学習する防空網
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:東京・霞が関、海軍省・艦政本部第一部(火器担当)
「ダメだ!これでは、またアメリカの飛行機に逃げられる」
艦政本部の薄暗い製図室で、艦政本部長・藤田尚徳中将は、設計中の新型高射装置(後の九一式・九四式高射装置の原型)の図面を前に、重い溜息をついていた。
藤田は前年の演習で、航空機(複葉機)の急降下爆撃を模擬した標的に対する、現行の対空射撃(十一年式高角測距儀など)の惨憺たる命中率を目の当たりにしていた。
「測距儀で距離を測り、それを射撃盤で計算する。そこまではいい。問題はそこからだ」
藤田は、図面に赤鉛筆でバツ印をつけた。
「射撃盤が弾き出した『撃つべき未来位置』の数値を、伝声管で砲塔に伝える。砲手はそれを見て、一生懸命ハンドルを回して砲を向ける。
この間に生じるタイムラグが、およそ10秒から20秒。
降下してくる敵機は、その10秒の間に位置を変えている。我々が撃っているのは、常に『敵の過去の残像』なのだ」
傍らの若い技術士官が、悔しげに言った。
「しかも、自艦は波で揺れています。目標をファインダーの中に入れ続ける(追尾)ことすら至難の業です。我々のジャイロ技術(安定要素・スタブル)では、艦の揺れを相殺しきれません……」
「わかっている!」藤田が吠える。
「だが、どうしようもない! 機械の精度も、伝達の速度も、これが限界なのだ!」
その絶望的な空気を切り裂くように、製図室の重い扉が開かれた。
現れたのは、軍務局長の堀悌吉と、彼が引き連れてきた数人の見慣れぬ男たちだった。金髪碧眼の、しかしドイツ人やイギリス人とは違う顔立ちの技術者たちだ。
「藤田中将。お困りのようですな」
堀は、涼しい顔で歩み寄った。
「堀君か。……彼らは?」
「オランダからお招きした、『ハゼマイヤー(Hazemeyer)』社およびアメリカ『GE』社の技術顧問団です」
堀は彼らが持参した木箱を一つ、製図台の上にドンと置いた。
「東郷少将と小沢大佐が、ロンドンで空母『龍驤』と引き換えに買い取ってきた……帝国海軍の新しい『脳髄』ですよ」
箱が開けられる。
中から現れたのは、複雑な歯車とジャイロスコープが組み合わさった、まるで精密な巨大時計のような機械だった。
「これが、彼らの開発した『三軸ジャイロ安定式・射撃指揮装置』のプロトタイプです」
オランダ人技師が、通訳を介して誇らしげに解説を始めた。
「ミスター。海の上では、船は『ピッチ(縦揺れ)』『ロール(横揺れ)』『ヨー(偏揺れ)』の三軸で複雑に動きます。
我々のこの装置は、三つのジャイロスコープによってその揺れを相殺します。
つまり、船がどれほど荒波で揺れようとも、砲手が目で追い、手で追う時代に比べれば、誤差は一桁小さくなる。
艦が揺れても、照準の基準面だけは機械が保ち続けるのです」
藤田は息を呑んだ。
これまでの日本のジャイロは、せいぜい二軸の補正が限界だった。三軸の完全な安定化。それがあれば、荒天時の命中率は飛躍的に向上する。
「素晴らしい……! だが」藤田は首を振った。
「いくら正確に計算できても、それを砲に伝えるまでの『時間差』はどうする? 人力でハンドルを回している限り……」
「人力では回しません」
堀が、事もなげに言った。
「藤田中将。平賀中将が強力に推進している『艦艇の交流(AC)化』を思い出してください」
堀は、図面の上にスウェーデン・エリクソン社のモーターのカタログを置いた。
「交流化によって、艦内に大出力の誘導モーターと、そして『セルシン(シンクロ電機)』のネットワークを張り巡らせることが可能になりました。
このハゼマイヤーの計算機と、各砲塔を、セルシンモーターで電気的に直結するのです」
オランダ人技師が頷く。
「その通りです。指揮官がこの装置のファインダーで敵機を捉え、ダイヤルを回す。すると、電気信号が瞬時に伝わり、砲塔のモーターが完全に連動して、自動で同じ角度だけ動く。
