地中海の便利なゴミ箱 後編
前編からの続きとなります。
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:パリ、フランス銀行総裁室
「……モナコだ」
フランス銀行総裁エミール・モローは、血走った目で地図の南仏、地中海に面した小さな公国を指差した。
「あそこにダミーの持株会社を設立する。名前は『Gesco』。……CA銀行の抱える不良債権と、あの忌まわしい日本海軍の生産枠借上げ契約を、全てこの会社に押し付けるのだ」
同席する財務官僚フルニエは、その法務的スキームの美しさに感嘆の息を漏らした。
「なるほど。CA銀行を『優良銀行』と『不良銀行』に分割するのですね。日本の契約主体をモナコのペーパーカンパニーに移転させ、その後、Gescoを計画倒産させる。
……法人が消滅すれば、いかなる契約も無効。ドイツの再軍備を裏で助けている日本海軍が振りかざす主権免除の盾も、守るべき契約先が消えれば紙くず同然です!」
「そうだ」モローは冷笑した。
「連中はウィーンの工場に居座ろうとするだろうが、契約が無効になればただの不法占拠だ。……我々の5000万ドルは、身軽になったCA銀行本体から確実に回収する。これが、アングロサクソンとユダヤの金融を出し抜く、フランスの叡智だ」
パリのエリートたちは、自分たちの考え出した「書類上の魔術」に酔いしれていた。
彼らは法と帳簿の世界の住人であり、自分たちが書き換えた帳簿が、現実の世界を完全に上書きできると信じて疑わなかった。
⸻
時:1930年(昭和五年)、秋
場所:ベルリン、日本大使館・武官室
東郷一成は、スイスのBISにいる加納久朗から届いた暗号電報を読み、深くため息をついた。
「……少将。疲労の兆候が見られます。休憩を推奨します」
護衛の橘小百合が、背筋をピンと伸ばしたまま、硝子のような瞳で淡々と告げた。
「フランスの連中がモナコに『ゴミ箱』を作った件、裏が取れた」
東郷は、電報を机に放り投げた。
「我々の契約を不良債権もろともそこへ放り込み、会社ごと潰して『契約の無効化』を狙っている」
「……対象法人の消滅による契約の破棄。強引ですが、合法的です」
「彼らはオーストリア政府に圧力をかけ、特例法を作らせるつもりだろう。国家権力を使った『合法的な詐欺』だ」
小百合が顔を青ざめさせる中、東郷はコーヒーカップを手に取り、どこか呆れたように首を振った。
「……小百合君。官僚という生き物は、どうしてこうも紙の上の理屈で現実を消し去れると錯覚するのだろうな」
「……理解不能です」
小百合は小首を傾げた。
「彼らは、ペーパーカンパニーを潰せば我々が泣き寝入りすると思っている。だが、工場は物理的にオーストリアにあり、我々の前払い金で工作機械が動いているのだ。
……紙の上の会社が死のうが、我々は『実体(工場)』から一歩も退くつもりはない。……しかし」
東郷の瞳に、光が灯った。
「彼らがわざわざ、自分たちの不良債権を『一つの箱(Gesco)』に集めて、しかもそれを法の監視が緩いモナコに置いてくれたのだ。……これを利用しない手はないな」
東郷は、一枚の白紙を引き寄せた。
「小百合君。BISの加納さんに打電しろ。スイスの我々の匿名口座から資金を動かす」
「命令を受領しました。……ターゲットは?」
「フランスがGescoを設立するための資本金、そして不良債権を買い取るための資金決済は、必ずどこかの銀行を経由する。
我々はそのGescoが発行する社債、あるいは劣後債を、スイスのフロント企業を通じて全量買い占める」
