知事のディナーと計算機
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:ニューヨーク州オールバニ、州知事公邸のダイニング
大恐慌がアメリカ全土を覆う中、ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)のディナータイムは、唯一の気晴らしの時間だった。
本日のメインディッシュは、ハドソン川で獲れたスズキのムニエルと、よく冷えた白ワイン。
だが、その優雅なディナーは、腹心のハリー・ホプキンスが持参した一枚の「私的レポート」によって、台無しになる運命にあった。
「……フランク。お食事中に申し訳ないが、また『彼』の話だ」
ホプキンスは、分厚いファイルから一枚のメモを抜き出した。
「ワシントンの東郷か」
FDRは、フォークを止めることなく答えた。
「将官にまでなって、今度はどこの会社を買ったんだ? もう驚かんよ。アメリカ政府がロンドンで軍縮会議中にイタリアに戦艦を売るような狂った時代だ、何が起きても不思議じゃない」
「……いえ。今回、東郷提督が500万ドルの即金で特別契約を結んだのは、我がニューヨーク州の企業です」
「ほう? 私の庭で買い物をしたと? で、どこだね?」
FDRは白ワインのグラスを傾けた。
「……インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(IBM)です」
ブフォッ!!!
FDRは、口に含んだばかりの高級白ワインを、見事にテーブルクロスの真ん中に噴き出した。
むせ返り、ナプキンで口元を押さえながら、彼は信じられないという顔でホプキンスを睨んだ。
「……ゴホッ! ハリー! 君、今なんと言った!?」
「はい。インターナショナル・ビジネス・マシーンズ社」
ホプキンスは、レポートを指差した。
「日本海軍の東郷少将が、同社のトーマス・ワトソン社長と極秘の共同開発契約を結んだそうです。……開発資金は即金で500万ドル」
「……はははっ! はははははは!」
FDRは、むせながらも大爆笑し始めた。車椅子の背もたれに体を預け、腹を抱えて笑い転げる。
「傑作だ! あいつ、ついに狂ったか!
大砲の弾道を、タイプライターとパンチカードの会社に計算させるだと!?
IBMのワトソンはセールスの天才だが、兵器の専門家じゃないぞ! 東郷は、レジスターのボタンで敵機を撃ち落とすつもりか!」
だが、ホプキンスの顔は全く笑っていなかった。
「事務機メーカーじゃないか!」
FDRが呆れたように言った。
「パンチカードで国勢調査や企業の給与計算をする会社だろう? なぜ日本海軍が、そんなところに500万ドルも出すんだ。兵站物資の在庫管理でもさせる気か?」
「私も、最初はそう思いました」
ホプキンスは、額の汗を拭った。
「しかし、契約の特記事項に、恐るべき文言がありました」
ホプキンスは、FDRお抱えのチームが裏ルートで入手した契約書のコピーを読み上げた。
『多変数連続方程式の、電気的リアルタイム演算装置の共同開発』
「……電気的、リアルタイム演算?」
FDRの顔から、さっと血の気が引いた。
「はい。彼らはIBMの『電気リレー(継電器)』の技術を使って、射撃管制用の計算機を作ろうとしているようです。
歯車ではなく、電気のスイッチ(オン・オフ)の組み合わせで、弾道計算を行おうと……」
「馬鹿な!」
FDRは反応した。元海軍次官としての常識が、それを否定した。
「リレー回路で弾道計算だと!? そんなものを組めば、回路は体育館ほどの大きさになるぞ! 艦に積めるわけがない!
それに海上の塩害と振動の中で、電気の接点がまともに動くはずがない。計算機は、物理的なカムと歯車で構成されるべきだ。それが常識だ!」
FDRは「日本が技術的な迷走を始めた」と結論づけ、安堵の息を吐こうとした。
だが、ホプキンスは首を横に振った。
「……フランク。我々の技術顧問である、MIT(マサチューセッツ工科大学)の電子工学の教授に、この概念図を見せました。
彼らは、決して笑いませんでした」
「何だと?」
「教授は、こう言いました。
『確かに、今はまだ巨大すぎて使い物にならないかもしれない。だが……』と」
ホプキンスは、教授の言葉をそのまま復唱した。
「『歯車(機械)の回転速度には、物理的な限界がある。だが、電気の速度は光と同じだ。
もし日本人が、この電気式リレーで複雑な計算を処理するアルゴリズムを完成させたら……彼らの大砲は、我々の歯車が計算を終えるよりも早く、答えを出すことになるだろう』」
ダイニングルームに、重苦しい沈黙が降りた。
スズキのムニエルは、すっかり冷え切っていた。
FDRは、グラスに残ったワインを見つめた。
「……つまり、東郷は我が国の情報処理能力そのものを、兵器に転用しようとしているのか」
彼は、東郷の思考の深さに再び戦慄した。
大砲を造るのは鉄鋼会社だ。だが、大砲を当てるのは計算機だ。
東郷は鉄ではなく、頭脳に500万ドルという巨費を投じたのだ。
「しかし、フランク」
ホプキンスは、少しだけ皮肉な笑みを浮かべた。
「この話には、もう一つの『オチ』があります。
……IBMの主力工場があるのは、ニューヨーク州エンディコットです。そして、本社はマンハッタン」
FDRは、ハッと顔を上げた。
「東郷がポンと出した500万ドルのおかげで、IBMは不況下にもかかわらず、工場をフル稼働させ、技術者を新規採用し、ニューヨーク州に莫大な法人税と雇用をもたらしています。
……知事。あなたの州の失業率が、日本海軍のおかげで少しだけ改善しましたよ」
FDRは、言葉を失った。
そして次の瞬間、再び腹を抱えて笑い出した。今度は、自嘲と怒りと、どうしようもない滑稽さに満ちた笑いだった。
「ククッ……アハハハハハ!
