純粋な経済活動
時:1930年(昭和五年)、秋
場所:パリ、コンコルド広場。フランス海軍省
豪奢なシャンデリアが下がる海軍大臣室の空気は、怒りと呆れが飽和し、今にも爆発しそうだった。
「フランス海軍の父」と称され、大戦で疲弊した艦隊の再建に心血を注いできたジョルジュ・レーグ海軍大臣は、デスクの上に叩きつけられた報告書を睨みつけ、深い溜息をついた。
「……信じられん。我が国の外務省と財務省には、精神病院から抜け出してきた狂人しかいないのか?」
傍らに立つ海軍参謀総長ジョルジュ・デュラン・ヴィエル提督も、苦虫を百匹噛み潰したような顔で同意した。
「狂人以下です、大臣。彼らは『東洋の成金から中欧の覇権をタダでかすめ取る』などと息巻いてモナコにペーパーカンパニー(Gesco)を作り、見事に自爆しました。
……あろうことか、日本の海軍が我々フランスの政治家や官僚の、裏金リストを握る事態になっています」
NCPC債は、日本海軍の軍事機密という分厚い壁に守られている。各国の税務署や警察が『元の持ち主を教えろ』と要求してきても、日本海軍は『軍事機密につき回答不能』で突っぱねることができる。
レーグの背筋に、冷たいものが走った。
ドルやポンドをトランクに詰めて運べば、かさばるし足がつく。銀行送金なら履歴が残る。
だがNCPC債なら、紙切れ数枚をポケットに入れるだけで、何万ドルもの価値を、誰にも知られずに国境を越えて移動させることができる。
「彼らはキックバックや賄賂を、すべて『NCPC債』で受け取った。そしてそれを、法の監視が及ばないモナコのGescoにプールし、ほとぼりが冷めたらスイスのBIS(国際決済銀行)で、日本海軍の裏書きを通じてキレイなドルやフランに『ロンダリング(資金洗浄)』するつもりだったのです」
「……それで日本の契約と一緒に、自分の裏金の履歴も倒産処理で燃やそうとしたと」
レーグ大臣は、頭を抱えた。
「なぜだ! なぜ彼らは、よりによって日本海軍に喧嘩を売ったのだ!
彼らが我々にとって、どれほどの上客か分かっていないのか!」
レーグの怒りは当然だった。
ロンドン海軍軍縮会議の裏で、日本海軍がフランス海軍にもたらした利益は計り知れない。
・アメリカの戦艦すら買ったイタリア海軍に対抗するため、喉から手が出るほど欲しかった、特型駆逐艦の完全な設計図と技術供与。
・地中海の運用に向く、即戦力のズルツァー・エンジン搭載潜水艦、17隻の格安譲渡。
・そしてロレーヌ社の買収に伴う、フランス航空産業への莫大な資金注入。
「彼らは我々の艦隊再建の最大のパトロンであり、最高のビジネスパートナーだぞ!」
レーグ大臣は、拳で机を叩いた。
「それを、ブリアン外相と財務官僚の馬鹿どもは、田舎者の成金と舐めてかかり、詐欺を仕掛けた! しかも失敗して首根っこを掴まれるとは! 恥を知れ!」
デュラン提督が、重々しく頷いた。
「おっしゃる通りです。彼らは紙の上の法律しか知らない。
東郷一成という男が、アメリカのウォール街をどうやって食い荒らし、イギリスの海軍本部をどうやって黙らせたか。……その『軍事的・経済的な暴力の規模』を全く理解していなかったのです」
そこへ、青ざめた顔の海軍省法務局長が入ってきた。
「だ、大臣! 財務省のフルニエ氏から緊急の要請が来ております!
『国家の威信に関わる。海軍の力で、モナコの日本側管財人(加納)を脅迫してリストを取り返してくれ。必要なら地中海艦隊を動かせ』と……!」
「馬鹿者ッ!!!」
レーグ大臣の怒声が、宮殿のような大臣室に響き渡った。
「断れ! 財務省のクソ役人どもにこう伝えろ!
『自分たちの脱税と裏金のリストを取り返すために、栄光あるフランス海軍の艦隊を動かすだと? ふざけるな! 貴様らの汚い尻拭いに、海軍の誇りを使う気はない!』とな!」
「し、しかし大臣! このままでは政府が……」
「知ったことか!」
レーグは立ち上がった。
「我々海軍は今、ブレストの工廠で日本からもらった設計図を元に、次世代の駆逐艦(ル・フブキ型)を建造している真っ最中だ!
