ガレージの猫
時:1930年(昭和五年)、11月
場所:フランス・パリ郊外、ロレーヌ社アルジャントゥイユ工場
ドイツ・ボーデン湖畔での不快な「ハニートラップ未遂事件」によってドルニエ社との交渉を打ち切った川西航空機社長・川西龍三は、失意と焦燥を抱えたままフランスへと渡っていた。
日本海軍の出資によって川西の傘下に入った、名門ロレーヌ・ディートリッヒ社の工場。
そこで稼働する最新鋭の工作機械群と、組み上げられていく水冷V型12気筒エンジンの姿は、確かに技術者たちの魂を震わせるものだった。
「……美しい」
川西に随行していた技術部長の竹崎は、テストベンチで唸りを上げるエンジンの細身のシルエットを見て感嘆した。
「中島や三菱が作っている空冷星型エンジンは、どうしても正面から見ると『ずんぐりむっくり』になります。だがこの水冷V型は、先端が尖っていて空気抵抗が極めて少ない。社長、これならものすごく速い戦闘機が作れますよ!」
だが、川西龍三の顔は晴れなかった。
「……ダメだ、竹崎君。ドルニエの飛行艇技術を逃したのは痛すぎた。
我々は海軍から『太平洋の波に耐える航空機と飛行艇』を要求されているのだ。せっかくエンジンを細くして空気抵抗を減らしても……」
川西は、製図板の上に自社の航空機のスケッチを描いた。
「機体の下に、こんな巨大な固定脚やフロート支柱がぶら下がったままでは、それが空気の壁にぶつかって、エンジンの馬力を全部食いつぶしてしまう。
時速400キロの壁は、どうしても越えられん」
竹崎も黙り込んだ。当時の航空機の常識として、脚は機体に固定され、剥き出しのまま空を飛ぶのが当たり前だった。
「……ならば社長。いっそのこと、飛んだ後に『脚を機体の中に隠してしまう』というのはどうでしょう?」
「引き込み脚か。言うのは簡単だがね」
川西は苦く笑った。
「ヨーロッパでも研究はされているが、油圧や手回しのギアが複雑すぎて重くなる上に、着陸の衝撃でポキリと折れてしまう。今の我々の技術じゃ夢物語だ」
強力なエンジン(心臓)はある。だが、それを活かすための空力設計(肉体)が足りない。
川西たちは解決の糸口を見出せないまま、アメリカ経由で帰国するための客船へと乗り込んだ。
⸻
時:数日後
場所:大西洋上、北ドイツ・ロイド社・超大型客船『ブレーメン』
大西洋の荒波を、5万トンを超える巨体が時速28ノット近い猛スピードで切り裂いていた。
前年にブルーリボン賞を奪取した、ドイツ復興の象徴たる客船『ブレーメン』。その最上級スイートの空気は、外の荒天を微塵も感じさせないほど優雅だった。
革張りのソファに深く腰を沈めた東郷一成少将は、ドイツ産のアイスヴァイン(極甘口ワイン)を傾けながら、分厚いバインダーのページをパラパラと捲っていた。そこにはリストアップされた飛行艇関連の特許が並んでいる。
川西龍三はコニャックのグラスを傾けながら、同乗していた東郷一成に愚痴をこぼしていた。
「……というわけなのです、東郷閣下。
せっかくロレーヌの心臓を手に入れたのに、それを活かす『引き込み脚』と『頑丈なフロート』の技術がない。ドルニエの全金属製飛行艇の技術を逃したのが、ここにきて響いています」
東郷は柔らかな波の揺れを感じながら、静かにページをめくった。
「気に病むことはありませんよ、川西社長。あのままドイツの連中に乗っていれば、後々どれほど法外なライセンス料をむしり取られていたか分かりません」
だが、川西にしてみれば何の成果もなくして日本に帰れない。
「……せめて、どうしても『引き込み脚』の技術が要るのです。車輪を機体やフロートの中に完全に格納し、露出抵抗を限界まで削る機構が。
ですが我が社の技術陣が設計したリンク機構は、重すぎるか、着地の衝撃で折れるか。閣下、ヨーロッパが駄目なら、アメリカでどこか、引き込み脚の優れた特許を持っている会社はありませんか!?」
東郷はワインを呷り、樋端大尉に視線を向けた。
「……どうだ、樋端。川西社長の御要望に合う『お買い物』はあるか?」
「ええ。探しておきましたよ」
樋端はいつも通り半開きの口のまま、無造作に一枚のファイルを川西の前に置いた。
