黄色い餌と猫
その日の夜、リロイ・グラマンは小さなガレージの事務室で、共同創業者のジェイク・スウィルブル、ウィリアム・シュウェンドラーと共に、薬局から流れてきた五ドルの“医療用アルコール”を、ウイスキーの顔で回し飲みしていた。
「……ロイ。お前、本当にあの日本のオファーを受ける気か?」
ジェイクが、酒の匂う息で顔をしかめた。
「俺たちはアメリカ海軍の飛行機を造るために、ローニング社を飛び出したんだぜ。それが、太平洋の向こうの……東洋の国の下請けになるってのか?」
「分かってる。悔しいさ」
グラマンは、製図板の上に広げられた「引き込み式フロート」の図面を、愛おしげになぞった。
「だがジェイク、現実を見ろ。……俺たちの口座には、来月の家賃もない。
海軍のモフェット提督は『必ず何とかするから待ってくれ』と言ってくれた。だがワシントンは今、完全に機能不全に陥っている」
グラマンは、窓の外の暗い空を指差した。
「国庫には金がない。俺たちの特許がどんなに素晴らしかろうと、金がなければ形にならない。
……そして形にできない技術は、ガラクタと同じだ」
シュウェンドラーが、重い口を開いた。
「……もし日本のオファーを受けたら、俺たちの特許はどうなる?」
「向こうは『共同開発』と言っていた。日本での独占使用権を渡す代わりに、アメリカ国内での権利は我々に残る……はずだ。明日の朝、弁護士を交えてその防衛線だけは死守する」
グラマンの目に、エンジニアとしての執念の炎が燃え上がった。
「いいか、お前たち。日本人が欲しがっているのは『結果』だ。
彼らの資金を使って、俺たちの手でこのフロートを、そして引き込み脚を完成させる。実験の費用は全部あっち持ちだ。
俺たちはそのデータを使って、数年後……ワシントンがまた飛行機に金を払える日が来た時に、完成品の『戦闘機』として海軍に逆提案するんだ。
……これは、グラマン社が生き残るための時間稼ぎだ」
生き残るため。
その言葉に、ジェイクもシュウェンドラーも黙り込んだ。
倒産して散り散りになれば、自分たちの技術は永遠に失われる。ならば、日本の金を使ってでも「グラマン」の看板を守り、技術を磨き続けるしかない。
「……分かったよ、ロイ」
ジェイクが、残りの酒をあおった。
「悪魔とだって契約してやる。……アメリカ海軍が『やっぱりお前たちの技術が必要だ』って頭を下げてくる日までな」
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時:数日後
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦本部
作戦部情報課の主任参謀、レイモンド・スプルーアンス大佐は、提出されたONI(海軍情報局)のレポートを読み、静かに天を仰いだ。
『ニューヨーク州の零細企業・グラマン航空機エンジニアリング社が、日本の川西航空機(背後に日本海軍)と技術提携および共同開発契約を締結』
「……またか」
スプルーアンスは、深く疲労に満ちた溜息をついた。
「またカズ(東郷)が、我々の足元から、ダイヤの原石を拾っていったか」
対面に座るONIの将校は、鼻で笑った。
「大佐。何をそんなに深刻になっているのですか?
