絹の首輪
時:1930年(昭和五年)、12月12日
場所:ニューヨーク・ブロンクス、合衆国銀行・サザン・ブールバード支店前
「カネを返せ!」「泥棒銀行!」
数万人の群衆が、固く閉ざされた銀行の鉄扉を叩き、今にも暴動が起きようとしていた。市警の警官隊も押し切られそうになっている。
その時群衆の後方から、けたたましいサイレンが鳴り響いた。
現れたのは、何台もの重装甲の輸送トラックだった。側面に漢字で『日本海軍』の文字がある。
トラックから降りてきたのは、完全武装した海軍陸戦隊員と、トランクを持った木梨鷹一大尉だった。
「道を開けろ! 新規の預金客だ!」
木梨が叫ぶ。
「馬鹿か! この銀行はもう潰れるんだぞ!」
群衆が怒鳴り返す中、木梨はトランクの一つを開けてみせた。
中には、目も眩むような真新しい100ドル札の束がぎっしりと詰まっていた。
「……なんだ、あの金は!?」
「日本海軍からの、新規預金だ! 総額3億ドル!
……これでもまだ、この銀行が潰れると思うか!?」
群衆の怒号が、水を打ったようにピタリと止んだ。
群衆に必要なのは、理屈ではない。金がある、という光景だった。
銀行の鉄扉が内側から開かれ、涙と脂汗にまみれた頭取が、木梨たちを救世主のように迎え入れた。
その日の午後、合衆国銀行は通常営業を再開した。
「日本が3億ドル預金した」というニュースは瞬く間に全米を駆け巡り、取り付け騒ぎは嘘のように沈静化した。
引き出そうとしていた人々は逆に、「ここが全米で一番安全な金庫だ」と思い直し、預金を戻し始めた。
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場所:ニューヨーク・マンハッタン、ガーメント・ディストリクト(衣料問屋街)を見下ろすカフェ
窓の外では、雪の舞う中を配送トラックや仕立て屋の職人たちが忙しく行き交っていた。
東郷一成は、運ばれてきた熱いコーヒーとベーグルを前に、満足げに新聞の号外を広げていた。
『奇跡! 合衆国銀行、東洋の巨額預金によりパニック沈静化!』
「……これで、クリスマス前に首を吊る銀行家と仕立て屋の数は、随分と減ったはずだ」
東郷は、コーヒーを啜りながら静かに言った。
対面に座る樋端久利雄大尉は、まだ動悸が収まらない様子だった。
彼らは今、ワシントンではなく、この「戦場」のど真ん中にいる。
「……少将。調べが尽きました。合衆国銀行(Bank of United States)の、主要融資先リストです」
「見せてみたまえ」
東郷は、コーヒーを啜りながらそのリストを受け取った。
「アメリカの連中は、『買収ではなくただの預金なら、経営に口を出されることもなく、影響力は限定的だ』とたかを括っているようですが……大間抜けですね」
樋端は、半開きの口元を歪めて冷笑した。
「超大口預金者というのは、銀行にとって『いつでも首を絞められる紐』を持っているのと同じです。『うちの言うことを聞かないなら、明日3億ドルを引き揚げるぞ』と一言囁けば、頭取は我々の靴でも舐めるでしょう。
……そして、彼らが我々の紐に繋がれたまま管理している担保と融資先のリストが、これです」
樋端が指し示したリスト。
そこには、マンハッタンの一等地――セントラルパーク周辺や五番街の高級アパートメント、商業ビルの不動産抵当権がずらりと並んでいた。
「合衆国銀行は1920年代のバブル期に、ニューヨークの不動産に多額の貸付を行っています。我々が貸し剥がしを命じれば、これらの超一等地は、競売を通じて二束三文で我々ダミー会社の手に落ちます」
「不動産も良いが、本命はそっちではないよ。樋端君」
東郷は、リストのもう一つの大きなセクターを指差した。
「……ガーメント・ディストリクト(衣料・繊維問屋街)の企業群ですね」
樋端が頷いた。