『グラマン航空機エンジニアリング社(Grumman Aircraft Engineering Corporation)』
「グラマン……? 聞いたことのないメーカーですね。ボーイングやカーチスではなく?」
「去年の12月にできたばかりの、従業員20名足らずのガレージ企業です」
樋端は、パラパラと資料をめくった。
「ですが、ここの代表であるリロイ・グラマンという男は、ローニング社時代に『退避式(引き込み)着陸装置付き両用浮舟』の実用特許を出願しています。その機構は時計のように精密でありながら、農機具のように頑丈だとか」
川西は身を乗り出した。「それを買いましょう! 今すぐ!」
「慌てないでください、社長」
東郷が、静かに制した。
「私達が彼らに目をつけた理由は、もう一つあるのです。……彼らが今、どうやって会社を存続させているか、知っていますか?」
「はあ? 飛行機屋なら、飛行機の部品でも作っているのでは?」
「『アルミのトラックボディ』を作っているのですよ」
東郷は、一枚の写真を提示した。
アメリカの田舎町で、ジュラルミン製の軽量トラック荷台を叩き出している男たちの写真だ。
「彼らは大恐慌で航空機の注文がなく、生き残るために、アルミ加工の何でも屋をやっている。
……川西社長。貴社は今、我が海軍の要請で、ロレーヌエンジンを積んだ『ジュラルミン製・高速魚雷艇』の試作を請け負っていますね?」
「ハッ。ですが木造船と違って、海面で跳ねる衝撃に耐えうる薄くて強靭なアルミ船体のリベット打ちや溶接に、現場がひどく難儀しておりまして……」
「だから、彼ら(グラマン)が必要なのです」
東郷の目が、冷徹な捕食者の光を帯びた。
「引き込み脚の航空機技術。
そして薄物アルミを加工し、波の衝撃にも耐えうる強靭な構造体(トラックボディ・浮舟)を叩き出す、泥臭い現場のノウハウ。
……川西社長。貴社が中島に勝つための『足』と、海軍の哨戒網を作るための『船』。その二つのパズルのピースが、アメリカのガレージに落ちているのですよ」
川西龍三は、ゴクリと息を呑んだ。
「……買いましょう。いや、買うだけでは足りない。その男たちごと、我々の飛行機作りに巻き込みましょう」
⸻
時:1930年(昭和五年)、12月
場所:ニューヨーク州ロングアイランド、ボールドウィン。ある廃ガレージ
そこは、かつて自動車のショールームだった薄暗いガレージだった。
床には油の染みがこびりつき、アルミの削りカスが散乱している。蒸し暑い建屋の中で、十数人の男たちが汗だくになりながら、金属のパーツをハンマーで叩き、溶接の火花を散らしていた。
「……ロイ! ようやく海軍省から返事が来たぞ!」
ジェイク・スウィルブルが、手に持った電報を振りかざしながら、製図板に向かっていた男――リロイ・R・グラマンに駆け寄った。
グラマンは、ローニング航空機会社の元エンジニアたちと共に、昨年末にこの小さな会社「グラマン航空機エンジニアリング」を立ち上げたばかりだった。
「どうだった? 例の『退避式着陸装置付きの浮舟』の試作契約は」
グラマンは、期待に目を輝かせた。彼らが総力を挙げて設計した、水上機にも陸上機にもなる画期的なシステムだ。これさえ海軍に採用されれば、ただの「修理屋」から「航空機メーカー」へとステップアップできる。
だが、ジェイクの顔は暗かった。
「……『予算不足につき、当面の間、新規の試作契約は見合わせる』だとさ」
グラマンは、製図用の鉛筆をポロリと落とした。
「馬鹿な……。あんなに評価してくれていたじゃないか。モフェット提督も『これからの空母艦載機には引き込み脚が不可欠だ』と言っていたはずだぞ」
「提督の意向じゃない。作戦部と財務省の意向だ」
ジェイクは、電報を丸めて床に叩きつけた。
「『日本海軍が新型の巡洋艦や駆逐艦を大量に造っている時に、実績のない零細企業のおもちゃ(浮舟)に回す予算はない。海軍の予算は全て既存の大型機の調達と、主力艦の維持に回す』……だとよ」
ガレージに、重苦しい沈黙が落ちた。
社員はわずか20名足らず。資本金も底をつきかけている。現在は中古の水上機のフロート修理や、アルミを曲げて作るトラックの荷台の製造といった「副業」で、なんとか日銭を稼いで食いつないでいる状態だ。