タイムラグは伝声管の十秒を、電気とサーボの一秒未満へ圧縮するでしょう」
だが藤田が、保守的な見地から懸念を表明した。
「平賀さんの交流(AC)化か。だが、まだ 時期尚早だ。
我が軍は長年、直流(DC)を使ってきた。戦闘で発電機が止まっても、蓄電池に切り替えれば最低限の機能は維持できる。
交流にはバッテリーが直結できない。被弾して発電機が止まれば、艦は即座に全停電だぞ!」
だが、同席していたGEからの出向技師が、通訳を介して補足した。
「……ミスター。ブラックアウト(全停電)の心配なら無用です。
我々が設計した『リング・バス(環状配電網)』を使えばいい。
艦の前後に分散配置した発電機をネットワークで繋ぎ、一箇所が被弾しても、自動遮断器が瞬時に回路を切り離して、生き残った区画に電気を供給し続けます。
バッテリーより、よほど信頼性は高いですよ」
アメリカの電気技術(GE・ウェスティングハウス)と、スウェーデンの制御技術。
この二つを繋ぐには、「交流」という共通言語しかなかった。
「……分かった」
藤田は、観念した。
堀は、静かに言った。
「これで、艦政本部の懸念は解決しましたね。
揺れない目で敵を捉え、電気の神経で瞬時に伝え、エリコンとボフォースという最強の拳で撃ち落とす。
……砲員が、狙いを伝えるために叫ぶ時代は終わりです」
藤田は震える手で、ハゼマイヤーの機械に触れた。
彼らが何年もかけて到達できなかった壁を、この「金で買ってきた舶来品の組み合わせ」が、いとも容易く飛び越えてしまった。
「……堀君。これは……魔法か?」
「いいえ。ただの技術の統合です」
堀は、冷徹に言い放った。
「日本で設計した船体に。
スウェーデンの大砲とモーターを積み。
アメリカの配電網を添え。
オランダの計算機で狙いをつける。
……東郷が世界中からかき集めてきた最高の『部品』が、今、一つに繋がりつつあるのです」
⸻
場所:ニューヨーク、IBM本社・社長室
「THINK(考えよ)」
社長室の壁に掲げられたその有名な社訓のプレートを見上げながら、東郷一成は微笑をたたえていた。
向かいに座るのは、IBMの絶対的カリスマ社長、トーマス・J・ワトソン・シニアである。
「東郷少将。我が社のパンチカード・システムが、貴国海軍の『統計処理』にお役に立てているようで何よりです」
ワトソンは、自信に満ちた笑みを浮かべた。
大恐慌で全米の企業が青息吐息の中、IBMは日本海軍からの「データセンター(制度債取引管理用)」向けの大量一括リース契約により、莫大な利益を上げていた。
しかも、東郷がサムライ・プットで1929年、あの大暴落で買い支えの形で出資したことにより、今や日本海軍はIBMの筆頭株主でもある。
「ええ、素晴らしい機械です。おかげで我々の『事務作業』は劇的に効率化されました」
東郷は微笑んだ。
「ですが、ワトソン社長。今日は計算機の注文ではありません。
我々は、貴社の『THINK』する力を、別の分野に応用していただきたいのです」
東郷は、鞄から一枚の仕様書を取り出した。
『多変数連続方程式の、電気的リアルタイム演算装置の共同開発に関する提案』
「……リアルタイム演算?」
ワトソンは眉をひそめた。当時のIBMの機械は、パンチカードを読み込んで集計・分類する「バッチ処理」が基本だ。
「そうです。例えば、時速300キロで立体的に移動する物体(航空機)の、未来位置を予測する方程式。
自船の速度、風向、風速、気温、砲弾の初速、地球の自転(コリオリの力)……これら十数個の変数を、瞬時に、かつ連続的に解き続け、その答えをモーターの回転角として出力する電気式の頭脳です」
ワトソンの目が、経営者から技術者、そして野心家のそれへと変わった。
「提督。それはスペリー社のような『アナログ・コンピュータ』の領域です。
我々も研究はしていますが、歯車やカムを使った機械式では、計算速度と複雑さに限界が来ている。もしそれを電気回路(リレーや可変抵抗器)でやれと言うのなら、莫大な研究開発費がかかりますぞ。提督、我が社は火器管制会社ではありません」
「知っています」
