エドガー・シュミュード
時:1931年(昭和六年)、2月
場所:ブラジル・サンパウロ、ゼネラルモーターズ(GM)現地工場
南半球の強い日差しが照りつける工場の中庭で、一人の男が、荷物をまとめたトランクに腰掛けて溜息をついていた。
エドガー・シュミュード。31歳。
欧州大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国軍の航空整備士として従軍し、戦後のハイパーインフレから逃れるために、このブラジルに渡ってきた才能あふれるエンジニアだ。独学で工学を極め、すでにエンジン部品の特許をいくつも取得している。
「……また、失業か」
シュミュードは、工場から外されていく『GM』の看板を恨めしそうに見上げた。
数ヶ月前、ブラジルで起きた内戦(1930年革命)は、日本海軍の資金援助を受けた正規軍によってあっけなく鎮圧された。
だが、その後のブラジル経済は一変した。
日本海軍の「NCPC債」とドイツ(クルップ社)の資本が濁流のように流れ込み、これまでブラジル人の影の反発の対象となってきたアメリカ資本の企業は、次々とブラジル政府の「非友好的な税務調査」や、労働組合のストライキに遭い、事業の撤退を余儀なくされていた。
彼が勤めていたGMのブラジル航空部門も、例外ではなかった。
「……仕方ない。予定通り、アメリカへ渡るか」
彼は懐から、アメリカ合衆国の移民ビザ申請書を取り出した。
GMのニュージャージー州にある子会社、ゼネラル・アビエーション(フォッカー・アメリカ)への転籍が決まっていたのだ。航空機設計の最前線で、自分の設計思想――空気抵抗の極限までの削減――を試すことができる。彼にとって、アメリカは「夢の国」のはずだった。
だが、その日の午後。
サンパウロのアメリカ領事館の窓口で、彼は絶望的な宣告を受けることになる。
「却下だ」
窓口の領事館員は、シュミュードの書類を冷たく突き返した。
「な、なぜですか!? 私はGMからの雇用証明書も持っているし、犯罪歴も……!」
「君の能力の問題じゃない。政治の問題だ」
領事館員は、忌々しげに窓の外――日本製の自転車やドイツ製のトラックが走る街並み――を指差した。
「ワシントンは激怒している。ブラジル政府が日本の軍門に下り、我々アメリカの資産を不当に弾圧していることにな。
報復措置として、本日付で『ブラジルからの移民および就労ビザの発給を大幅に制限する』との大統領令が出た。
……君の国籍はオーストリアだが、ブラジル居住者である以上、例外は認められん」
当時のアメリカの移民法(クオータ制)は極めて厳格であり、それに「経済的報復」が重なれば、一介の技術者がその壁を越えることは不可能だった。
シュミュードは、言葉を失った。
アメリカの閉鎖的な移民政策は知っていた。だが、まさか日本とアメリカの経済戦争の巻き添えを食って、自分の夢が絶たれるとは。
「……待ってください! 私の航空機設計の特許を……!」
「NEXT!」
無情にも窓口は閉じられた。
シュミュードは領事館の石段にへたり込んだ。
ドイツやオーストリアに帰る金はない。帰っても、不況で仕事はない。
アメリカへの扉は閉ざされた。
彼の天才的な頭脳は、この南米の赤土の上で朽ち果てるしかなかった。
「……お困りのようですな、エドガー・シュミュード博士」
シュミュードは顔を上げる。
「……誰だ、あなたは」
「川西飛行機会社、社長の川西龍三です。
もっと正確に言えば、貴方がアメリカへ行けなくなった理由の、半分ほどを作ってしまった側の人間です」
「つまり、私を失業させた連中か」
「はい。ですから、責任を取って雇いに参りました」
川西は、隣のカフェのテラス席を指し示した。
「一杯、ご馳走させていただけませんか。ブラジルのコーヒーは、貴方もご存知の通り、とても質が良いのですよ」
⸻
「日本、だと?」
シュミュードは、出されたコーヒーには手をつけず、警戒心を露わにした。
「極東の島国で、紙と竹の飛行機でも作れと言うのか。私は近代的な全金属機の空力設計をやりたいんだ。悪いが、他を当たってくれ」