頼みの綱だった海軍からの「本業」の契約が飛んだ。それは、この小さなガレージ企業にとって死刑宣告に等しかった。
「……仕方がない」
グラマンは、深く息を吐き出した。
「みんなに伝えてくれ。……来週から、トラックのボディ作りのシフトを増やす。給料は遅れるかもしれないが、なんとか食いつなぐしかない」
その時だった。
開け放たれたガレージのシャッターの前に、一台の黒塗りの高級車が止まった。
降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着た二人の東洋人だった。一人は年配の実業家風、もう一人は異様に目つきの鋭い、まだ若い男だった。
「……ここは、グラマン航空機エンジニアリング社で間違いありませんか?」
若い男――木梨鷹一大尉――が、流暢な英語で尋ねた。
「ええ、そうですが」
グラマンが怪訝な顔で答えると、年配の男がにこやかに手を差し出した。
「お初にお目にかかります。私は日本の『川西航空機』の社長、川西龍三です。こちらは、我々の……スポンサーの代理人です」
川西航空機。
水上機や飛行艇を作っている日本のメーカーだということは、グラマンも知っていた。だが、なぜその極東の会社が、こんなニューヨークの片田舎のガレージに?
「単刀直入に申し上げます、ミスター・グラマン」
川西が、アタッシュケースから一枚の設計図面――グラマンが海軍に提出し、ボツにされたはずの「引き込み脚付き浮舟」の図面――を取り出した。
「我々は、貴方のこの設計思想に大変感銘を受けました。我が国は島国であり、優秀な水上機や艦載機の開発が急務です。……この技術、我々と『共同開発』していただけませんか」
グラマンとジェイクは顔を見合わせた。
「共同開発……? しかし我々は、ご覧の通りの小さな町工場です。海軍の契約も……」
「取れなかったのでしょう?」
木梨は、同情するように言った。
「アメリカ海軍には、今余裕がない。ですが、我々にはあります」
木梨は、アタッシュケースを開けた。中には、BIS(国際決済銀行)の保証印が押された小切手が、厚い封筒に収められていた。
「研究開発費として、即金で10万ドル。
さらに、貴方がたの特許(引き込み脚)の日本国内における独占実施権の対価として、川西航空機から継続的なロイヤリティをお支払いします」
10万ドル。
それは、グラマン社の資本金(約7万ドル)を軽く上回る巨額だった。
「我々の資金で、カーティス・フィールドに新しい工場を建てていただきたい。そして、その技術を日本の『高速航空機』と『ジュラルミン魚雷艇』の設計に活かしてほしいのです」
グラマンは、目の前に積まれた巨額の資金と、共同創業者のジェイクの顔を交互に見た。
資金繰りは火の車。この金があれば、会社は間違いなく生き残れる。
だがグラマンの胸の奥には、航空機設計者としての譲れない誇りがあった。
「……魅力的なご提案に感謝します、ミスター」
グラマンは、言葉を選びながら慎重に答えた。
「ですが、我々はアメリカの企業です。
海軍航空局のモフェット提督も我々の設計に強い関心を示してくれている。もし我々が今、外国の、それも日本資本と深く結びつけば、海軍がどう思うか……」
彼らは「アメリカ海軍の戦闘機」を造りたかったのだ。その夢があるからこそ、このボロガレージで油まみれになって耐えてきた。
だがこのままトラックの荷台作りを続けても、大家は待ってくれない。銀行の追加融資は、FRBの利上げで完全に道が塞がれた。
そして、ワシントンの海軍省から届いた冷たい不採用通知。
「……一晩、考えさせてください」
グラマンは、低い声で言った。
木梨は頷いた。
東郷からは「無理強いはするな」とだけ命じられていたからだ。
二人の日本人が去った後、ガレージにはしばらくエンジンの冷える音だけが残った。
グラマンは、床に落ちた海軍省からの電報を拾い上げた。
「……明日の朝、弁護士を呼ぶ」
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