「なら、なぜIBMに?」
東郷は、壁の“THINK”を見上げた。
「スペリーは、米海軍の脳です。すでに神経がつながっている。ならば私は、それを買わない。別の脳を作る」
「……我々を、軍需企業にするおつもりですか」
「違います。計算企業にするのです。
まず外れた砲弾を数えなさい。
次に、なぜ外れたかを分類しなさい。
最後に、その分類を機械へ刻みなさい。
砲術とは、そこから始まる」
東郷は、迷いなく小切手帳を取り出した。
「開発費として即金で500万ドル。試作機が完成した暁には、我が国が特許使用料を支払い、国内の海軍工廠で量産します。
もちろん、この技術を貴社が民間転用することに制限は設けません。
どうです? アメリカ政府が緊縮財政で研究費を出し渋っている今、我々をスポンサーにして、世界の計算機技術の覇権を握りませんか?」
ワトソンにとって、断る理由など一つもなかった。
彼は即座にペンを取り、契約書にサインした。
「……THINK。我々は考えましょう、閣下。貴国の砲弾が、空飛ぶハエを的確に叩き落とせるように」
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時:1931年(昭和六年)、秋
場所:東京湾沖、対空射撃演習海域
秋晴れの空の下、舞鶴のドックで急ぎ改装を終えたばかりの一隻の特型駆逐艦『吹雪』が、波を切って進んでいた。
その甲板には、これまでの主砲に変わり、スウェーデン・ボフォース社から届いたばかりの『九二式長12.7cm連装高角砲』の試作品が3基搭載されている。
そして艦橋の上には、奇妙なドーム型のカバーで覆われた装置が据え付けられていた。
ハゼマイヤー・九一式射撃指揮装置(日本海軍仕様・試作型)。
演習の視察に訪れた山本五十六少将は、艦橋の隅で腕を組み、その装置の動きをじっと見つめていた。
「敵機、来ます!」
見張り員の叫び声。
上空4,000メートル。標的の吹き流しを曳いた複葉機(標的機)が、エンジン音を轟かせて急降下を開始した。
「……さあ、見せてもらおうか。オランダの『魔法』とやらを」
山本が呟く。
射撃指揮所の防空指揮官が、ハゼマイヤーの双眼ファインダーを覗き込む。
艦は波に揺れ、大きくローリングしている。だが、指揮官の指が操作するハンドルは、驚くほど滑らかに動いていた。
「目標捕捉! 追尾開始!」
指揮官がファインダーの十字線を標的に合わせる。
その瞬間。
艦上の12.7cm高角砲の巨大な砲塔3基が、無人のまま、不気味なほどの速さで自動旋回を始めた。
射撃指揮装置の動きに、寸分の狂いもなく「同期」しているのだ。
砲員たちは砲塔の中で、ただ装填作業と安全確認を行うだけ。照準用のハンドルには、誰の手も触れていない。
「……信じられん」
同行していた従来の砲術長が、息を呑んだ。
「あの重い砲塔が、まるで指揮官の目線そのもののように動いている!」
「撃ち方、始めェッ!!」
連続する轟音。
ボフォース社の自動装填機構が火を噴き、1分間に15から18発という驚異的なペースで12.7cm榴弾が空へ吸い込まれていく。
空に、黒い炸裂煙の壁ができた。
それは、これまでの「点」で狙う射撃とは全く違う、「面」で敵の進路を塗りつぶす圧倒的な弾幕だった。
数秒後。
急降下してきた標的の吹き流しは、その黒い壁に突っ込み、文字通り、粉々になって海面に散った。
艦橋が、割れんばかりの歓声に包まれた。
山本五十六は、満足げに頷いた。
「今回、標的はまっすぐ降りてきた。実戦のアメリカ機は、もっと汚く、もっと低く、もっと怖い。
だが、我々は初めて“追える砲”を手に入れた」
堀悌吉は、小さく息を吐いた。
「砲だけでは勝てない。計算機だけでも勝てない。
だが、IBMが外れた弾を数え、ハゼマイヤーが空を見て、GEが電気を流し、ボフォースが撃つ。
それらが同じ言葉で話し始めた時、連合艦隊は初めて“学習する防空網”になる」
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