地中海の便利なゴミ箱 前編
時:1930年(昭和五年)、秋
場所:ドイツ・バイエルン州。ライン・マイン・ドナウ運河(マイン川拡張工区)の巨大閘門建設現場
見渡す限りの泥濘と、重低音を響かせる巨大な蒸気ショベルカーの群れ。
この「欧州横断水路」の建設現場は、日本海軍の投資によって、異常な熱気に包まれていた。クルップ社製の巨大な蒸気ショベルが泥を掘り起こし、何万ものドイツ人労働者たちが、後で額面通りドルに兌換できるNCPC払いの給与と、温かい「カイグンシチュー」のために汗を流している。
その泥だらけの現場に、およそ似つかわしくない奇抜な風体の男が立っていた。
つばの広いフロッピーハットに、黒いマント。エメラルドのネクタイピンを輝かせ、先の尖ったヤギひげを蓄えたその姿は、アメリカの雑誌に「まるでイタリア・オペラの陰謀家」と揶揄されたこともある。
大英帝国の金融の総本山、イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン総裁その人であった。
「……いやはや。ロンドンの霧より、バイエルンの泥のほうが、よほど健康的な匂いがする」
ノーマンはステッキで泥を小突きながら、隣を歩く東郷一成少将とヒャルマル・シャハト総裁(ドイツ帝国銀行)に向かって皮肉げに笑った。
「ようこそ、ノーマン総裁。泥だらけの歓迎で申し訳ない」
東郷は、海軍少将の軍服をパリッと着こなして応じた。
「しかし、あなた方中央銀行の総裁というのは、どうしてこうも現場を見たがるのですか?」
「机の上の数字には、人間の血が通っていないからだ」
ノーマンは、巨大な水圧プレス機が運ばれていくのを眩しそうに見上げた。
「失業者にパンとシチューを与え、ツルハシを握らせる。
……東郷少将。あなたのやり方は乱暴で、金本位制のルールを逸脱しているが、実体経済を動かすという意味では正しい。少なくとも、地下金庫に金塊を溜め込んで喜んでいる『バゲットの守銭奴ども』よりは、よほどね」
シャハトが、苦笑しながら尋ねる。
「ノーマン総裁。フランス銀行(モロー総裁やフルニエ)のやり方に、随分とご立腹のようですな」
「怒りというより、軽蔑だよ」
ノーマンはマントを翻し、冷ややかな目で言った。
「ブリアン外相が君たちから年利3.5%で借り、クレディット・アンシュタルト(CA)銀行に年利6%で転貸した5000万ドル。あれは、もはや『汚れた金』だ。
あの融資は、オーストリアを救うためではない。他国を政治的に縛り首にするためのロープとして使われた。中央銀行の総裁として、これほど不愉快な金の使い方はないね」
ノーマンは、懐から銀のシガレットケースを取り出し、東郷に一本勧めた。
「……ところで東郷少将。パリの連中が最近、地中海の気候にひどくご執心のようだとご存知かな?」
「地中海、ですか?」
「ああ。風の噂だがね。フランス政府の法務局長が、カジノと免税で有名な国の会社法を、熱心に勉強しているそうだ。……東郷少将。君は、南仏の『モナコ公国』に行ったことはあるかね?」
東郷とシャハトの目が、同時に鋭く細められた。
「私はありませんが、私の先輩(山本五十六)が、軍を辞めたら行きたいところだとか」
「その通り。モナコは良いところだ。地中海の陽光、美しいカジノ。そして何より、『フランスの法律が及ばない、便利なゴミ箱』がある。
何でも、そこに『ソシエテ・コンティナンタル・ド・ジェスチョン(Gesco)』なる持株会社をでっち上げる計画だとか」
東郷の目が、微かに細められた。
「……Gesco。それは、何をするための会社で?」
「さあ? ただ、フランス銀行の連中はこう嘯いていたそうだ。
『腐ったリンゴは、きれいなカゴから取り出して、遠くのゴミ箱に捨てるに限る。そうすれば、面倒な契約や寄生虫も、ゴミと一緒に消却できる』……とね」
ノーマンは、マッチの火を吹き消した。
だが東郷一成の顔には、焦りなど微塵もなかった。