グラマン? 聞いたこともないガレージ企業ですよ。作っているのも、せいぜい水上機の浮舟や、アルミのトラックの荷台でしょう」
ONI将校は、レポートを指で弾いた。
「日本の連中は、相変わらず無駄金を使っている。
あんな吹けば飛ぶような零細企業に10万ドルも投資して、大層な『引き込み脚』とやらを開発させるそうですが……。
海軍の正式なコンペティションにも参加できない三流メーカーの技術など、我々の脅威にはなり得ませんよ」
スプルーアンスは、その慢心しきった情報将校を氷のような視線で射抜いた。
「馬鹿者。技術というのは図面ではない。『経験』だ。
グラマンが日本の資金で、日本の要求に合わせて試作機を作り、日本のパイロットのフィードバックを受けて改良を重ねる。
その数年間の『経験(トライ&エラー)』は、全て日本の航空産業に蓄積されるのだ。
いざ我々が『さあ、その技術を使わせろ』と言ったところで……我々には、それをすぐに形にできる職人も、生産ラインもないのだ」
ONI将校の顔面は、次第に蒼白となっていった。
スプルーアンスは、自らの手帳にこう書き記した。
『日本の資金力が、我が国の航空技術開発のイニシアチブを掌握しつつある。
このままでは、我々は“自国の技術”で作られた敵機に、撃ち落とされることになるだろう』
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時:1931年(昭和六年)、1月
場所:ワシントンD.C. 海軍省・建造修理局(BuC&R)/兵器局(BuOrd)合同会議室
その日の合同会議は、重苦しい焦燥感に支配されていた。
作戦部長のウィリアム・プラット提督は、机の上に広げられた新造駆逐艦の設計図を前に、感情の抜け落ちたような声を上げていた。
「ファラガット型の整備は、いったん棚上げだ」
プラットは設計図を指で叩いた。
「1,500トンを何隻並べても、日本の特型に撃ち負ける。こちらは数を揃える金がない。ならば、少数でも火力で勝つ艦を造るしかない」
大恐慌による歴史的な税収減。東郷一成のNCPC債による資本流出。
海軍予算は議会によって無惨に削り取られ、「質より量」で勝負するだけの金は、もはやアメリカのどこにもなかった。
「……提督。ですが、予算が……」
設計主任が、泣きそうな顔で訴える。
「予算が少ないなら、少数精鋭でいくしかない。
『1,850トン級・嚮導駆逐艦』に生産を統一することで、特型を力でねじ伏せるのだ。
……ポーター型。これに新開発の5インチ(127ミリ)砲を、連装4基・計8門積め」
6門の日本に対し、8門のアメリカ。
プラットは、艦隊決戦における「火力(砲門数)の絶対優位」にすがっていた。
だが、兵器局(BuOrd)の技師長が青ざめた顔で手を挙げた。
「提督、無理です!
1,850トンの細い船体に、巨大な5インチ連装砲塔を4基も載せれば、完全にトップヘビーになります! 船が転覆します!」
「ならば軽くしろ。装甲を削れ」
「駆逐艦の装甲はすでに紙切れ同然です! これ以上削るなら……砲塔そのものを軽くするしかありません。
……対空射撃用の高仰角メカニズムを、諦めていただくしか……」
次世代標準砲として期待される5インチ38口径砲。
これを対空射撃にも使える「両用砲」として連装砲塔に組み込むには、巨大な俯仰角ギアと揚弾筒が必要であり、重量が跳ね上がる。
「……仰角を下げれば、重量は収まるのか?」
プラットが問う。
「はい。対水上専用として、最大仰角を35度に制限すれば、機構を簡略化でき、なんとか1,850トンに収まります。
……ですが提督! それでは、高角砲としては使い物になりません。接近する敵機には手も足も出なくなりますよ!」
プラットは、歯を食いしばった。
彼の脳裏に、議会で予算を削られ、国民から「日本のスープより役立たず」と嘲笑われた屈辱が蘇る。
「……構わん」
プラットは、震えが混じった声で決断した。
「対空戦闘は、現在開発中の1.1インチ機銃シカゴ・ピアノに任せろ。
我々の仮想敵は、日本の『特型駆逐艦』だ。奴らと殴り合い、絶対に撃ち勝てる火力が何よりも必要なのだ。
……仰角35度でいい。8門の砲を積め!」
その瞬間、ポーター型の運命は決まった。
水上戦では獰猛な牙を持ちながら、空を見上げる首を失った駆逐艦。
アメリカ海軍の焦燥が生んだ、鋼鉄の片目であった。
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場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
ロンドン海軍軍縮会議の最終調印から数ヶ月。
会議室から戻った海軍作戦部長ウィリアム・プラット大将のデスクには、ONI(海軍情報局)から届いた分厚い報告書が、まるで毒薬の瓶のように置かれていた。
その報告書には、日本海軍がロンドン会議後に着手した、恐るべき建艦計画の断片が記されている。
『特型駆逐艦、量産体制へ移行。1,700トン級の大型船体に、強力な12.7cm連装砲3基を搭載。
……さらに情報によれば、日本はこれら駆逐艦の主砲を「ボフォース製両用砲(対空・対艦)」へと換装する研究を進めている模様』
「……ボフォースの両用砲だと?」
同席していた兵器局の代表将校が、呻くように言った。
「日本の特型は、水上戦でも我が国の平甲板型駆逐艦を圧倒する上に、強力な防空能力まで持たせるつもりか」
そこへ、ONI局長がさらに最悪のニュースを持ってきた。
「……提督。憂慮すべき事態です」
局長は、一枚の隠し撮り写真を提示した。
ニューヨーク州、ロングアイランドの町工場。
その前で、日本人将校(木梨大尉)と、アメリカ人の技術者――リロイ・グラマンが、握手を交わしている写真だ。
プラットは、写真をひったくった。
「グラマン……。たしか、モフェット提督(航空局長)が目をかけていた、あの若きエンジニアのガレージ企業か!」
「はい! ですが、航空局の予算が大幅に削られたため、試作機の発注が先送りになっていました。彼らは資金繰りに窮し、そこに……」
その言葉に、最も激しく反応したのは航空局長のモフェット提督だった。
「グラマンだと!? ば、馬鹿な!
