相手は、フロート付きです
時:1935年(昭和十年)
場所:瀬戸内海・柱島泊地沖
波穏やかな海面の上に、見たこともない形状の機体が飛んでいた。
『試製・川西九五式高速水偵』
史実のこの時期、日本海軍が採用していた「九四式水上偵察機」は布張りの複葉機であり、最高速度は時速240キロ程度だった。
だが目の前を飛ぶ機体は、完全に時代を先取りしていた。
銀色に輝く全金属製の胴体。
ロレーヌ・エンジンの細さを活かした、鋭く尖った機首。
空気の乱れを抑えるためにシュミュードが徹底的に計算した、翼の付け根の美しいフィレット(整流カバー)。
そして何より居並ぶ海軍将校たちの目を引いたのは、機体と、グラマンが設計した巨大な「中央フロート」を繋ぐ部分の異様さだった。
従来の水上機にあるような、何本もの細い支柱や張り線は存在しない。代わりに、胴体下部からフロートへと滑らかに繋がる、巨大で流線型の「一つの太い塔」が生えており、その正面にはぽっかりと大きな口――ラジエーター・インテークが開いていた。
「……本当に、これが水上機なのか?」
視察に訪れた山本五十六少将は、その流麗かつ力強いシルエットに息を呑んだ。
「ええ。ですが、見掛け倒しではありませんよ」
横に立つ川西龍三が、自信満々に頷いた。
パイロットは海面スレスレで強引に機体を引き起こし、そのまま着水態勢に入った。
その時だった。
それまで丸みを帯びた翼端フェアリングの一部にしか見えなかったものが、左右の翼端からゆっくりと剥がれるように動き出した。
細い支柱が伸び、楕円形の小さな浮舟が主翼の下へと降りていく。
「……翼端が、割れた?」
山本五十六は、思わず双眼鏡を握り直した。
違う。
翼端が割れたのではない。
飛行中は翼の一部として空気を整えていた補助フロートが、着水のために水上機の足へ戻ったのだ。
「補助フロートが……翼になっていたのか」
だが少し速度が速すぎる。波のうねりも高い。
見守る提督たちが「危ない!」と息を呑んだ。
機体の巨大なフロートが、海面に激しく叩きつけられた。凄まじい水柱が上がる。
普通のフロートなら支柱が折れるか、底に穴が開いて沈没する衝撃だ。
だが、白波の中から現れた機体は何事もなかったかのように、軽快に海面を滑走してきた。
「……無傷だ」
山本五十六は、双眼鏡を下ろして呻いた。
「あれだけの衝撃を受けて、フロートと胴体を繋ぐあの太いダクト支柱が歪んでいない。
……グラマンの設計したあの『鉄下駄』。恐るべき頑丈さだ」
「ええ。アメリカのタフな骨格と、オーストリアの天才的な空力が、完璧に噛み合いました」
川西龍三が、誇らしげに言った。
一方で基地に戻った機体を囲み、整備兵たちが歓声を上げていた。
「すげえ! どこも壊れてねえぞ!」
「おい、ここの外板を見てみろ!」
整備班長が、フロートの底を指差した。
着水の衝撃でわずかに凹んだ部分があったが、グラマンの設計はここからが本領発揮だった。
「ネジを数本外せば、このパネル一枚がそのままパカッと外れるようになってる!
これなら万が一穴が開いても、アルミの板をリベットでツギハギするだけで、すぐにまた飛べるぞ!」
史実の日本機は「芸術品」のように美しく作られていたため、一箇所壊れると全体をバラして修理しなければならず、前線での稼働率を著しく落としていた。
だがグラマンが持ち込んだのは、アメリカの「トラック修理」の思想である。
『壊れたら、そこだけ切って新しい鉄板をリベットで打ち付けろ。飛べればいいんだ』
現場の整備兵たちにとって、これほどありがたく、頼もしい設計はなかった。
機から降りたパイロットは、興奮冷めやらぬ顔で山本五十六に報告した。
「閣下。この機体を我が軍の水上機搭載可能な艦艇全てに配備すべきです。
これがあれば、連合艦隊は完璧な索敵を行えます!」
山本は、満足げに頷いた。
「ああ。東郷君が買ってきた『ガレージの職人』と『はぐれ者の天才』が、見事な化学反応を起こしてくれた。
……アメリカの海軍さんは、今頃どんな素晴らしい飛行機を造っているのだろうな」
⸻
時:1930年代後半
場所:ニューヨーク州ロングアイランド・シティ、ブリュースター・エアロノーティカル社工場
「……どういうことだ。今月納品されるはずの『F2Aバッファロー』30機が、なぜ5機しか完成していない!」
海軍航空局から派遣された監査官の将校は、工場の薄暗い事務室で、額の青筋を立てて怒鳴り散らしていた。
目の前に座るブリュースター社の経営幹部は、高級な葉巻をくゆらせながら、どこか馬鹿にしたような薄笑いを浮かべていた。
「大佐。我々も一生懸命やっているのですよ。ですがね、部品が届かないんです。それに、現場の労働者たちが賃上げを要求して、昨日からまたストライキに入りましてね」
「ストライキだと!? 今月に入ってこれで三度目だぞ!」
大佐は机を叩いた。
「それに、なんだあの工場の惨状は!