「合衆国銀行はユダヤ系移民が設立した銀行ゆえ、ウォール街のWASP(アングロサクソン白人)からは仲間外れにされていましたが、その代わり、同じユダヤ系が牛耳るニューヨークのアパレル産業、繊維卸売業者たちに強固な融資基盤を持っています」
東郷の目が、冷徹な光を放った。
「今、日本の最大の輸出産業は何だ?」
「『生糸(絹)』です」
樋端は即答した。
「そうだ。日本の農村(養蚕農家)を支えているのは、アメリカの女性たちが履く『シルクのストッキング』であり、高級ドレスの生地だ。
大恐慌でその生糸の値段が暴落し、今、東北や信州などの農村では娘が身売りされようとしている」
東郷は、デスクの上の地図を叩いた。
「我々が合衆国銀行の生殺与奪を握るということは、ニューヨークの巨大なアパレル産業の資金繰りを完全に支配するということだ。
我々は、合衆国銀行を通じてアパレル業者にこう『指導』する。
『フランス産やイタリア産ではなく、日本生糸を一定比率以上使う企業には、運転資金の金利を優遇する。日本生糸の長期購入契約を結んだ業者には、輸入決済をNCPC債で安く処理できる。人工絹糸への転換には融資審査上、設備更新リスクとして高い担保率を求める』……とな」
樋端は、息を呑んだ。
東郷は、銀行の帳簿の向こう側にある「実体経済の血管」――それも、日本の国家の命運(農村の生存)に直結する太い動脈を、この預金によって完全に押さえてしまったのだ。
「……彼らは気づいていないのですね。アメリカ・ニューヨークの衣料産業そのものが、日本の養蚕農家を食わせるための下請けに成り下がったことに」
樋端は、戦慄と共に言った。
「気づく頃には、絹の首輪がしっかりと締まっているさ」
東郷は、ベーグルを一口かじった。
「それに樋端君。我々は以前、サムライ・プットで『デュポン』の大株主にもなっていることを忘れてはいないか?」
「はっ! デュポン……例の、絹に似た強靭な合成繊維の研究を進めているという……!」
「そうだ」
東郷は微笑んだ。
「デュポンからは株主権限で新素材(後のナイロン)の研究情報が入っている。それを我々日本海軍で囲い込む。
『素晴らしい発明だ。だが、今すぐ市場に出すと我が国の生糸と競合する。特許は完全に固めた上で、しばらく極秘の軍事研究として秘匿したまえ。量産工場は日本に作ろう』とな。
同時に、アパレル業者には日本のシルクを買わせ続ける。
これで日本の生糸産業は時間稼ぎができる。その間に我々は農村を工業化し、次の段階へと進む。
……さて、食ったら帰るぞ、樋端君。
ニューヨークの冬は冷えるが、今日のコーヒーは悪くない味がする」
マンハッタンの空は、厚い雪雲に覆われていた。
だが、東洋から来たこの「最大の預金者」の足取りは、どこまでも軽やかだった。
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時:1930年(昭和五年)、12月
場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
その部屋には、大蔵大臣・高橋是清と、海軍大臣・岡田啓介の二人しかいなかった。
外は冷たい冬の雨が降っているが、机の上に置かれた一枚の書類が放つ熱量は、この国の屋台骨を焼き尽くすほどに高かった。
「……岡田君」
是清はいつもの好々爺の顔を消し、ダルマのような巨体を震わせて唸った。
「ワシントンの東郷から届いたという、この『合衆国銀行・預金運用および生糸輸出スキーム』……。これは、本気か?」
「ええ、現在進行形で実稼働しております」
岡田は、涼しい顔で答えた。
「アメリカのアパレル産業の中枢、ニューヨーク・ガーメント地区の資金繰りは、今や我々が買収……いえ、大口預金をした『合衆国銀行』が完全に握りました。
