18,000トンの奇跡
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
「……ふざけるな、ハルゼー大佐! 貴様は海軍を餓死させる気か!」
海軍兵站局長のウィリアム・リーヒ少将の怒号が、作戦部長室の窓ガラスをビリビリと震わせた。
彼はハルゼーが意気揚々と提出した『民間客船の特設空母化計画』の書類を、机の上に叩きつけた。
「『マリポサ』『マンハッタン』など、建造中の最新鋭客船5隻を有事に空母へ改装するだと? 確かに素晴らしいアイデアだ。航空戦力は倍増するだろう。
……だがな、大佐! その船を空母にしたら、誰がハワイやフィリピンに海兵隊の師団と弾薬を運ぶんだ!」
ハルゼーは顔をしかめた。
「それは……他の民間徴用船をかき集めれば……」
「どこに集める船がある!?」
リーヒは、血走った目でハルゼーを睨みつけた。
「我が国が持っていた、兵員と物資を高速で運べる大型輸送船……『ハリス級(535型)』16隻は、東郷一成の野郎が小切手一枚で根こそぎ日本へ持っていっただろうが!
今、我が国に残っている外洋輸送船は、10ノットそこそこでしか走れない鈍足の『ホグアイランダー』ばかりだぞ!」
リーヒは、太平洋の海図を指差した。
「いいか。有事の際、鈍足の輸送船団を組んで太平洋を渡れば、日本の潜水艦や特型駆逐艦の格好の餌食になる。
高速で自力突破できる優秀な船は、君が今、空母にすると指定したこの5隻くらいしか残っていないんだぞ!」
ハルゼーは絶句した。
隣にいたマーク・ミッチャー中佐も、青ざめて言葉を失った。
「……提督。我々は……」
「そうだ」リーヒは呻くように残酷な事実を宣告した。
「……空母は増えます。ですが、我が国から『1回の航海で数万人の部隊を、護衛なしで安全かつ迅速に海外展開する能力』が、完全に消滅します。
……兵站局長として申し上げます。これは戦争に勝つ前に、戦争を維持できなくなる自殺行為です」
作戦部長室は、死に絶えたような沈黙に包まれた。
プラット作戦部長も、沈痛な顔で黙り込むしかなかった。
だが、それでも。
この5隻の予備空母化計画を白紙に戻すという選択肢は、もはやプラットにも残されていなかった。
「……背に腹は代えられん」
プラットは、呻くように言った。
「空の傘がなければ、そもそも艦隊はハワイから出撃すらできないのだ。輸送船の不足は、古い商船をかき集めて何とかするしかない。……今は、空母だ」
プラットが絞り出すように下した決断を聞き、リーヒは深い絶望と疲労感とともに、重く肩を落とした。
なお、これをリーヒから非公式に聞かされた当時の米海兵隊の伝説的猛将、スメドリー・バトラー少将は、クアンティコ海兵隊基地の司令官室で、マホガニーの机を文字通り叩き割らんばかりの勢いで激怒した。
「……海軍の提督どもは、全員梅毒にでもかかって脳みそが腐っちまったのか!!」
バトラーの咆哮は、基地の廊下にまで響き渡った。
彼は二度の名誉勲章を受章した海兵隊の英雄であり、軍や政府の欺瞞に対して一切の忖度をしない男として知られていた。
「ただでさえ予算不足で、俺たち海兵隊の連中は大戦の余り物のボロボロの装備で訓練させられている!
そこへ来て、俺たちを前線へ運ぶための『高速輸送船(ハリス級)』16隻を、日本人の小切手と引き換えに売り払った! これだけでも万死に値する!」
バトラーは、血走った目で報告書の写しを丸めて投げ捨てた。
「その上さらに! 最後に残った大型客船5隻までも、有事には上部構造物をひっぺがして空母にするだと!?
じゃあ聞くが、ハワイやグアムやフィリピンが日本の手に落ちた時、俺たち海兵隊員はどうやってそこへ上陸するんだ?
