ヴィンソンへのギャップ
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:ワシントンD.C. 合衆国議会議事堂・上院金融委員会室
その部屋は、世界で最も権威ある議決機関の威厳と、世界で最も往生際の悪い男たちの脂汗で満たされていた。
上院金融委員会。議題は『外国発行証券規制法案』――通称「NCPC封じ法案」の審議である。
委員長のリード上院議員(共和党・保守派)は、手元の木槌を叩く気力さえ失っていた。彼の目の前には、財務省から呼び出された次官補と、FRBの理事が、まるで被告人のように青ざめて座っている。
「……いいかね、諸君」
リード委員長は、老眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「最高裁は、ボールを我々に投げた。『NCPC債が通貨かどうかは、議会が決めることだ』とな。
だから我々は今、ここで決めねばならん。NCPC債は、通貨なのか? それとも、ただの紙切れなのか?」
だが法案の草案は赤ペンで真っ赤に修正され、見るも無惨な姿になっていた。
「……駄目だ。この文言は使えん」
財務省から派遣された首席法務官が、頭を抱えながら言った。彼が指さした箇所には、『日本海軍が発行する代替通貨(Alternative Currency)』と書かれていた。
「『通貨』という単語は削除してください。絶対にです」
共和党のタカ派議員が、机を叩いて噛み付いた。
「何を言っているんだ! 実際、国民はあれでパンを買い、家賃を払いだしているんだぞ! 通貨以外の何物でもないだろう!」
「だからこそ、です!」
法務官は、血走った目で議員を睨み返した。
「議員。もし合衆国政府が、公式な法律の中でNCPC債を『通貨』と定義してごらんなさい。
それは、世界に向けてこう宣言するのと同じです。
『アメリカ合衆国は、日本海軍が発行する証券を、ドルと並ぶアメリカ国内の決済手段として公式に認めました』と!」
部屋が静まり返った。
「ならば!」民主党の議員が吼えた。
「『通貨ではない』と定義すればいい! 無価値な紙切れだと断定し、取引を禁止すればいいではないか!」
財務省次官補が、首を横に振った。
「それも……できません」
「なぜだ!」
「……物々交換の自由を侵害するからです」
次官補は、苦渋の表情で説明を始めた。これが「詭弁の迷宮」への入り口だった。
「NCPC債は、表向き『任務の記録』です。日本側は、あれを一種の記録物、謝意の証、あるいは軍内の交換券にすぎないと説明している。
もし我々がこれを禁止すれば、国民が感謝状を交換し合う自由まで規制することになる。財産権、契約自由、州際通商、場合によっては表現の自由にまで争点が及ぶ恐れが……」
議場がざわめいた。
そこで、ハーバード大学から招かれた経済学者が、もっともらしい顔で証言台に立った。彼は東郷のシンパではなく、純粋に頭の固い学者だった。
「……議員の皆様。冷静になりましょう。
そもそも、このNCPCなるものは、経済学的に見て通貨の要件を満たしておりません」
彼は黒板にチョークで書き出した。
「第一に、国家による強制通用力がない。
第二に、発行量が中央銀行によって管理されていない。
第三に……これは軍票に近い。米軍のPX(酒保)で使うチケットと同じです。
たまたま、そのチケットが人気で、たまたま、それでGMの車が買えるようになっているだけです」
「たまたまで車が買えてたまるか!」
野次が飛ぶ。だが学者は眼鏡を押し上げた。
「ですが、実態はそうなのです。これを通貨と呼ぶのは、経済学への冒涜です。これは……そう、日本特有の文化的慣習に基づく、広域バーター取引券とでも呼ぶべきでしょう」
詭弁だ。誰もが分かっていた。
だが、その詭弁は甘美だった。
「これは通貨ではない」と自分に言い聞かせれば、ドルの敗北を認めずに済むからだ。
夕方になり、委員会室の窓は鈍い橙色を帯びた。証人たちは順に退席し、議員たちは草案を抱えたまま沈黙し、速記官だけが機械的に記録を整えていた。
その年、合衆国政府はNCPC債に関する公式見解の公表を延期した。
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場所:ワシントンD.C. アーミー・アンド・ネイビー・クラブの特別個室
その部屋の暖炉には夏ということで火が入っていなかったが、集まった男たちの懐はシベリアの永久凍土よりも冷え切っていた。
次期海軍作戦部長ウィリアム・プラット大将と、兵器局長ウィリアム・リーヒ少将。