それどころか、その唇の端には、獲物を見つけた狩人のような、凶悪な笑みが浮かんでいた。
「……ノーマン総裁。貴重なヒント、感謝いたします」
「ヒント? 私はただ、南仏の天気の不吉さを嘆いただけだがね」
ノーマンは、とぼけて肩をすくめた。
東郷は、ノーマンからすすめられた葉巻に火をつけた。
「……しかし、なぜ貴方が私にそれを? イギリスにとって、日本は極東の仮想敵国では?」
「敵の敵は、一時的な友人になれる」
ノーマンの目が、帽子の陰でギラリと光った。
「私はフランスの連中が自国の金塊を盾にして、ヨーロッパ中を金融的脅迫で支配しようとしているのが我慢ならないのだよ。強欲な守銭奴とは、あいつらのことだ。
そして彼らがCA銀行という時限爆弾を弄り回せば、必ず大爆発が起きる。オーストリアが吹き飛び、ドイツのダナート銀行あたりが燃え、その炎は海峡を越えて、我がロンドンの『ポンド』にまで燃え移るだろう」
ノーマンは、ポンド危機(金本位制からの離脱)という最悪の未来を、すでに予測していた。
「東郷少将。ロンドンのシティが炎に包まれた時、私は君の持つ『ドルの防波堤(日本海軍の裏金)』を借りたい。
……もし、ポンド防衛のための協調融資と、東インド会社の再来たる日本海軍のネットワークでシティを支援してくれるなら。大英帝国は、君たちのビジネスに『最高の便宜』を図ろう」
「便宜とは?」
「君たちが『トルコの商船』に偽装して、地中海とスエズ運河を抜けて運ぼうとしている、あの黒くて重い荷物(兵器と工作機械)だよ。
……我がロイヤル・ネイビー(英国海軍)に、あれを『永久に臨検・拿捕させない』と約束しよう。具体的には、ロンドンのロイズに保険を組むよう、話を通しておく」
シャハトが息を呑んだ。
世界最大の金融決済網を持つ大英帝国が、日本の「裏のサプライチェーン」を黙認し、自国の海軍から保護すると言っているのだ。
東郷は、しばらく運河の泥を見つめた後、ゆっくりと右手を差し出した。
「……素晴らしい取引です、ノーマン総裁。
フランスの作った『ゴミ箱』は、私が責任を持って回収しておきましょう。ロンドンの金庫には、指一本触れさせません」
黒いマントの英国紳士と極東の提督が、ドイツの泥まみれの工事現場で固く手を握り合った。
「期待しているよ、東郷少将。……フランスの守銭奴どもに、本当の資本主義の恐ろしさを教えてやりたまえ」
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時:1930年(昭和五年)、秋
場所:ドイツ・バイエルン州。ライン・マイン・ドナウ運河建設現場の仮設事務所
イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン総裁と泥だらけの握手を交わした数時間後。
仮設事務所に戻った東郷一成は、ストーブで泥塗れの軍靴を乾かしながら、副官の樋端久利雄大尉に一枚の小切手と指示書を手渡した。
「樋端君。至急、ロンドンに連絡を取りたまえ。まとまった額の『ドル』を、イギリスのデヴォンポート海軍工廠へ振り込む」
樋端は、指示書に書かれた数字を見て目を丸くした。
「少将。これは……途方もない額のドルですよ。デヴォンポートの海軍工廠で、我々(日本海軍)が何か船でも造るのですか?」
「いや。すでに造り終わっている船の『ツケ』を払ってやるのだ」
東郷は、熱いコーヒーをすすりながら答えた。
「チリ海軍の超弩級戦艦『アルミランテ・ラトーレ』だ。
欧州大戦でイギリスが接収し『カナダ』として戦った後、チリに返還されたあの名艦が、昨年の1929年からデヴォンポートで大規模な近代化改装工事に入っている」
「ああっ、なるほど」
樋端は合点がいったように頷いたが、すぐに首を傾げた。
「ですが、それはチリ政府とイギリス海軍の契約でしょう? なぜ我々が、他国の戦艦の改装費をポンと肩代わりしてやらねばならないのですか?」