……丸太でイカダを組んで、手漕ぎで太平洋を渡れとでも言うつもりか!!」
副官のホーランド・スミス少佐が、青ざめた顔で進言した。
「……将軍。海軍は、『民間貨物船(ホグアイランダー級など)を徴用して海兵隊を運ぶから問題ない』と言っていますが……」
バトラーは、怒りを通り越して狂ったように笑い出した。
「ハハハハ! 傑作だ! 俺は今まで『戦争は最大のペテン(War is a racket)』だと言い続けてきたが……。
まさか仮想敵国の日本じゃなく、味方のペテンにかけられて一番の貧乏くじを引かされるのが、俺たち海兵隊になるとはな!」
後にバトラーは軍を退役し、ウォール街の資本家や軍産複合体を痛烈に批判する名著『戦争はペテンだ』を執筆することになる。
だが、この1930年の時点ですでに、彼はアメリカという国家の「統合的な戦略の完全な欠如」と「資本主義の病理」を、海兵隊が流すであろう未来の血の量で、正確に悟り絶望していた。
「……スミス」
笑い収めたバトラーは、氷のように冷たい声で言った。
「海兵隊員たちに伝えろ。
『海軍の船はアテにするな。あいつらは空を飛ぶおもちゃ(飛行機)で遊ぶのに夢中で、俺たちのことなど忘れた』とな」
⸻
場所:同日、海軍省・艦船局(BuC&R)設計室
兵站の現実を突きつけられ、肩を落として設計室に戻ってきたミッチャー中佐を待っていたのは、さらに絶望的な「数字の壁」だった。
「……ミッチャー中佐。あなたがた航空局の要求を全て満たすとなると……物理的に不可能です」
主任設計官が、疲れ切った顔で図面から目を上げた。
目の前にあるのは、残された条約枠「3万6,000トン」で建造する、新型空母2隻の設計図。
1隻あたり「1万8,000トン」の枠だ。
「日本の防空網を突破するためには、大量の急降下爆撃機と雷撃機を同時に発艦させる必要があります。
そのためには、広大な飛行甲板と、70機以上の搭載機数、そして日本の水雷戦隊を振り切る33ノット以上の速力が絶対条件です。
……さらに、敵の航空攻撃に耐えうるだけの装甲も必要だ」
ミッチャーが条件を復唱すると、設計官は自嘲気味に笑った。
「中佐。魔法使いじゃないんですよ、我々は。
その要求を満たそうとすれば、船体の長さは800フィート(約240メートル)を超えます。強力なエンジンも必要です。
どう計算しても……基準排水量は『1万9,800トン』を下回りません」
「……1,800トンの重量超過か」
ミッチャーは額の汗を拭った。
「削れないのか? 装甲を薄くするとか……」
「これ以上削れば、日本の爆弾を1発食らっただけで、機関部が貫通して沈みますよ。それに急降下爆撃機を運用するなら、航空機用エレベーターなどの重量も馬鹿にならない」
1万8,000トンの枠に、2万トンの船を押し込む。
それは、どうやっても不可能な算数だった。
「……ならば、1隻だけを2万1,000トンの大型空母にし、もう1隻を1万5,000トンの小型空母にするか……?」
ミッチャーが妥協案を口にした瞬間、背後から低い声が響いた。
「駄目だ。それでは持続可能な艦隊が組めない」
航空局長、ウィリアム・モフェット提督だった。
「我々には、太平洋のどこへでも出ていける『同等性能の主力空母』が絶対に2隻必要なのだ」
「しかし、提督。条約のトン数制限が……」
設計官が反論しようとした時、モフェットは冷たい瞳で彼を遮った。
「設計官。この船の図面上の基準排水量は、いくらだね?」
「は? ですから、どう計算しても1万9,800トン……」
「違う」
モフェットは、図面の数字を指先でトントンと叩いた。
「……『1万9,800トン』ではない。この空母の基準排水量は、『1万8,000トン』だ。……そうだろう?」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
ミッチャーも、設計官も、モフェットが何を言っているのか、すぐに理解した。
「て、提督……それは……『嘘』をつけ、と?
条約違反の過少申告をしろと仰るのですか!?」
アメリカ合衆国は、ワシントン条約において「法の支配」と「厳格なトン数制限」を世界に声高に主張してきた国だ。自らが言い出したルールを、自らが破る。それは国家の威信を泥に塗る、あってはならない行為だった。
「日本が『龍驤』をオランダに売り飛ばしたとき、我々を法の抜け穴で弄んだのを忘れたか?」
モフェットの声は、地を這うように低く、そして暗い決意に満ちていた。
「連中は、我々が馬鹿正直にルールを守るお人好しだと知っている。だからやりたい放題なのだ。
……なら、教えてやらねばならん。アメリカ人は、怒らせれば悪魔にでも魂を売るということをな」
モフェットは、設計官の胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
「いいか。条約の標準排水量の算定から、載せないことにした物を徹底的に押し出せ。
予備の弾薬、一部の補用品、後日搭載予定の対空火器、そして……乗員の居住設備。
カタログスペック上は18,000トンだと言い張れ。そして就役後に、なし崩し的に装備を積み増すのだ!」
「……議会が、そして国務省のスティムソン長官が黙っていませんよ! バレたら国際問題です!」
「バレた時は、私が全責任を負って軍法会議に立つ。
だが、これはアメリカ合衆国を守るための嘘だ!