「ミスター・シュミュード。貴方に差し上げられるものは、給料だけではありません」
川西は、鞄から一枚の図面を取り出した。
そこには、巨大なコンクリート造りの建屋と、円筒形の風洞設備が描かれていた。
「兵庫県鳴尾。我が川西航空機の新しい試験施設です。最近、我々の会社は株価が右肩上がりで資金調達も順調でしてね。海軍の補助金もあり、世界最大級の低速風洞と、縮尺模型用の高速風洞を建てます」
シュミュードの目が、わずかに動いた。
「風洞……?」
「ええ。貴方が頭の中で見ている空気の流れを、実際に測る場所です」
川西は、静かに続けた。
「アメリカへ行けば、貴方は大企業の一設計者でしょう。優秀な上司の下で、決められた部品を担当することになるかもしれない。……だが、我が社へ来れば違う」
川西は、机の上に三枚の資料を並べた。
『ロレーヌ液冷V12エンジン』
『グラマン式退避(引き込み)脚・薄物アルミ構造』
『川西全金属製・単葉構造』
「この三つを使って、貴方に航空機を設計していただきたい」
シュミュードは、資料から目を離せなかった。
フランスの傑作エンジン、アメリカの実用機構、そしてそれを支える日本の資金。
これは、一人の航空機設計者にとって「最高の絵の具」が全て揃ったパレットだった。
「水上機ですか」
「最初は、そうです」
川西は笑った。
「だが、私は知っています。水上機として速いものは、脚を与えれば、もっと速い陸上戦闘機になる」
史実において川西航空機は「紫電改」という傑作局地戦闘機を生み出すが、それは水上戦闘機「強風」を陸上機に再設計したものだった。
「……私の空力設計は、妥協を知りませんよ」
シュミュードは、コーヒーカップを手に取った。
「ラジエーターの配置一つとっても……。製造工程で現場から悲鳴が上がるような、複雑な曲面を要求するかもしれない」
「構いません」
川西は、自信に満ちた声で答えた。
「現場の職人には、私が直接雷を落とします。それに、我が社にはすでにフランス(ロレーヌ)からの技術指導が入っている。貴方の要求に応えられるだけの『土台』は出来つつあります」
シュミュードは、コーヒーを一気に飲み干した。
「……分かりました、ミスター・カワニシ。
アメリカの門番は私の価値を理解できなかったようだが。東洋の侍たちは、私の『翼』の値段を払えるようですね。
……行きましょう、日本へ」
1931年。
後にアメリカの空の救世主となるはずだった一人の天才が、合衆国政府の閉鎖的な移民政策と、東郷一成の資金網のあおりを受けて、日本という「極東の鳥籠」へ翼を預けることになる。
⸻
時:1931年(昭和六年)、秋
場所:兵庫県・鳴尾、川西航空機製作所・応接室
その日の応接室の空気は、不穏な静けさに包まれていた。
社長・川西龍三の前に並ぶのは、東京帝国大学工学部を卒業した、川西が誇るエリート技師たちである。
彼らの矛先は、通訳を交えて分厚い空力計算の書類を広げている、31歳の若きオーストリア系エンジニア、エドガー・シュミュードに向いていた。
「……社長。お言葉ですが」
帝大卒の技師長が、氷のような声で口を開いた。
「このシュミュード氏の『ラジエーターの胴体下部配置による推力化』といったアイデアは、確かに斬新です。ですが、計算の実績がない。
第一、彼はどこの大学を出ているのですか? ドイツの工科大学? MIT?」
通訳がシュミュードに尋ねると、彼は肩をすくめて答えた。
「……大学には行っていません。私は独学と、小さなエンジン工場での徒弟修業で技術を身につけました」
「大学を出ていない!?」
技師たちの間に、侮蔑の混じったざわめきが広がった。
大学も出ていない、ブラジルで車のエンジンを弄っていただけの三十そこそこの若造に、我々帝大の誇りにかけて、指揮されることなどできません、と言いたげだった。
部屋の空気が完全に凍りついた。
日本の大企業特有の「学歴と年功序列の壁(帝大病)」が、天才の行く手を塞ごうとしていた。
