エウムコ・ハーゼンクレーヴァー
時:1930年(昭和五年)、秋
場所:ドイツ・ベルリン、日本大使館・武官室
「『仏蘭西は金塊を貯めたそうだ』『ほう、たいしたものだ』『だが帳簿はモナコに置き忘れた』『そいつは金塊より重いな』か。はっはっは、君たちも、なかなか気の利いた皮肉を言うようになったな」
海軍省の公式発表はさらに白々しい。
『帝国海軍は関係会社との正当なる商業契約の履行を求めたるに過ぎず、何ら政治上の意図を有せず。欧州各国関係当局とは友好的かつ円満なる協議を継続中なり』
モナコでの「Gesco疑獄」によってフランスの口を完全に封じた東郷一成少将は、二人の副官――樋端久利雄大尉と、木梨鷹一大尉――を前に、一枚の指示書をテーブルに滑らせた。
「……さて、これで当分フランスは口出しできまい。君たちは帰米前にこのドイツに残り、土産を一つ『梱包』して、日本へ送ってくれたまえ」
海兵51期を首席で卒業したエリート、樋端大尉は口を半開きにしてそのリストを眺めた。
「……エウムコ(Eumuco)社、およびハーゼンクレーヴァー(Hasenclever)社。
レヴァークーゼンとデュッセルドルフにある、重鍛造・プレス機械のメーカーですね。……これを、買収せよと?」
「そうだ。両社とも大恐慌で注文が吹き飛び、明日の不渡りを心配している状態だ。手持ちのドル現金で顔を叩いて、丸ごと買ってきなさい」
東郷は、懐からBIS(国際決済銀行)の裏書きがある1,000万ドルの小切手帳をポンと投げ出した。
海兵51期首席、樋端久利雄大尉は、東郷一成から渡された『独国重鍛造メーカー買収および移転計画書』の予算内訳を見て、口を半開きにしたまま固まった。
「エウムコ(Eumuco)社と、ハーゼンクレーヴァー(Hasenclever)社。両社の基本資本金と現在の株式評価額、それにパニック・ディスカウントを加えれば、支配権の取得自体は40万ドル、多めに見積もってプレミアム込みで100万ドルもあれば十分です。
……ですが、このプロジェクトの総予算『1,000万ドル』というのは、一体どういうことですか?」
東郷は、小百合淹れたてのコーヒーを啜りながら、ニヤリと笑った。
「樋端君。君は会社の値段しか見ていない。
会社とは、株券と土地だけではない。そこにある『負債』と『人間』、そして彼らが息をしている『環境』全てが会社なのだ」
東郷は、予算の明細書を指先で弾いた。
「まず、彼らが抱えている銀行債務の肩代わりと、当面の運転資金の注入に150万ドル。借金取りに追われていては、職人は良い仕事ができないからな。
次に、何千トンという巨大な水圧プレス機や押出機を解体し、ブレーメン港から船に乗せ、日本へ運ぶための物理的ロジスティクス費用。これに450万ドルだ」
隣で聞いていた橘小百合が、唸るように頷いた。
「そして最後だ」
東郷は、最も額の大きな項目を指差した。
「技術者、熟練工、その家族約500名以上の移住費用と、日本国内に彼らがドイツにいる時と全く同じように暮らせる、専用の住宅村を建設する費用。ここに300万ドルを投じる」
「……300万ドル!? 家を建てるだけでですか!?」
樋端が驚愕する。当時の日本の木造住宅なら、1000万ドルもあれば一つの街が丸ごと買える。
「樋端君。機械は船に積める。だが、機械を動かす勘は、職人の胃袋と寝床の中にある」
東郷の瞳が、冷徹な光を帯びた。
「閉塞鍛造、ドロップフォージング、据込鍛造、軽合金押出。
これらの技術は、機械のスイッチを入れれば勝手にできるものではない。……これらは全て、長年培われた『職人たちの組織的な生態系』の中にしかない。
その生態系を、根こそぎ日本の土に移植するのだ。
彼らがホームシックにかかり、飯が不味いと文句を言い、仕事の質が落ちれば、我々の航空機や砲弾の生産ラインは即座に止まる。
……300万ドルで彼らの士気と環境を買えるなら、安い買い物だ」
樋端は息を呑んだ。
東郷の視座は「M&A(企業の買収)」ではなく、「産業の移植」をやらせることにあったのだ。
「なっ……! 全設備と家族ごと、ですか!?」
ずっと黙って聞いていた木梨大尉――海兵51期のどん尻――が、たまらず声を上げた。
彼は潜水艦乗りだ。物資を運ぶことの大変さは、嫌というほど知っている。
「大将(東郷)、アンタ正気ですか!? あそこにある水圧プレス機や押出機ってのは、部品一つで何百トンもある鉄の化け物ですよ! それをどうやって日本まで運ぶんですか! そもそも、何百、何千人ものドイツ人を日本のどこに住まわせるってんです!」
東郷は、愉快そうに笑った。
「だから、君を呼んだのだよ、木梨大尉。
会社を買うのは、天才の樋端君がやる。
