bank of United States。合衆国銀行。民間銀行でありながら、国家の名を借りた銀行。政府の保証などないのに、政府の影をまとった銀行。君はそれを詐欺まがいだと言った。私もそう思う」
彼は新聞を置いた。
「ならば、それを1913年の設立から今まで、17年間も放置してきた銀行界と政府は何だ?」
沈黙。
痛いところを突かれたモルガンもメロンも、返す言葉がなかった。
「詐欺師だけを責めるのは簡単だ。だが、その詐欺師がなぜ繁盛したのかを見なければならない。移民がウォール街を信用できなかったからだ。君たちの銀行が彼らにとって、銀行ではなく、冷酷な裁判所のように見えたからだ」
FDRは少しだけ、自嘲的に笑った。
「そこで、あの東郷一成が出てくる。彼はこう言うだろう。名前が悪い? けっこう。経営が悪い? けっこう。だが預金者は悪くない。私が金を置きましょう、と」
モルガンの顔が硬くこわばった。
「それは偽善だ! 彼らが慈善事業で3億ドルも出すわけがない。その背後にある利権を狙っただけの……」
「もちろん偽善だ」
FDRはあっさり認めた。
「だが、偽善でも金庫は開く。君たちの高潔な軽蔑では、扉は閉じたままだった」
FDRは車椅子を軋ませ、二人から視線を外した。
そしてゆっくりと息を吸い込み、そして歴史に刻まれるであろうトーンで、二人のエリートを弾劾し始めた。
「……昨日、いや、12月11日。
あの日(合衆国銀行破綻騒ぎ)は、金融史において『不名誉の日(A date which will live in infamy)』として永遠に記憶されるでしょう」
モルガンの言葉を封殺する、圧倒的な声だった。
「アメリカ合衆国は、外国の攻撃を受けたのではありません。
自らの偏見と怠慢によって、突然、そして意図的に、自国民の信用を攻撃したのです!」
「ち、知事……それは言い過ぎでは……!」
メロンが反論しようとしたが、FDRの怒声がそれを叩き潰した。
「言い過ぎだと!?
ワシントンの大馬鹿者と、ウォール街の貴様らは何をした!
自国の巨大銀行をくだらない理由で見殺しにし、何十万もの市民を路頭に迷わせようとした。
そして、それを見かねた外国の海軍少将が合法的な救済を申し出ると、今度は彼を公然と『ジャップ』と呼びつけて罵倒したそうではないか。
……ここまで恥知らずで、卑劣極まりない行動を、私はアメリカの歴史において他に知らない!」
「ルーズベルト! 貴様、大統領の側近(財務長官)に向かって……!」
「事実を言ったまでだ、メロン長官!!」
FDRの咆哮が、メロンの抗議を完全に粉砕した。
「貴方がたのその下劣な選民思想と傲慢さが、我々の国土に『日本のトロイの木馬』を嬉々として引き入れたのだ!
アメリカを売ったのは東郷ではない! 貴方がた自身だ!!」
圧倒的な怒りの前に、アメリカの金融と財政のトップ二人は一言も言い返すことができず、ただ蒼白になって黙り込むしかなかった。
重苦しい沈黙が、書斎を支配した。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
やがてFDRは、フンと鼻を鳴らし、ひくつかせていた肩の力を抜いた。
「……それにしても」
FDRは、軽蔑しきった目でメロンとジャック・モルガンの顔を交互に見た。
「現在、我が国は誇り高き『禁酒法』の真っ最中だというのに。
……ワシントンとウォール街から来たお歴々は、人前で随分と上等なスコッチの匂いをさせているじゃないか」
二人の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
国民には「我慢しろ」「自助努力だ」と説教を垂れながら、自分たちは堂々と高級酒に酔いしれ、偏見で国を売る。
まるで、それが自らに認められた特権であるかのように。
「……ハリー」
「はい、知事」
壁際で息を殺していたハリー・ホプキンスが、静かに進み出た。
「モルガンは正しいことを言ったよ。一つのことだけはね」
FDRは、自嘲気味に笑った。
「『合衆国銀行の監督責任は、ニューヨーク州政府にある』。
……その通りだ。私は州知事として、自分の州の何十万人もの預金者が、日本の軍人の財布で命拾いしたことに対し、法的な責任を問われる立場にある。
ならば、知事として私がやるべきことは一つしかない」
FDRは、車椅子を真っ直ぐにホプキンスへ向けた。
「ワシントンへ行く。
日本大使館に乗り込み、あの化け物に直接会って、州知事としての責任を果たす」
「フランク! 正気ですか!」
ホプキンスが悲鳴を上げた。
「大統領選を控えた今、日本の海軍将校と密会などすれば、マスコミにどう書かれるか……!」
「マスコミなど知るか。
私は、自分が戦う相手の顔を、この目でしっかり見ておきたいのだ。
それに、あの男も私を待っているはずだ。私のこの訪問を、チェス盤の次の一手として計算しているだろうさ」
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