清潔な水牛
少し未来の話へ。
時:1932年(昭和七年)、冬
場所:ワシントンD.C. 海軍省・航空局
その日、アメリカ海軍航空局の会議室には、重苦しい、いやどこか「諦め」に近い空気が漂っていた。
次期主力艦上戦闘機――いや、正確には「次期単葉艦戦研究機」の選定会議。
机の上には、ブリュースター・エアロノーティカル社が提出した図面と、分厚いカタログが置かれている。
ずんぐりむっくりとした胴体。短い機首。
のちに『F2A バッファロー』と呼ばれることになるその機体案は、お世辞にもスマートとは言えなかった。
「……で、これしかないのか?」
航空局長モフェット提督が、こめかみを揉みながら言った。
「はい」
部下の調達将校が、力なく答える。
「ボーイングやカーチスの機体は、まだ固定脚の複葉機から抜け出せていません。単葉で、引き込み脚を採用し、空母の狭いエレベーターに収まる見込みが最も高いのは、ブリュースター社のこの案だけです」
書類の上では、確かに新時代の艦上戦闘機だった。
「……グラマンはどうした?」
モフェットは、かつて自分が期待をかけていたガレージメーカーの名を口にした。
その瞬間、同席していた国務省と財務省の監査官が、ピシャリと口を挟んだ。
「提督。グラマン社は『不適格』です」
監査官は、赤いスタンプが押された書類を突きつけた。
「彼らは『日本海軍・川西航空機』から多額の資金援助を受け、特許のクロスライセンスを結んでいます。彼らの工場には日本の技術者が入り浸り、資金の出所はあの忌まわしい『NCPC債』です。
……あんな『日本資本に汚染された売国企業』に、我が国の誇る次期戦闘機を作らせるおつもりですか?」
「だが、彼らの設計した引き込み脚のメカニズムは芸術的だぞ! ブリュースターの複雑なギアとは堅牢さが違う!」
「性能の問題ではありません。クリーンさの問題です。私も馬鹿ではありません。グラマンの機構が優れていることくらい、報告書を読めば分かります。ですが、議会で説明できない機体は、海軍の空母に載る前に予算委員会で撃墜されます」
監査官は冷徹に言い放った。
モフェットは言葉を失った。
傍らで聞いていたマーク・ミッチャー中佐は、手元のブリュースター社のカタログをパラパラとめくり、乾いた笑いを漏らした。
「……なるほど。このブリュースターの機体は、確かに素晴らしい戦闘機ですね」
ミッチャーは、カタログの文字を読み上げた。
「『日本資本の介入一切なし』『100パーセント純粋なアメリカ企業』『ワシントンの政治家との良好な関係』……。
凄いですね提督。カタログに空戦性能よりも『政治的な清潔さ』の方が大きく書かれている」
監査官がムッとして睨むが、ミッチャーは止まらなかった。
「それに、このずんぐりした胴体を見てください。
議会が要求する『防弾鋼板』『防弾タンク』『救命ボート』『大型無線機』……全部詰め込めますよ。
……飛ぶかどうかは別として、ね」
「ミッチャー君!」
モフェットがたしなめるが、ミッチャーはペンを机に投げ出した。
「提督。グラマンという『比較対象』が消えたせいで、ブリュースターは殿様商売です。
要求スペックに届いていなくても、『ウチから買わないと、純アメリカ製の単葉戦闘機はないですよ?』と足元を見てきている。
……我々は『最高の戦闘機』を選んでいるんじゃない。言い訳しやすい戦闘機を選ばされているんだ」
だが、選択肢はなかった。
「純アメリカ製」というプロパガンダを背負わされたこの機体は、大々的に制式採用された。
数年後、ニューヨーク州ロングアイランドシティにあるブリュースターの工場には、
「BUY AMERICAN」の横断幕が星条旗と共に掲げられ、愛国的なニュース映画がその「樽」のような機体を誇らしげに映し出していた。
カメラは、短い機首と膨らんだ胴体を正面からは映さなかった。斜め前から、陽光を浴びる星章と、忙しくリベットを打つ工員たちだけを切り取った。
ナレーターは朗々と告げた。
「これは、アメリカの空を守る、純粋なアメリカ製の翼であります」
だがそのフィルムには、映っていないものがあった。
比較試験で落とされるはずだった欠点。
過積載になれば鈍くなる胴体。
整備兵を悩ませる脚まわり。
そして、ロングアイランドの別のガレージから消えた、もう一匹の猫を。
⸻
時:1932年(昭和七年)、春
場所:兵庫県・鳴尾、川西航空機・第零スタジオ(シュミュード特設研究室)
新設されたばかりの巨大な低速風洞実験室に、ブロワー(送風機)の重低音が響き渡っていた。