だが、そのバカデカい鉄の化け物と小うるさいドイツ人の職人たちを、無事に日本まで運ぶのは、泥臭い現場の空気を知っている君の仕事だ。
……頼んだぞ、51期の双璧」
東郷はそう言い残し、さっさと小百合を連れて部屋を出ていってしまった。
残された首席とどん尻は、呆然と顔を見合わせた。
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時:数日後
場所:ドイツ・デュッセルドルフ、ホテル・ブライデンバッハ・ホフ
ホテルの会議室には、奇妙な顔ぶれが揃っていた。
レーヴァークーゼンに本拠を置くエウムコ社の経営陣と、デュッセルドルフに本拠を置くハーゼンクレーヴァー社の経営陣。
彼らはライバル同士であり、普段なら同じテーブルに着くことなどあり得ない。
だが大恐慌の嵐の中、彼らは共に首の皮一枚で繋がっている状態だった。
その彼らの前に座る、一人の東洋の青年将校、樋端久利雄。
「……ミスター・トイバナ。我が社と、そこの忌々しいライバル会社を同時に呼んで、一体何のおつもりか?」
エウムコの社長が、不機嫌そうに尋ねた。
「お二人とも、素晴らしい鍛造技術をお持ちだ。エウムコ社の水圧・油圧プレスとドロップフォージング。ハーゼンクレーヴァー社の軽金属押出と精密鍛造。
……別々に潰れるのは、世界の損失です」
樋端は100万ドルの小切手と、150万ドルの債務引受保証書をテーブルの中央に置いた。
「我々日本海軍の資金で、両社を統合していただきます。
そして、その統合された『新会社』の全設備を、日本へと移転していただきたい」
「なっ……統合だと!?」
両社長が同時に立ち上がった。
「我々は誇り高きドイツの職人だ! 金で魂を売り、ライバルと手を結べと言うのか!」
「ええ、そうです。金で魂を買うのです」
樋端はぼんやりとした顔のまま、残酷な事実を告げた。
「貴社らは今、銀行からの貸し剥がしで明日にも不渡りを出す寸前でしょう? ドイツ国内に、貴方たちの巨大なプレス機を動かすだけの鉄の需要はありますか?
貴国の政府(シャハト総裁ら)には話がついています。これは『技術の疎開』です。
日本には今、海軍の資金で最新の航空機(アルミの押出材が必要)や、新型艦艇(巨大な装甲板とシャフトが必要)を造るための、莫大な『需要』が溢れています。
貴方方は日本に会社ごと移転し、日本海軍が用意する特区で、好きなだけ巨大な鉄とアルミをプレスしていただきたい」
樋端は、一枚の組織図を広げた。
「エウムコとハーゼンクレーヴァー。両社の技術が統合されれば、航空機から艦艇まで、あらゆる特殊鋼・軽合金の成型をワンストップでこなせる、世界最強の鍛造コンツェルンが誕生する。
……歴史を、変えてみませんか?」
史実において、この両社が「SMS Eumuco Hasenclever」として統合され、世界の重鍛造・プレス界の覇者となるのは、1996年のことである。
両社長は小切手と、そして何よりも「無制限の注文」という言葉に、抗い難い誘惑を感じていた。
職人は、機械を動かしてこそ職人なのだ。
目の前に積まれた、本物のドルの束。
そして「思う存分機械を造り、動かせる」という技術者への甘い誘惑。
ハーゼンクレーヴァーとエウムコの両経営陣は、抗う術を持たなかった。
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場所:ホテルの作戦部屋
買収が成立した夜、樋端は地図を広げて満足げに言っていた。
「よし。会社は買った。あとは移転先だ。
木梨、彼らの新しい工場と居住区は『新潟』にするぞ」
樋端は、新潟港に赤丸をつけた。
「新潟は近年、石油精製などの重工業が発展している。日本海側だから大陸からの資源輸入にも便利だ。
政府と掛け合って、外国人土地法を『国策特例』でクリアし、あそこに巨大なドイツ人工業村を建設する」
完璧なロジックだった。机の上の計算では。
だがその赤丸を見た瞬間、部屋の隅で木梨鷹一が、両手をテーブルに叩きつけた。
「……阿呆か、お前は」
「なんだと?」樋端がムッとして振り返る。
「だからお前ら秀才は、海図の上の線しか見えないって言うんだ」
木梨は地図の新潟の赤丸を、太い指で乱暴にこすって消した。
「新潟の地盤が何でできてるか知ってるか? 完新世の砂と、信濃川が運んできた泥だぞ。
あそこの地盤はプリンみたいにゆるゆるだ(※後の1964年新潟地震で大規模液状化を起こすこととなる軟弱地盤)。
いいか樋端。俺たちが運ぶのは、お前の頭の中にある数字じゃない。
数千トンから万トンの力で金属を叩き潰す、化け物みたいなフリクションスクリュープレス機や油圧プレス機だ!