「……ゴミ箱の債権を、買い占めるのですか?」
「そうだ。フランスはGescoを倒産させる気だから、その債券価値はゼロになると思っている。だから喜んで二束三文で手放すだろう。
だが、彼らは忘れている。Gescoには『我々の契約(日本の軍事資産の製造権)』も移転されているのだ。
つまり、我々がGescoの最大の債権者になれば……」
小百合はハッとした。
「……我々はGescoの管財人として、東欧の工場群を完全に合法的に支配できる……!」
「その通りだ」東郷はニヤリと笑った。
「フランスは、我々を追い出すために会社を割った。だが我々は、その割られた不良部門のオーナーになり、逆に優良部門(CA銀行本体)に対する『損害賠償』と『契約不履行』の訴訟を、モナコの法廷で起こしてやる。
モナコはタックスヘイブンだ。フランスの法律は及ばない。そして、もしフランスがモナコに軍事圧力をかければ、それはモナコに資産を隠している『全世界の富裕層』を敵に回すことを意味する」
「……任務の全容を理解しました」
小百合は、見事な海軍流の敬礼を見せた。
「直ちに暗号電文を作成します。任務、閣下の描く最適解を、必ず現実にすること」
⸻
時:数週間後
場所:モナコ公国、モンテカルロ。オテル・ド・パリの一室
地中海の紺碧の海を見下ろすスイートルームで、フランス財務省のフルニエは、シャンパングラスを片手に勝利の美酒に酔いしれていた。
「……素晴らしい。全て計画通りだ」
彼は、モナコの弁護士から受け取った書類に満足げに頷いた。
ペーパーカンパニー『Gesco』の倒産手続きは、順調に進んでいる。日本の契約も、オーストリアの不良債権も、この南仏の小さな公国の帳簿の闇に消えようとしていた。
「日本の海軍どもは、今頃紙くずになった契約書を握りしめて喚いていることだろう。……さあ、これで我々のCA銀行は身軽になった。オーストリアは我々フランスのものだ」
フルニエがシャンパンを飲み干そうとしたその時、部屋の扉がノックされた。
「誰だ? ルームサービスは頼んでいないぞ」
扉が開かれ、入ってきたのはホテルマンではなく、仕立ての良いスーツを着た白髪交じりの日本人だった。
横浜正金銀行から出向し、現在BISで日本の口座を管理している加納久朗である。
「……ムッシュ・フルニエ。お寛ぎのところ申し訳ない」
加納は、慇懃な笑みを浮かべた。
「な、なんだ君は! 誰の許可を得て入ってきた!」
「私は、Gesco社の『筆頭債権者集会・代表管財人』として参りました」
加納は、一枚の分厚いファイルをテーブルの上のシャンパンボトルの横に置いた。
「筆頭債権者だと? 馬鹿な、Gescoの債権はすべて紙くずとして市場に……」
フルニエはそこで言葉を切り、血の気が引くのを感じた。
「ええ。その『紙くず』を、スイスの投資会社が全て買い取らせていただきました。……もちろん、その投資会社の背後には、我々日本海軍がおります」
加納は、冷徹な銀行家の顔でフルニエを見下ろした。
「ムッシュ・フルニエ。貴国は大きなミスを犯した。
会社を倒産させれば契約が消えるというのは、債権者が諦めた場合のみです。
ですが、我々はGescoの全債権を握る管財人として、モナコ公国裁判所に『Gescoの資産保全』と、不当に優良資産を分割した『CA銀行本体(=フランス政府)』に対する損害賠償訴訟を提起いたしました」
「……馬鹿な!」
フルニエは、一瞬の狼狽の後、すぐに嘲笑を浮かべて立ち上がった。
「そのような訴訟、認められるはずがない! 相手はフランス政府だぞ!