彼らがこの極秘のディナーに招いたのは、下院軍事委員会の重鎮であるカール・ヴィンソン下院議員(民主党・ジョージア州)であった。
「……提督方。ステーキは美味いが、お話のほうは全く美味くないな」
ヴィンソン議員は、葉巻の煙を吐き出しながら首を横に振った。
「フーヴァー大統領は予算均衡の亡者だ。街には失業者が溢れ、農民は首をくくっている。そんな時に『新しい巡洋艦と空母を造らせてくれ』と議会で叫べば、私は次の選挙で落選する。
……悪いが、海軍は今のまま、錆びた駆逐艦で我慢してくれ。日本もロンドン条約でおとなしくする、と約束したではないか」
ヴィンソンは海軍の最大の理解者だが、政治家としてのリアリズムを持っていた。明確な「脅威」がなければ、議会は1セントも金を出さない。
プラットとリーヒは視線を交わした。
(……来たぞ。予定通りだ。ここからが『本番』だ)
プラット大将は、ナイフとフォークを置き、芝居がかったほど重々しい声で口を開いた。
「……議員。貴方は大きな勘違いをしておられる。我々は外国の軍艦と戦うための予算を求めているのではないのです」
「では、何と戦うと?」
「我が国の経済的独立を破壊する、見えざる侵略者とです」
プラットは、一枚のNCPC債のコピーをテーブルに叩きつけた。
「最高裁の判事どもも、IRS(国税局)の無能な役人どもも、この紙切れを法的に止めることができなかった。
結果どうなりました? ウォール街の、いや、合衆国の資金は合法的に非課税で日本海軍に吸い上げられ、我が国の富は流出し続けています」
プラットは、テーブルの上の塩入れを日本の位置に、胡椒入れをアメリカの位置に置いた。
「議員。法で止められず、税でも縛れず、裁判でも名を与えられない。ならば国家が最後に使う言語は一つ。……艦隊です」
プラットは、塩入れと胡椒入れの間に、銀のナイフをドンッと置いた。
「日本がNCPC債で我々の企業を買収し、南米から資源を吸い上げているその航路。
我々合衆国海軍が、強力な巡洋艦隊と空母をもってその航路を睨みつけ、『これ以上我が国の経済圏を侵すなら、実力で排除する』という圧倒的なプレッシャーをかけなければならないのです!
いいですか、議員。我々に必要な物は単なる大砲ではない!
日本の会計帳簿を砲撃で監査できる、16インチ砲を持った税務調査官なのです!!」
ヴィンソンは、ぽかんと口を開けた。
経済的な覇権争いを、力技で「物理的な砲艦外交の必要性」にすり替える、すさまじいアクロバット論法だった。
だがその隙を与えず、今度はリーヒ少将が身を乗り出した。
「それに議員。貴方は失業者が溢れていると仰った。
では、その失業者たちが今、どこで何をしているかご存知ですか?」
リーヒは、数枚の写真をテーブルに並べた。
サンフランシスコや長崎などの造船所で、日本のために働くアメリカ人労働者たちの姿だ。
「彼らは我々の国に見捨てられ、日本海軍がダミー会社経由でばら撒く『NCPC債』に群がり、日本の軍艦を造っています。
このままでは、アメリカの優秀な造船工、溶接工、電気技師が、文字通り日本人に魂を買い取られてしまいますぞ!」
「なっ……! それは由々しき事態だ……!」
「これを引き止める方法は一つしかありません。
我々合衆国海軍が、彼らにアメリカのための仕事を与えるのです!
空母一隻とは、ただの船体ではありません。何万人分もの給料袋であり、工場の煙突であり、閉まりかけた町工場の門をもう一度開ける鍵です。
……議員。海軍の建艦計画こそが、日本からアメリカの労働者を取り戻す『究極の失業対策(公共事業)』なのです!!」
ヴィンソン議員の目が、ギラリと光った。
(……これなら「雇用創出」という最高の大義名分で、議会を説得できるかもしれん)
政治家として喉から手が出るほど欲しいロジックだった。
だが、プラットとリーヒの「狂気のアピール」は、まだ終わっていなかった。
「……そして議員。最後に、最も恐ろしい事実をお伝えしなければなりません」
プラット大将の声が、ホラー映画の語り部のように低く、不気味に沈んだ。
「日本の戦艦と我が国の戦艦が撃ち合う。その勝敗を分けるのは何だと思われますか?」
「そりゃあ、大砲の大きさと、装甲の厚さだろう?」
「半分はその通りです」
プラットは、ドン! とテーブルを叩いた。
「だが、残り半分は『ビタミンC』です!!」
「……は?」
ヴィンソンは、今度こそ完全に理解が追いつかず、間抜けな声を出した。
プラットは、カバンから新聞記事を取り出した。
『JAP NAVY GOES CITRUS! FROM BATTLESHIPS TO BREAKFAST BEVERAGES!』
(日本海軍、柑橘類へ! 戦艦から朝食の飲み物へ!)