作業員はタバコを吸いながらリベットを打ち、床にはアルミの端材が散乱している。完成したはずの5機も、主脚の油圧系統からオイルが漏れている始末だ!」
「いやあ、新興企業には初期トラブルがつきものですから。我々は『純粋なアメリカ資本』だけで頑張っているんです。成金な日本人のカネで最新の機械を買える連中とは違うのですよ」
幹部は、わざとらしく両手を広げてみせた。
「それに大佐、契約書をご確認ください。労務争議による遅延は不可抗力に準じる、とあります。もちろん我々は誠心誠意努力しておりますが、愛国的企業にも限界というものがある。『愛国的な純アメリカ企業』を海軍が不当にいじめていると議会に泣きつけば……予算がどうなるか、お分かりでしょう?」
監査官は、ギリリと奥歯を噛み締めた。
これが、アメリカ海軍が「政治的清潔さ」を優先して選んだメーカーの正体だった。
事務机の上には新しい旋盤の見積書ではなく、役員賞与の承認書が置かれていた。
さらに最悪なことに、工場の労働組合の背後には、ニューヨーク港湾の顔役たちがちらついていた。経営陣と結託して海軍からの予算を搾り取るための「計画的ストライキ」を繰り返していたのだ。
「……すぐに改善しろ。さもなくば契約を打ち切るぞ」
大佐が絞り出すように言うと、幹部はニヤリと笑った。
「打ち切って、どうするんです?
我が社以外に、海軍の要求する単葉艦載機を量産できる『クリーンな会社』が、この国にありますか?」
大佐は、言葉を失った。
ない。
ボーイングは陸軍向け大型爆撃機の開発で手一杯。カーチスは旧式設計から抜け出せていない。ベルは1935年設立の新興企業で、海軍の要求(潮風への耐食性や空母での運用)を満たす機体を作る余裕もノウハウもない。
本来なら、競争相手がいた。 グラマンがいれば、ブリュースターは遅れれば契約を失った。機体が重くなれば比較試験で叩かれた。脚が漏油すれば、別の脚が採用された。
「……そういうことです、大佐。お互い、愛国者として仲良くやりましょうや」
⸻
時:1937年(昭和十二年)、夏
場所:太平洋・ミッドウェー島沖合、演習海域上空
高度三千メートル。
太平洋の青い空と海の間を、アメリカ海軍の最新鋭艦上戦闘機『F2A バッファロー』の編隊が、重々しいエンジン音を響かせてパトロール飛行を行っていた。
「……ブルー・リーダーよりベース。空域に異常なし」
編隊長のジョンソン大尉は、重い操縦桿を握りながら無線のマイクに吹き込んだ。
だが、通信機からはノイズと混じって、議会が要求した「最新型大出力無線機」の冷却ファンの音がビービーと五月蠅く鳴り響いている。
(クソ重い樽め……)
ジョンソンは内心で毒づいた。
このF2Aは、カタログスペック上は「最新鋭の単葉・引き込み脚戦闘機」だ。
だがその実態は、政治家と海軍省の要求を詰め込んだ「空飛ぶ樽」だった。
『日本の超人兵士からパイロットを守れ』という議会の圧力で追加された分厚い防弾鋼板。
『通信能力の強化』を謳う巨大な無線機。
『海上での不時着に備えよ』と詰め込まれた大型の自動膨張式救命ボート。
極めつけは、ブリュースター社の杜撰な工作精度による隙間だらけの外板と、油漏れを起こす引き込み脚のギアボックス。
それらを短い胴体に無理やり詰め込んだ結果、機体重量は当初の設計を遥かにオーバーし、エンジンの馬力は完全に相殺されていた。
「大尉、機体の振動が酷いです。スピードが出ません」
列機の若いパイロットが泣き言を言ってくる。
「我慢しろ。時速220マイル(約352km/h)出せれば御の字だ」
その時だった。
雲の切れ間から、一機の国籍不明機が姿を現した。
「……アンノウン(国籍不明機)発見! 時計の二時方向、距離四千! 高度二千メートル!」
ジョンソンは目を凝らした。