あそこは私が目をかけていた優秀なエンジニア(リロイ・グラマン)が立ち上げた会社だぞ!ローニングで海軍機を知り尽くしてきた。育てれば、将来の艦載機メーカーになる。
だが先日、彼らの『引き込み脚付きフロート』の試作契約を、予算局が打ち切ったばかりじゃないか!」
「日本海軍のダミー会社からの、大型出資です」
ONI局長が、冷徹に告げた。
「表向きは『日本向けのアルミ製トラックボディの製造』および『民生用飛行艇の技術交流』ですが、日本の川西航空機との間で、退避式着陸装置の設計権利、試験データ、技術者交流に関する覚書が交わされた模様です……」
作戦部長室の空気が一瞬にして凍りつき、そして沸点に達した。部屋の隅で誰かが、小さく「黄色い金か」と吐き捨てた。
バンッ!!!
プラットが、拳で机を叩き割らんばかりに殴った。
「日本は我々の軍艦を買い、工場を買い、今度は我々の航空技術まで盗む気か!
あのグラマンという男、アメリカ海軍を裏切り、日本の金に魂を売ったのだな! 奴らは『対日協力企業』だ。海軍の機密を任せるわけにはいかん!」
モフェット提督が、慌てて取り成そうとした。
「お、お待ちください、提督! グラマンはまだ海軍の正式契約企業ではありません。彼らの技術は優秀です。そもそも我々が試作契約を出せなかったから、彼らは資金繰りに窮して日本の資金を受け入れたのです。
今からでも我々が予算を回せば……!」
「黙れ、モフェット!」
プラットの目は怒りというより、追い詰められた男の憎悪に染まっていた。
「貧乏は裏切りの免罪符にはならん!
日本の金を受け取った時点で、あの工場には日本の目と耳が入ったと見なすべきだ。そんな場所に、我が海軍航空の未来を預けられるか!」
沈黙。言った瞬間、プラット自身がその言葉の薄さを悟った。
だが、撤回はできなかった。
ここでグラマンを責めなければ、責めるべき相手は議会であり、財務省であり、そして何より、航空局の小さな試作費まで削って駆逐艦に回した自分たち自身になる。
やがてプラットは言った。
「公式に排除すれば、議会と新聞に嗅ぎつけられる。『海軍が契約を出さなかった零細企業を、日本資本に接近したという理由で潰した』などと書かれれば面倒だ」
ONI局長が頷いた。
「では」
「非公式の適性評価に落とせ」
プラットは静かに言った。
「今後、グラマンから提出される案は、すべて審査継続。追加資料要求。安全保障上の懸念あり。理由は何でもよい。だが、主契約には上げるな」
モフェットが、絶望的な顔でプラットを見た。
「提督。それは、彼らを日本側へ押しやるだけです」
「分かっている。だが、今のワシントンで、日本資本と結んだ企業を海軍機の主契約者にすることはできん」
それは、今のワシントンで最も安上がりな解決だった。
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