「議員。日本の水兵たちはこれにより、赤道直下の海で、フロンガスが循環するエアコンの効いた快適な居住区で眠り、絞りたてのオレンジの風味を保った冷たいジュースを飲み、GE製のオーブンで焼かれた新鮮な豚肉を食べることができるようになります」
プラットは己の胸ぐらを掴み、悲痛な声で叫んだ。
「それに比べて我が合衆国の水兵はどうです!?
予算不足で換気扇も回らない華氏100度(約38℃)のブリキのサウナの中で、腐りかけた塩漬け肉と生温い水をすすらされることになる!
……こんな状態で、戦争に勝てますか!?」
「そ、それは……確かに士気に関わるな。改善せねば……」
「士気の問題ではないのです!!」
リーヒ少将が、狂気じみた目を見開いて絶叫した。
「議員! 日本は最新の栄養学と圧倒的な居住性を用いて、全く疲労を知らない、病気にも罹らない『超人兵士』を、太平洋の真ん中で大量培養しているのです!!
この居住性とビタミンの致命的ギャップを放置すれば、いざ戦争になった時、我が国の虚弱な水兵たちは、日本のビタミンCに溢れた超人たちの前に、指一本触れることなく全滅しますぞ!!」
ヴィンソンは、完全に圧倒されていた。
「……ち、致命的な、ギャップ……! 超人兵士……!」
「そうです!!」プラットがたたみ掛ける。
「この快適さのギャップを埋めるためには、我が軍も巨大な発電機と巨大な冷蔵庫を積めるだけの、圧倒的に巨大な船殻を持つ新鋭艦を、今すぐ、大量に建造しなければならないのです!!
これは贅沢ではない! 合衆国の未来を守るための、血の叫びなのです!!」
ゼェゼェと息を切らす二人の提督。
ヴィンソン議員は、テーブルの上のオレンジジュースの新聞記事と、NCPC債のコピーを見つめた。
そして彼は深く、深く息を吐き出し……ニヤリと、極悪な政治家の笑みを浮かべた。
「……素晴らしい」
ヴィンソンは、拍手をした。
「君たちの言っていることは、法廷では笑われる。学者に見せれば顔をしかめる。だが議会では違う。議会で勝つのは、正しい話ではない。通りのいい話だ。
そして今の君たちは、それを持ってきた」
ヴィンソンは立ち上がり、ワイングラスを掲げた。
「『日本海軍の不法な経済侵略からドルを守り!』
『アメリカの労働者を日本の魔手から奪い返し!』
『恐るべき日本の“ビタミン超人”に対抗するための巨大艦を造る!』
……これなら、孤立主義者の田舎議員どもも、不況で苦しむ労働組合も相手にできるかもしれん。
すぐには無理だ。だが、海軍予算の増額法案の土台を、私が作ってやろう!」
プラットとリーヒは、顔を見合わせて安堵の息を漏らした。
だが、その心の中では、自分たちがついた「壮大な嘘」に冷や汗を流していた。
(……許せ、東郷一成)
プラットは、心の中でかつてアナポリスを卒業した怪物に語りかけた。
(我々が議会から予算を引っ張り出すためには、君には『ドルを破壊する経済の吸血鬼』であり、『ジュースで超人を培養するマッドサイエンティスト』になってもらわねばならんのだ。
……君がどれほど恐ろしく見えるかのほうが、君が実際に何をしているかより遥かに重要なのだ)
その夜、ワシントンの闇の中で、アメリカの巨大な軍産複合体の「種」が蒔かれた。
それは日本海軍に対する、アメリカ海軍の「恐怖と嫉妬」が生み出した、極めて歪な、しかし強大な産物であった。
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