その時。
部屋の隅のソファで、出されたサイダーを大人しく飲んでいた少女が、コトリとグラスを置いた。
東郷一成の養女、幸。11歳。
「お客様」のはずだった彼女が、おずおずと小さな手を挙げた。
「……あのう、おじさま方」
幸の声は少し震えていて、いかにも庇護欲をそそる弱々しい響きがあった。
「あ、あたし、難しいことは分からないんですけど……。
シュミュードさんって、川西さんの『社員』になるんですか?」
技師長が、怪訝な顔で子供を振り返る。
「ええ、お嬢さん。そういう話で社長が……」
「でも、それってもったいないですよね?」
幸は大きな瞳を潤ませながら、小首を傾げた。
「だって、帝大を出たこんなに立派な頭脳を持つおじさまたちが、どこの馬の骨とも分からない人の『部下』になっちゃうなんて……。
それって、なんだか……『飼い主』と『お馬さん』が逆みたい」
「……お馬さん、ですか?」川西社長が苦笑する。
「はいっ」幸は、一生懸命に身振り手振りを交えて語り始めた。
「シュミュードさんは、きっと足の速い『お馬さん(天才)』なんです。でも、お馬さんは自分で走るコースも決められないし、ご飯も作れませんよね?
だから、おじさまたちみたいな賢い人たちが『馬主』になってあげるのがいいんじゃないかって、思ったんです」
「馬主……?」
「はい! お父様がよく言っていました。『才能は買い取るものじゃなく、投資するものだ』って」
幸は技師長の元へトコトコと歩み寄り、その袖をちょこんと引いた。
「シュミュードさんは『特任の顧問』とかにして、別の部屋で自由に絵を描かせればいいんです。
で、彼が『こんな部品が欲しい』って言ってきたら、おじさまたちが『しょうがないなぁ、俺たちの完璧な数式で、お前のヘタクソな計算の尻拭いをしてやるよ』って、最高の部品を作ってあげるの。
……そうしたら、世界一の飛行機ができた時、みんなはこう言うはずです。
『あのじゃじゃ馬を乗りこなして、名機に育て上げた川西の帝大技師たちは、世界一だ!』って」
幸は、天使のような笑顔でとどめを刺した。
「……帝大の誇りって、徒弟上がりを笑うことじゃなくて、その人の勘を、ちゃんと数式にしてあげられることじゃないですか?」
部屋が、しんと静まり返った。
技師長は目を見開き、そして……ゴクリと喉を鳴らした。
(……スポンサー。俺たちが、あいつのパトロンになってやる……)
その言葉の響きは、エリートのプライドを満たすものだった。
自分たちは部下になるのではない。「庇護者」であり「指導者」として、あの無教養な天才の尻を拭いてやる、広大な度量を見せるのだ、と。
「……社長」
技師長は、咳払いをして姿勢を正した。
「このお嬢さんの言うことにも、一理ありますな。
彼を社員にするのではなく、独立した『特設研究室』の顧問として遇しましょう。
そして我々基礎設計部門は、彼のアイデアを『我が社の技術力で実現可能にしてやる』……協力関係という形をとりましょう」
川西龍三は、目の前の11歳の少女を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
この子は今、大人たちの、それも一癖も二癖もある帝大技師たちのプライドと組織の壁を、ただの「おままごとのような例え話」で、たった数分で崩してしまったのだ。
「……分かった。技師長がそういうなら、それでいこう」
川西は、額の汗を拭った。
「シュミュード博士には、敷地内に専用の『第零スタジオ』と風洞を用意する。彼はそこで自由に絵を描け。
……そして技師長、お前たちはその絵を、世界最高の飛行機に仕上げてくれ」
打ち合わせが丸く収まり、大人たちが和やかに握手を交わしている中。
幸は再びソファに戻り、残っていたサイダーをストローでちゅーっと吸っていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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