ここで日本を怒らせて、スウェーデン(SKFやボフォース)からの部品供給や、技術者の派遣を止められたらどうする! 我々の新鋭艦は、ただの鉄の箱になるんだぞ!」
政治家の裏金と、フランス海軍の未来。
レーグ大臣にとって、天秤にかけるまでもない問題だった。
「デュラン提督。直ちにパリの日本大使館に連絡を取れ。
海軍武官の三川大佐を、今夜の夕食会に極秘に招待するのだ。……最高級のボルドー・ワインを用意しろ」
「はっ。……日本側への『手打ち』ですね」
「そうだ。謝罪ではない。謝罪をすれば、我々が外務省の失策を認めたことになる。
夕食会だ。友好確認だ。ワインとステークフリットと、将来の話をする。
その席で、日本海軍にだけ分かるように、我々は馬鹿どもとは違うと伝えるのだ。我々は引き続き、日本の最高のパートナーであるとアピールするのだ」
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場所:パリ、フランス銀行(Banque de France)地下会議室
その部屋は、外部の光を一切遮断した分厚い石壁に守られていた。
普段は金塊の輸送ルートや国家機密を話し合うための部屋だが、今日の空気は国家の危機というより、不倫がバレた翌朝の家族会議に近い、陰鬱で、どこか滑稽な気まずさに満ちていた。
円卓を囲むのは、フランス第三共和政を裏から動かす最高峰のエリートたちだ。
エコール・ポリテクニーク(理工科学校)やパリ政治学院といった名門「グランゼコール」を卒業し、学生時代から『Tu(お前)』と呼び合う親密な同窓生ネットワークで結ばれた、絶対的な特権階級。
彼らは普段、ワイングラスを傾けながら優雅なフランス語で国家の政策を決定し、互いの利益を調整し合う「美しいムラ社会」の住人であった。
だが今、その美しいムラの中央に、極東から持ち込まれた「汚物」が叩きつけられていた。
「……さて」
フランス銀行総裁エミール・モローは、血の気を失った顔で咳払いをした。
彼の前には、モナコから逃げ帰ってきた財務官僚ピエール・フルニエの、涙と脂汗で滲んだ報告書が置かれている。
「状況は最悪だ。
我々がオーストリアの不良債権を隔離するためにモナコに設立したペーパーカンパニー『Gesco』。
……その管財人に、日本海軍の息がかかった銀行家(加納久朗)が合法的に就任した。
そして彼らは、Gescoの帳簿……すなわち、我々がモナコに『退避』させていた資金の全リストを、人質に取った」
モローは、集まった外務省、財務省、法務局、そして警察庁のトップたちを見回した。
「諸君、まず確認したい。
Gescoの帳簿に、名前がある者は、今この場で申告してもらいたい」
沈黙。
重厚なマホガニーのテーブルを囲む全員が、示し合わせたように目をそらした。天井のシャンデリアを見上げる者、手元の白紙のメモ帳を熱心に読む者。
「……ない、ということでよろしいか?」
誰も答えない。
モローは胃がねじ切れるような痛みを感じながら、言葉を継いだ。
「では次に。本人名義ではないが……親族、秘書、後援会、夫人、愛人、あるいは法務上説明が困難な『団体名義』で、何らかの関係がある者は?」
さらに長く、重い沈黙が落ちた。
葉巻の煙すら、気まずそうに空中に留まっている。
やがて警察庁の長官が、ボソリと小声で言った。
「……モロー総裁。その条件でいくと、フランス共和国そのものが挙手することになりますな」
彼らは優秀なエリートである。だからこそ、自分の名前を直接帳簿に書くような間抜けはいない。全員がダミー会社や愛人の名義を使って、税金逃れや政治資金のロンダリングを行っていた。
「……どうするのだ、フルニエ!」
病欠したブリアン外相の代理として出席していた外務省の高官が、唐突に声を荒げた。
「これはフランス銀行の技術的処理のミスではないか! 外務省は『オーストリアへの融資を通じた政治的包囲網の形成』という国家方針を示しただけだぞ!」
「何を仰る!」
名指しされたフルニエが、椅子から立ち上がった。
「外務省が無理難題を押し付けたから、我々は焦ってスキームを構築したのです! 銀行は国家の方針に忠実に従ったに過ぎません!」
「お待ちいただきたい」
財務省の事務次官が、冷ややかに口を挟む。
「財務省としては、あくまで予算の枠組みを提供したまで。この複雑怪奇なモナコへの資産移転については、法務局が適法性を保証したはずですが」
法務局長は眼鏡の位置を直し、エリート特有の流麗なレトリックで反撃した。
「我々が提示したのは、あくまで理論上の可能性です。
『法的に可能である』という見解を述べたに過ぎず、それを『実行せよ』と命じた記録は一切存在しません。実行の判断は、現場の皆様の裁量によるものです」
見事なまでの責任のなすりつけ合いだった。
超高学歴の天才たちが、その類まれなる頭脳をフル回転させて、自分だけの安全地帯を築き上げているのだ。
「ええい、言い争っている場合か!」
モロー総裁が机を叩いた。
「もしこのリストが『リュマニテ(共産党機関紙)』や『アクション・フランセーズ(極右機関紙)』の手に渡ればどうなるか、分かっているのか!