ガラス越しの測定室で、エドガー・シュミュードは腕を組み、木製の風洞模型の周囲を流れる白煙の筋を睨みつけていた。
隣に立つ川西の日本人技師長が、誇らしげに言う。
「どうです、シュミュードさん。フランスのロレーヌ水冷エンジンを包み込む、この流麗な機首。空気抵抗は極限まで抑えられています。ラジエーターの吸気口も、機体下面にぴったりと這わせて、無駄なでっぱりを無くしました」
それは史実の「晴嵐」や「彗星」にも通じる、日本の設計者が好む「見た目の美しさ」を優先した配置だった。
だが、シュミュードは無言で首を横に振った。
「……ダメだ。この口は、『死んだ空気』を食っている」
「死んだ空気、ですか?」
「そうだ。境界層だよ」
シュミュードは、ガラスをトントンと叩いた。白煙の動きを指差す。
「機体の表面を舐めるように流れてきた空気は、摩擦で速度が落ちている。おまけにここは、プロペラの後流と主翼の付け根の乱流がぶつかる最悪の場所だ。
こんな胴体にベッタリ張り付いた口で空気を吸っても、ラジエーターの奥まで風は抜けん。結果、エンジンは冷えず、オーバーヒートする」
「……ならば、吸気口をもっと大きく開けますか?」
「それをやれば空気抵抗が激増し、せっかくの液冷エンジンの意味がなくなる。最悪のループだ」
シュミュードは風洞を止めさせ、自ら模型の前に立つと、機体下面の吸気口パーツをむしり取った。
そして、パテと木片で新しい形状を作り始めた。
「まず、吸気口を胴体から数センチ離す。これで遅い境界層の空気を避けて、速くて新鮮な空気を食わせる。
次に入口は小さくし、内部のダクトで空間を広げる。流速を落として圧力を高め、ラジエーターのコア全体に均等に当てる。
そして最後は、出口に可変フラップをつける。暖められて膨張した空気を、適切な細さで後方へ吐き出せば……ただの抵抗ではなく、機体を後ろから押す力になる」
後の技術者たちが“メレディス効果”と呼ぶ考え方に近い発想だった。
技師たちは息を呑んだ。
ラジエーターをただの「冷却器」ではなく、「熱を利用した空力機械」として再定義する設計思想。
だが、技師長が難点を口にした。
「……理論は素晴らしい。ですがシュミュードさん、これは水上機です。胴体の下には、あの巨大な中央フロートの支柱がある。ダクトを離して配置すれば、支柱と干渉して空気が無茶苦茶になりますよ」
シュミュードは、ニヤリと笑った。
「だから、別々に考えるから邪魔になるんだ。
『一体化』させる。ラジエーターダクトと、フロートの支柱をな」
シュミュードがパテで作り上げた形状は、異様だが、圧倒的な機能美を備えていた。
中央フロートの巨大な前支柱、その胴体側の根元全体が太いフェアリングとなっており、そのフェアリング内部には、ラジエーターとオイルクーラーへ空気を導く太いダクトが収まっている。
支柱自体が乱れた空気を切り裂き、綺麗な空気をインテークへと導く「整流板」の役割を果たしているのだ。
「これなら、フロートが持つ空気抵抗のデメリットを、ラジエーターの推力化でかなり取り返せる。
……グラマンの技術者が作ってくれた頑丈なアルミ構造材がある。中を空洞にしてダクトにしても、波の衝撃には十分耐えられるはずだ」
シュミュードは、模型を撫でた。
「……川西社長が用意してくれたこの風洞がなければ、思いつかなかった。
さあ、もう一度風を当ててみよう。……この機体は、化けるぞ」
⸻
時:1934年(昭和九年)、春
場所:兵庫県・川西航空機、鳴尾工場
その日の川西航空機の工場は、奇妙な熱気と金属音に包まれていた。
工場の一角を占める「第零スタジオ」では、二人の外国人が通訳を半ば置き去りにした激しい議論を交わしていた。
「……だから言っているだろう、エドガー! ここの外板をあと1ミリ薄くすれば、着水時の波の衝撃で確実にひしゃげる! 海面というものは、時速100キロでぶつかればコンクリートと同じ硬さなんだぞ!」
油まみれの作業着を着たリロイ・グラマンが、設計図の「フロート(浮舟)」の断面図を太い指でガンガンと叩いた。
彼がアメリカの小さなガレージで、アルミのトラックボディを叩き出して培った「実用的な構造強度」への執念だった。
対するエドガー・シュミュードは、仕立ての良いスーツのまま、美しい流線型の胴体模型を撫でながら反論する。
「分かっている、リロイ。だが、君の言う通りの分厚い装甲板のようなアルミを張れば、機体重量が目標をオーバーする!