そうか! 私は、自分の州の雇用を守るために、日本の防空システムを作らせているのか!
いや、東郷が私の1932年の大統領選に向けた『実績作り』のために、気前よく献金(投資)をしてくれたと言うべきか!」
FDRは、ワイングラスを高く掲げた。
「素晴らしい! 最高だ!
アメリカ合衆国次期大統領(予定)フランクリン・デラノ・ルーズベルトの、最大の大口スポンサーは『日本帝国海軍』だ!!
……これを新聞記者が知ったら、私はスパイとして電気椅子送りだな!」
「笑い事ではありませんよ、フランク」
ホプキンスはため息をついた。
「我々は、日本の軍拡に文句を言う資格すら失いつつある。
何しろ、彼らが軍備を拡張すればするほど、我々の懐が潤うのですから。
……これぞまさに、東郷の仕掛けた『黄金の鎖』です」
FDRは笑いを収め、冷え切った魚をフォークで突き刺した。
「……ああ、分かっているさ、ハリー。
東郷は私に、『ほら、君の州の労働者が飢えずに済んだよ。文句はないね?』と、この白身魚のように私を料理皿に載せているんだ」
彼は、魚を口に運んだ。
味はしなかった。
「つまり私は、失業者を救うために日本海軍の脳を作らせる。
そして将来大統領になった私は、その脳と戦うためにアメリカ海軍の予算を増やす。
……ハリー、政治というものは、時々、悪魔より趣味が悪いな」
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場所:ニューヨーク、フォード・インスツルメント社・本社工場
ロングアイランド・シティにあるその工場の奥深くに、アメリカ海軍の「真の頭脳」が眠っていた。
海軍作戦部長ウィリアム・プラット大将は、目の前で静かに、しかし複雑怪奇な動きで回転を続ける真鍮の塊――最新型の『Mark 19 射撃指揮計算盤(Rangekeeper)』のプロトタイプを、神聖なものを見るような目で見つめていた。
「……美しい。まさに芸術品だ」
プラットの感嘆の声に、隣に立つ白髪の男が誇らしげに胸を張った。
ハンニバル・C・フォード。現代の射撃管制用アナログ・コンピュータの父であり、アメリカ海軍の砲撃精度を世界一に押し上げた天才エンジニアである。
「当然です、提督。この中には数千の歯車、カム、そして差動装置が組み込まれています。自艦の速度、敵艦の速度と方位、風向、さらには地球の自転(コリオリの力)までをも物理的な“回転”と“スライド”の動きに変換し、未来位置を弾き出す。
……我々の計算機は、大砲の弾道というカオスを、完璧な数学の方程式に閉じ込めることができるのです」
フォードは、隣に置かれたもう一つの装置を叩いた。
「それに、スペリー社の最新型『ジャイロ・コンパス(Stable Element)』。艦のローリングとピッチングを極限まで補正するこの“内耳”と、私の“脳”が組み合わさっている限り……」
フォードの目は、確信に満ちていた。
「日本がいくら巨大な戦艦を造ろうと、いくらヨーロッパから優れた大砲を買ってこようと、恐るるに足りません。
彼らの大砲が火を噴く前に、我々の大砲が彼らの急所を撃ち抜きます。
……船体は鉄ですが、勝敗を決めるのは『頭脳』です。そしてその頭脳において、我々アメリカは他国を10年は引き離していると自負しております」
プラットは深く頷いた。
そうだ。日本は怪物だ。東郷という男はアメリカ大陸の経済を吸い尽くし、法と条約の抜け穴を通り抜け、ヨーロッパの技術をかき集めた。
だが、彼らには致命的な弱点がある。
「……オランダのハゼマイヤー社だったな。日本が射撃指揮のために技術提携したのは」
プラットは、安堵の混じった笑みを浮かべた。
「確かに優れたジャイロ技術を持っていると聞くが……所詮はヨーロッパの小国の機械屋だ。我が国のフォードやスペリーが築き上げた、この精巧極まる『艦隊決戦用のアナログ計算体系』には到底及ばん」
日本は体が大きく、筋肉(大砲)が強いかもしれない。
だが、脳みそは我々の方が優秀だ。
アメリカ海軍の首脳陣は、この「技術的優位」という最後の盾に、すべての精神的支柱を預けていた。
「フォード氏、このMk.19の開発と、さらなる次世代機(後のMk.1コンピュータ)の研究を急いでくれ。予算は……なんとか私が議会と財務省から絞り出してくる。これだけは、絶対に負けられないのだ」
アメリカが「アナログの頂点」を極めようと職人技に磨きをかけている間に。
日本は、荒削りだが無限の発展性を持つ「デジタル(電気的ネットワーク)の入り口」に、巨額の資金を叩きつけて強引に扉をこじ開けようとしているのだった。
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