ウストリック事件の比ではないぞ! 第三共和政は明日にも崩壊し、我々は全員、ギロチン台の露と消えるかもしれんのだ!」
「警察庁!」モローは藁にもすがる思いで長官を見た。
「何とかならんのか! 国家安全保障を理由に、日本の大使館やGescoのオフィスを強制捜査して、帳簿を奪い返すことは!」
警察庁長官は、深々と溜息をついた。
「不可能です。
第一に、モナコは主権国家です。フランス警察が踏み込めば国際問題になる。
第二に……万が一強行して、日本の外交官が「不当な弾圧だ!」と騒ぎ立て、帳簿の中身を世界に向けて公表してしまったら、どう対処するのです?」
「そ、そこを何とか誤魔化すのが警察の仕事だろう!」
「では、新聞記者たちに『なぜ捜査したのか』『なぜ日本がリストを持っているのか』と聞かれたら、我々は何と答えるのですか?」
全員が沈黙した。
『我々の愛人と親族の脱税リストを、日本人に握られたからです』とは、死んでも言えない。
「このリストは偽造だ」と言い張ることもできない。なぜなら、日本側が握っているのはオリジナル(原本)であり、照合されれば一発で真実だとバレてしまうからだ。
誰も責任を取らない。誰も有効な手を出せない。
エリートたちが自らの保身のために作ったネットワークが、今度は彼ら自身を閉じ込める「密室の牢獄」と化していた。
「……で、日本は何を要求してきているのだ?」
外務省の高官が、絞り出すように聞いた。
フルニエが、力なく答える。
「海軍省が、三川大佐との非公式夕食会を通じて確認したところ……
『日本海軍がヨーロッパで行っている合法の経済・生産活動を、ヴェルサイユ条約違反などと騒ぎ立てず、今後一切黙認すること。そうすれば、帳簿は永久にモナコの海に沈めておこう』、と」
「……何だと?」
外務省の高官の顔が、怒りで歪んだ。
「栄えあるヨーロッパで、日本の軍需工場が稼働するのを見て見ぬふりをしろと言うのか!
それは……国家の安全保障を売り渡すに等しい裏切りだぞ!」
「ならば貴方が責任を取って辞任し、全てを公表しますか?」
法務局長が、冷たく言い放った。
「…………っ」
外務省の高官は言葉を詰まらせ、そして黙り込んだ。
国家の安全保障と、自分(と愛人)の裏金。
天秤にかけるまでもない。
彼らは愛国者である以前に、自らの特権と財産をこよなく愛するブルジョワジーであった。
「……やむを得まい」
モロー総裁が、重々しい、しかしどこか安堵を含んだ声で宣言した。
「日本海軍の活動は、純粋な経済活動である。……彼らは我々の同盟国であり、中欧の経済安定に寄与する尊いパートナーだ。
……そうだな、外務省?」
「ええ……。我がフランス外交の、輝かしい成果であります」
外務省の高官も、苦いワインを飲み下すような顔で同意した。
かくして、満場一致の「苦渋の決断」が下された。
その日の議事録には、こう記された。
『中欧問題につき、日本側との協調を確認』
フランス第三共和政は、軍事力や経済力で日本に敗北したのではない。
国家を私物化していた者たちが、自分たちの『私物』を人質に取られたために、自ら白旗を上げたのである。
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