前面投影面積を極限まで絞り、V12エンジンの空力を活かすには、余分な『贅肉』は1グラムでも削ぎ落とさねばならないのだ!」
剛健さを求めるグラマン(鉄工所)と、極限の空力を求めるシュミュード(芸術家)。
二つの全く異なる設計思想が、日本の工場で激しくぶつかり合っていた。
「……社長。あの二人、今日もやってますね」
技術部長の竹崎が、苦笑しながら川西龍三社長に囁いた。
「構わんよ。あれこそが、我々が喉から手が出るほど欲しかった『摩擦』だ」
川西龍三は、満足げに二人を見つめた。
「中島や三菱の連中は、少しでも速く飛ぶために機体の強度を限界まで削っている。だが、あの二人は違う。『絶対に壊れないこと』と『最高に速いこと』を、妥協せずに両立させようとしている。
……彼らが納得するまで、何度でも試作させろ」
⸻
時:数年後
場所:南洋委任統治領・マーシャル諸島、南洋庁航空気象観測所
赤道直下の容赦ない太陽が、サンゴ礁の海を白く輝かせていた。
ここは、少なくとも国際連盟への年次報告書の上では、軍事施設ではない。民生航空施設である。
ただし、桟橋の長さは軍用水上機の接岸にちょうどよく、燃料庫の容量は郵便機だけにはいささか大きく、無線室の暗号帳は、南洋庁の役人が持つには少しばかり立派すぎた。
気温は35度、湿度は90%を超えている。人間でさえ息をするのが苦しいこの環境は、航空機の液冷エンジンにとって「地獄」そのものだった。
だが南洋庁航空班の整備員たちは、談笑しながら作業をしていた。
もっともその手際と工具箱の整理の仕方は、どう見ても海軍工廠仕込みだった。
「……おい、水温はどうだ?」
「規定値内です、班長。パッキンからの液漏れもなし。絶好調ですよ」
整備兵が点検しているのは、川西が開発した新型高速水上偵察機――『川西九五式高速水偵』だ。
ロレーヌ社の大馬力水冷エンジンを積みながら、巨大なフロートを履いている。
「信じられねえな」班長が汗を拭う。
「昔のエンジンなら、この気温で全開運転なんてしたら、5分で冷却水が沸いて焼き付いちまう。
だがこいつは、帰ってくるまで水温計の針がピタリと安定してるんだからな」
そこに、飛行服を着た南洋庁航空巡察員のパイロットが降りてきた。
ただし、腰つきと敬礼の角度だけはどう見ても海軍流だった。
彼は機体の腹をポンと叩いて笑った。
「最高だぜ、班長。
今日、演習で艦隊の直掩機と模擬空戦をやったが、全開でダイブして、そのまま水平で逃げ切ってやった。普通の機体ならエンジンを労ってスロットルを絞るところを、こいつは『踏みっぱなし』で逃げられる。
……この安心感は、何物にも代えがたいよ」
パイロットにとって、「いつでも全力を出せる」という信頼感は、カタログスペックの最高速度よりも遥かに重要だ。
「よし、次の哨戒に出るぞ。燃料と観測用消耗品を多めにな。今日は空が少し騒がしい」
「了解。今日も晴れ時々七ミリですね」
南洋の過酷な環境下で、日本の水上機部隊は、驚異的な稼働率を維持していた。
それは精神論の賜物ではない。風洞実験という「科学」が生み出した、冷却効率の勝利だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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