……正直に申告して、船を小さくして、太平洋のど真ん中で日本に沈められるのと、嘘をついてでも生き残る船を造るのと。……君は、水兵たちにどちらの船に乗ってほしいのだ!」
設計官は、言葉に詰まった。
ミッチャーもまた、拳を固く握りしめていた。
誇り高きアメリカ海軍が、敵に勝つために、自らの尊厳を捨てて「泥」をすする決断を下した瞬間だった。
「……分かりました、提督」
設計官は、震える手で図面の数字を消しゴムで消した。
「……本艦、ネームシップ『ヨークタウン(CV-5)』の基準排水量は、条約制限一杯の『18,000トン』として、書類を偽造……いえ、作成いたします」
「頼む」
モフェットは深く息を吐き出し、目を閉じた。
「……東郷一成。我々はついに、君たちと同じ泥沼に足を踏み入れたぞ。
誇りを捨て、ルールを破り、ただ勝つためだけに執念を燃やす……君たちが望んだ、本当のアメリカ海軍の姿だ。
……せいぜい、高くつく覚悟をしておくことだな」
1930年、夏。
ワシントンの設計室で、アメリカ海軍は自らの手で「18,000トンの嘘」をついた。
それは、彼らが東郷の圧倒的な「兵站と金融の暴力」の前に追い詰められながらも、決して太平洋の覇権を諦めないという、狂気にも似た反撃の狼煙であった。
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時:数週間後
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成は、アメリカの新聞各紙が一斉に報じた『新世代航空母艦・建造計画発表』の全面広告を眺めていた。
『18,000トンの奇跡! 米海軍、条約制限内で90機搭載の高速空母を実現!』
『諸君。われわれは条約の制約を破ることなく、納税者に不要な追加負担を強いることもなく、しかも日本海軍に対して質的優位を維持しうる艦を得た。
これは単なる新造艦ではない。アメリカの工学、合理化、管理能力の勝利である!
一部には「あと2,000トン必要だった」などという机上の議論もあるが、それは旧式な設計思想に囚われた見解にすぎない。
我々は、重量を足すのではなく、重量を賢く使う時代に入ったのである――』
大々的なプロパガンダ記事だ。
副官の樋端大尉が、怪訝な顔で言った。
「……少将。アメリカの造船技術は、そこまで進んでいるのでしょうか?
1万8,000トンで、90機搭載で、32.5ノット。……我が国の『赤城』は2万7,000トンあってようやく同等の性能を出しているというのに。
まさか、我々の知らない未知の装甲素材でも開発したのでしょうか」
「未知の素材、か」
東郷は、新聞を放り投げてクックッと低く笑った。
「私なら『必要なものを最初から積まないことにした』と書くが」
「……と、申されますと?」
「樋端君。条約制限が新しい設計を生んだのではない。
条約制限が会計上の創作文学を生んだのだ」
東郷は、手元の裏紙にささっと計算式を書いた。
「90機もの航空機を運用するなら、当然、それに見合うだけの航空燃料、予備のエンジン、弾薬、そして整備兵の居住区が必要だ。
これらを18,000トンに押し込むことは、物理学的に不可能だ」
「では、どうやって……」
「帳簿から消したのさ」
東郷は冷徹に言い放った。
「予備のポンプ、二重化された消火配管、予備部品。……彼らは条約の規定トン数(標準排水量)に入らなくて済むように、これらを平時は積まない、あるいは後から改装で積むことにして、帳簿上から消し去ったのだ」
樋端は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……つまり、防御力とダメコン能力を削って、数字の辻褄を合わせた、と?」
「そうだ。彼らは空母を造ったのではない。巨大なガラスの剣を造ったのだ。
だが、侮ってはならん。アメリカという国は、欠陥品を量産しながらその欠陥を工業力で殴り潰す国だ」
東郷は、窓の外を見た。
アメリカの議会議事堂の白いドームが見える。
「彼らは、アメリカの工学と管理能力の勝利だと誇っている。
だが、私には彼らの悲鳴が聞こえるよ。
『頼むから、我が国が誇る無敵の工業力と兵站網で、あとからこの船を助けてくれ!』という、技術者たちの断末魔の叫びがね」
このヨークタウンは、未来の空母ではなかった。
それはレキシントン三隻という過去の栄光が、未来の設計官に支払わせた手形だった。そしてその手形の裏書きには、ただ一語だけが書かれていた。
戦争。
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