「ノーマン総裁への『インサイダー情報(モナコのGesco)』に対する、実質的なお礼だよ」
東郷は、手元の南米の海図を指差した。
「現在、チリ政府には、アルミランテ・ラトーレの改装費をイギリスに支払う外貨がもう1セントも残っていない。だからこそ、去年に我々日本海軍がスムーズにアメリカ資本から権益を買い叩けたわけだが。
それはともかく、このままでは、デヴォンポート工廠は未払いの巨額工事費を抱え、何千人ものイギリス人労働者が路頭に迷う。ただでさえ金本位制の維持で苦しんでいるイギリス(ノーマン)にとって、これは致命傷になりかねない」
東郷は、冷徹な目で計算式を思い描いた。
「だから、我々がドルで払うのだ。
我々がポンと改装費を肩代わりしてやれば、デヴォンポートのイギリス人工員たちの雇用は守られ、イングランド銀行には喉から手が出るほど欲しかった『ポンド防衛のためのドル』が転がり込む。
……ノーマン総裁とイギリス海軍に対する、表沙汰にならない最高のプレゼントになる」
「なるほど……!」
樋端は感嘆の声を漏らした。
「効果はそれだけではない」
東郷は、コーヒーカップを置いた。
「チリにとっても、我々は国家を救った『恩人』になる」
史実において、この改装を終えた「アルミランテ・ラトーレ」がチリに帰還した直後の1931年9月。
国家破産による公務員・軍人の給与「30%強制カット」に激怒した同艦の乗組員を中心に、チリ海軍全体を巻き込む大規模な反乱(チリ海軍大反乱:Sublevación de la Escuadra)が勃発し、チリは国家崩壊の危機に直面することになる。
「国家が破産すれば、真っ先に削られるのは軍人の給料だ。誇り高い水兵たちが、家族を食わせられなくなって給与カットを宣告されれば、必ず船を乗っ取って反乱を起こす。
……だが、最大の財政負担であった『ラトーレの改装費』を我々が丸ごと消してやれば、チリ政府は過酷な給与カットを回避できる」
東郷の狙いは、南米の軍事と資源の要衝であるチリを、日本海軍の絶対的な影響下に置くことにあった。
「チリは太平洋の向かい側であり、我々にとって不可欠な硝石と銅の巨大な供給源だ。
彼らの誇りである旗艦を人質状態から解放し、水兵たちの給与を守ってやれば。チリ海軍は今後、南米における我々(NCPC)の最も忠実な『同盟軍』にして『警備隊』として機能してくれるだろう」
数日後。
イギリス、デヴォンポート海軍工廠。
数ヶ月間、賃金の遅配と解雇の恐怖に怯えていた何千人ものイギリス人工員たちは、工廠長から告げられた「工事費の全額入金(しかもドル払い)」の知らせに、帽子を天高く放り投げて歓喜の雄叫びを上げた。
彼らは、極東の海軍がなぜチリの船の代金を払ってくれたのかなど知る由もなかったが、その日のパブでは「日本の海軍提督アドミラル・トーゴー」に乾杯する声が夜更けまで響き渡った。
一方、ロンドンのイングランド銀行総裁室。
モンタギュー・ノーマンは、手元の外貨準備高の帳簿に記された莫大な数字を見て、一人静かに微笑んでいた。
(……見事だ、東郷一成。礼は、確かに受け取った。これで大英帝国は、もう少しだけこの狂った恐慌の波に耐えることができる)
ノーマンはすぐさま、イギリス海軍本部とロイズの知己に極秘の電話をかけた。
そして南米、チリ。
首都サンティアゴの政府高官たちは、ロンドンからの「債務完済」の知らせに、我が耳を疑い、そして泣き崩れた。
これによりチリ海軍の給与カットは回避され、史実で血の雨を降らせた「1931年チリ海軍大反乱」は、歴史の闇の中へと静かに消え去ったのである。
代わりにチリ海軍は、後に日本海軍のNCPC経済圏の最も熱烈な擁護者となり、南米大陸西岸における日本の補給艦や冷凍船の安全を、自らの命に代えても守り抜く強固なパートナーへと変貌していく。
いつもお読みいただきありがとうございます。後編に続きます。
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