その機体のシルエットに、彼は思わず首を傾げた。
「……なんだあれは。機体の下に、巨大なフロートがぶら下がってるぞ? 水上機か?」
間違いない。巨大な中央フロートを履き、フロートの支柱に、奇妙な吸気口がある。
だがその機体のフォルムは、水上機という鈍重なイメージからはかけ離れていた。
細く鋭く尖った機首。
空気の乱れを極限まで抑えるように設計された、美しい楕円形の主翼。
胴体とフロートを繋ぐ太い支柱すら、空気抵抗を削ぎ落とした見事なフェアリングで成型されている。
「……あれが、噂に聞くジャップの新型水偵か」
ジョンソンは、ニヤリと笑った。
相手は偵察機。しかも、空気抵抗の塊であるフロート付きだ。
いくらスマートな形をしていても、こちらの最新鋭「戦闘機」から逃げ切れるはずがない。
「全機、スロットル全開! 奴のケツを取れ! 演習空域から追い払え!」
ジョンソンは操縦桿を倒し、F2Aを加速させた。
だが。
「……な、なんだと!?」
ジョンソンの目が、信じられないものを見るように見開かれた。
F2Aのエンジンが悲鳴を上げ、機体がガタガタと振動を始める中、前方を飛ぶ日本の水上偵察機(川西九五式高速水偵)との距離が、全く縮まらないのだ。
いや、縮まらないどころか、ジリジリと離されていく。
「大尉! 追いつけません! 奴の速度、時速230マイル(約370km/h)を超えています!」
「馬鹿な! フロート付きの水上機だぞ!? 我々の戦闘機より速いわけがないだろうが!」
物理法則が狂っているとしか思えなかった。
ジョンソンは知らない。
あの水上機の機首に積まれているのが、東郷の資本で延命・買収されたフランス・ロレーヌ社の大馬力の水冷V12エンジンであり、その機体を設計したのが天才、エドガー・シュミュードであることを。
シュミュードの「ラジエーターダクトと、フロートの支柱を一体化した空力設計」の前に、F2Aの「過積載で太った胴体」の空気抵抗は、あまりにも絶望的だった。
「……なら、高度の優位を使う! 降下して一気に距離を詰めるぞ!」
ジョンソンは操縦桿を前に倒し、急降下による加速で距離を詰めようとした。
だが、これも最悪の選択だった。
速度が上がるにつれ、F2Aの機体全体が激しい振動に包まれた。ブリュースター社の雑なリベット打ちと、隙間だらけの脚収納部が空気を巻き込み、機体をバラバラにしようとする。
「ひぃっ! 大尉、機体が空中分解します!」
「引き起こせ! これ以上は無理だ!」
ジョンソンが歯を食いしばって機体を水平に戻した時、前方の日本機もまた、彼らを嘲笑うかのように機体を翻し、急降下に入った。
日本の水上機は、巨大なフロートをぶら下げたまま、恐ろしいほどの急角度で、矢のように降下していく。
機体は全くブレない。翼がたわむ様子もない。
「……あんな無茶な急降下をしたら、フロートの支柱が折れるぞ!?」
ジョンソンは目を見開いたが、その期待は裏切られた。
あの機体とフロートの構造を担当したのは、アメリカのガレージから追放された「鉄工所の親父」、リロイ・グラマンである。
「壊れない鉄下駄」を履いたその水上機は、急降下のGをものともせず、圧倒的な速度で海面すれすれまで降下すると、そのまま一直線に水平線の彼方へと消え去っていった。
追撃を諦めたジョンソン大尉は、無線のマイクを握りしめ、魂の抜けた声で報告した。
「……ブルー・リーダーよりベース。アンノウンを見失った。逃げられました。相手は、フロート付きです」
アメリカ海軍は、自らの手で猫を追い出した。
その代わりに、星条旗を巻いたよく食い、よく眠り、肝心な時になかなか前に進まない水牛を工場の真ん中へ据えたのである。
次は東郷の話に戻ります。
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