『国家主権免除』の原則を知らんのか! モナコの法廷が我々フランス国家を裁くことなど、国際法上不可能だ!」
フルニエは、強気に言い放った。
「それに、モナコだと? 1918年保護条約をご存知かな? モナコは我がフランスに逆らえんのだよ。
我々が本気になれば、モナコとの国境を封鎖し、水道も電気も止めてやる。モナコ大公は、明日には我々に有利な判決を書くように裁判長へ命令するだろうさ!」
フルニエの反論は、政治的にも法的にも「完璧なフランスの盾」だった。
だが、加納の表情は微塵も揺るがなかった。
「……ムッシュ・フルニエ。誤解なさらないでいただきたい」
加納は、静かに微笑んだ。
「我々は、モナコ公国がフランスに逆らえるなどとは、全く思っておりませんよ」
「……何?」
「逆らえないからこそ、困るのです」
加納は、テーブルの上の分厚いファイルを、ポンと指で叩いた。
「もし貴国がモナコに圧力をかけ、我が国の正当な権利を強引に揉み消そうとすれば……その圧力の『本当の目的』が何であったか、我々はGescoの帳簿とともに、世間に説明せざるを得なくなる」
「……何を、説明するというのだ」
フルニエの声が、急に低くなった。
「フランス共和国の高官諸氏が、なぜこの小さな公国に、これほど多くの『不透明な資産』をお預けになっていたのか、です」
ガチャン。
フルニエの手から、シャンパングラスが滑り落ちた。
砕け散ったガラスの音が、部屋の静寂を残酷に切り裂いた。
「Gescoの帳簿を調べていて気づいたのですがね」
加納の声は、死神の囁きのように優しかった。
「この会社、オーストリアの不良債権を隠すだけでなく、フランスの有力な政治家、銀行家、そして警察幹部の方々の『隠し資産のロンダリング』や『脱税ルート』としても、ずいぶんと便利に使われていたようですね。
……我々が管財人になった以上、これらの資産は厳格に調査し、債権回収の原資としてリスト化しなければなりません」
フルニエは、その場に崩れ落ちた。呼吸ができない。
加納が言っていることの意味は、フランスという国家の「自爆ボタン」を握られたということに他ならなかった。
もしフランス政府が主権免除を主張して裁判を無視すれば、日本側は「では債権回収のために、Gescoの帳簿を公開精査します」と言い出すだろう。
もしフランス政府がモナコを恫喝して無理やり敗訴判決を書かせれば、日本側は「フランス政府は自国の政治家の裏金を守るために、小国を脅迫した」という事実と共に、そのリストをパリの新聞社にリークするだろう。
右翼リーグや共産党が暴れ回り、常に政情不安に喘ぐフランス第三共和政において。
この『脱税・汚職リスト』が公に出ればどうなるか。
内閣は即日崩壊し、パリの街は暴動の炎に包まれ、ギロチンが再び広場に引っ張り出されるかもしれない。
「……き、君たちは……」
フルニエは、血の気の引いた顔で加納を見上げた。
「……我々に、国家を自爆させろと言うのか……」
「我々は、訴訟で勝ちたい、などとは言っておりません」
加納は、冷徹な銀行家の顔で言った。
「我々はただ、我々が前払い金で購入したオーストリアとチェコの『工場の生産枠』を、予定通りに使わせていただきたいだけです。
……貴国がその邪魔をせず、我々の契約の有効性を黙認してくださるなら。この帳簿は、債権整理の完了と共に、永久にモナコの地中海に沈めましょう」
それは、法廷での勝利宣言ではなかった。
「あなた方はもう、合法的に負けることも、違法に勝つこともできない」という宣言だった。
さらに加納は、フルニエがすがりつこうとした最後の希望(ヴェルサイユ体制カード)すらも事前にへし折っていた。
「ああ、それから。
『日本が東欧で兵器を作っている。ヴェルサイユ条約違反だ!』と国際連盟で騒ごうとしても、無駄ですよ。
イギリスのノーマン総裁は、我々の事業に『深い理解』を示しておられます。もしフランスが騒ぎ立てれば、イギリスはこう言うでしょう。
『ならばフランスはなぜ、CA銀行とGescoを使って、オーストリアの資産隠しと政治介入を行ったのか?』とね」
完全に逃げ道は塞がれていた。
イギリス(ノーマン)が日本の背後にいる以上、フランス単独での国際問題化は、自らの首を絞めるだけの結果に終わる。
「……フルニエさん。これは脅迫ではありません。債権者としての、通常の情報開示義務です」
加納は帰り際、哀れむような目でフランスの官僚を見下ろした。
「ゴミ箱(Gesco)を作るのは結構ですが、捨てる前に中身は確認するべきでしたね。
……あなた方は、自分たちで作ったゴミ箱の中に、自分たちの『首』まで捨ててしまったのですよ」
加納が部屋を出た後も、フルニエは床に座り込んだまま動けなかった。
床に散らばったシャンパングラスの破片が、彼の手を切り裂いて血を流しているが、痛みすら感じなかった。
フランスが誇る高度な法務スキームは、日本海軍が用意した「泥臭いが絶対的な政治的スキャンダル」の前に、紙くずのように破り捨てられた。
地中海の陽光は眩しかったが、フランスの野望は、モナコの闇の中で完全に息絶えたのである。
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