そんな泥沼の上にプレス機を置いたらどうなる? 一発ドンと叩いた瞬間に、工場ごと地盤沈下して沈むか、周りの家が地震みたいに揺れて崩壊するわ!」
樋端は絶句した。
「……じ、地盤の強度までは、計算に入れていなかった……。だが、それなら基礎を深く打てば……」
「天文学的な金と時間がかかる。それに、重さ数百トンの鋳造部品を陸揚げする港のクレーン強度も足りん」
木梨は、鉛筆を奪い取ると、地図のさらに北――北海道の南端に、力強く丸を書いた。
「『函館』だ」
「函館?」
「ああ。あそこには水深の深い良港がある。そして何より、函館山周辺や海岸線には、巨大プレスの衝撃を真っ向から受け止めるだけの、強固な岩盤がある。
おまけに気候はドイツに似て涼しい。ドイツ人たちを家族ごと住まわせる村を作るには、蒸し暑い本州よりも北海道の方が、奴らも気が狂わずに済む」
樋端は、ぽかんと口を開けたまま木梨を見た。
この男は、海軍兵学校で留年した挙句ビリだった男だ。
だが、その現場を見る目、地面の固さと海の深さを肌で知る直感は、首席の自分を凌駕している。
「……負けたよ、木梨」
樋端は、苦笑しながら地図を函館に修正した。
「お前の言う通りだ。立地は函館にしよう。……だが、その何千トンもあるバケモノ機械を、どうやって日本まで運ぶつもりだ?」
木梨は、ニヤリと笑った。航海屋特有の、不敵な笑みだった。
「東郷閣下が、アメリカの海軍作戦部長の面を札束で張っ倒して買ってきた『粗大ゴミ』があるだろう?ちょうど、閣下が試験航海の名目でドイツに連れてきていたらしい」
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時:数週間後
場所:ドイツ・ブレーメン港
北海の冷たい風が吹きつけるブレーメンの岸壁に、異様なシルエットの巨大船が接岸していた。
元アメリカ海軍・給炭艦『プロテウス』、『ネプチューン』、『オリオン』。
アメリカでは「石炭を運ぶだけの旧式船」として売却されたこの船は東郷の指示によって、巨大なデリック(荷役クレーン)のワイヤーが強化され、船倉の隔壁がぶち抜かれた『超重量物運搬船』へと魔改造されていた。さらに船倉の底には、鋼製の荷重分散架台が組まれている。
岸壁には、ドイツの鉄道網の限界ギリギリの特別貨車で運ばれてきた、エウムコ社とハーゼンクレーヴァー社の巨大な密閉型エキセントリックプレス機のフレームや、スウェージングハンマー(回転鍛造機)の部品が山積みになっている。
「……玉掛けは慎重にな。吊り上げた際に傾くと、ワイヤーが断裂しかねん」
木梨は、作業服姿で自らウインチの巻き上げを指揮していた。
プロテウスの強力なデリックが唸りを上げ、何百トンという鉄の塊を、まるで巨人がおもちゃを掴むように軽々と持ち上げ、広大な船倉へと飲み込んでいく。
その光景を、これから日本へ客船で移住することになるドイツ人工員たちと、その家族が不安げに見守っていた。
「……本当に極東の島国で、我々の機械が動かせるのか?」
「大丈夫だ。あの日本人の現場監督(木梨)を見ろ。あの男のロープの結び方とクレーンの使い方は、本物の『海の男』だ」
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