彼らには、『日本の生糸を、我々の指定する価格(高値)で優先的に買い続けること。さもなくば融資を引き揚げる』という“強力な指導”を行っております」
是清は、額に脂汗を滲ませた。
東郷がニューヨークの問屋街の首根っこを掴んだことで、日本の生糸は「人為的に守られた高値」で売れ続けている。
「……そしてその代金決済には、ドルではなく『NCPC債』を使わせるのだったな」
「左様です。アパレル業者がNCPC債を買うため、ドルが合衆国銀行の我々の口座に雪崩れ込んできます」
岡田は、机の上に別の書類を置いた。
「その結果、生糸輸出と為替のサヤ抜き、そして預金の利ざやを合わせ……現在、我々の口座には年間で『推定7,000万ドル(約1億4,000万円)』のキャッシュフローが発生する見込みです」
1億4,000万円。
平時の海軍歳出の相当部分に匹敵する額が、「生糸を売る手数料」だけで転がり込んでくる計算だ。
「……それで? 君たち海軍はその莫大なドルを使って、アメリカの軍艦でも買うつもりか?」
是清の問いに、岡田は静かに首を横に振った。
「いいえ。我々は、そのドルを『担保』にします」
「担保?」
「はい」岡田の目が、冷徹な光を放った。
「その7,000万ドルを正貨準備の裏付け、つまり『在外正貨(金準備と同等)』として、日本銀行に『円』の信用を創造していただきたい。
……日銀がそのドルを裏付けに発行する『円』で、我々は日本国債を買います」
是清は、息を呑んだ。
「……レバレッジをかける気か」
当時の国際決済のルール、金本位制のシステムを逆手にとった、錬金術。
ドル(金と交換できる正貨)があるなら、その数倍の「円」を刷っても、制度上はインフレにならない(正貨準備率が保たれる)。
「我々は無理なレバレッジは求めません。手堅く、3倍運用で結構です」
岡田は、事も無げに言った。
「年間7,000万ドル。円換算で1.4億円。その3倍……『年間4億2,000万円』。
……我々日本海軍が、毎年その額の日本国債を買い支えましょう」
ドスン、と。
是清の巨体が、椅子に崩れ落ちた。
年間4億円強の国債引き受け。
それは当時の日本政府が発行する国債の、ほぼ全額を「海軍単独で吸収できる」ことを意味していた。
「……岡田君」
是清の声は、かすれていた。
「君たちは、自分が何を言っているのか分かっているのか。
国債市場を制圧するということは、国家の財布の紐を、大蔵省から海軍に奪い取るということだぞ」
もし大蔵省が海軍の予算を削ろうとすれば、海軍は「では国債を買うのをやめます」と言えばいい。その瞬間、政府は資金ショートを起こして倒れる。
もし政友会が反対すれば、「地方の農村救済債を買うのをやめます」と言えば、地方の農民は票を政友会に入れないだろう。
これは、軍事クーデターではない。
「財政主権に対する、完全なる合法的寄生」だ。
「……売国、とは言えんな」
是清は、天井を仰ぎ見て自嘲した。
「金本位制のルールを完璧に守り、正貨準備を厚くして、国家財政を支えている。……誰がどう見ても、君たちは最高の愛国者だ」
是清は、キセルに火をつけた。紫煙が、重苦しい空気を漂う。
「これは井上君あたりが発狂しそうな劇薬だ。……だが、今の日本には劇薬が必要な時もある」
是清は、鋭い目で岡田を睨みつけた。
「だが、丸投げは憲政の常道が許さん。
やるなら、横浜正金銀行と指定信託を間に噛ませろ。名義は大蔵省だ。
さらに、買い入れる国債は『農村救済債』『港湾・鉄道建設債』『造船関連債』に限定する。軍艦を作る赤字国債は直接買うな」
表向きは「大蔵省による統制」。
だが実態は「海軍の金融エンジンの公認」である。
「結構です」
岡田は、全く抵抗せずに深く頭を下げた。
「名義は大蔵省で構いません。……信用は、海軍がご用意しますので」
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