浮かぶブリキのオーブン
時:1931年(昭和六年)、夏
場所:カリブ海・キューバ沖、アメリカ海軍重巡洋艦『ペンサコラ(CA-24)』艦内
「……クソッ! 暑すぎる!!」
第一砲塔の弾薬庫で、上半身裸の水兵が汗まみれのまま床に倒れ込んだ。
ワシントン海軍軍縮条約の「1万トン」という厳しい制限枠の中で、アメリカ海軍が威信をかけて建造した条約型重巡洋艦『ペンサコラ』。
10門の8インチ砲を積み、32ノットの高速を誇るこの最新鋭艦は、カタログスペック上は世界最強の巡洋艦のはずだった。
だが、その実態は「浮かぶ灼熱のブリキ缶」だった。
1万トンという枠に重武装を詰め込みすぎた結果、極端なトップヘビーとなり、波が少しでも荒れると振り子のように激しく横揺れを起こした。
居住区は極限まで切り詰められ、兵士たちは狭いハンモックで重なり合うように眠る。さらに致命的なトップヘビーを避けるため、上部構造物はペラペラの薄板で作られており、断熱材などという贅沢なものは一切省かれていた。
熱帯にあって、この艦は「浮かぶブリキのオーブン」だった。
艦長室では、艦長が氷の入っていない生ぬるい水を飲みながら、ワシントンからの訓令を睨みつけていた。
『……艦隊ノ錬度維持ノタメ、哨戒任務ヲ継続セヨ。尚、燃料・消耗品ノ追加予算ハ当面承認サレズ』
「……ワシントンの馬鹿どもは、艦内温度が華氏で100度(摂氏約38度)を超えていることを知らんのか」
鋼鉄の甲板は、文字通り目玉焼きが焼けるほどの温度に熱されていた。
艦内の空気は、もはや「空気」と呼べる代物ではなかった。
油と汗、そして腐りかけた食材の臭いが入り混じった、湿度90%を超える熱気の塊。換気扇は回っているが、ただ熱風を艦内にかき回しているだけで、温度を下げる役には全く立っていない。
「……クソッ! また肉が腐ってやがる!」
ギャレーで、巨漢のコック長が氷の溶け切った保冷庫に怒りの蹴りを入れた。
「一週間前に積み込んだばかりの豚肉だぞ! なんで冷蔵庫のモーターが止まってるんだ!」
「しょうがないですよ、チーフ」若い水兵が、汗でドロドロになったシャツを仰ぎながら答える。
「機関長が『電力が足りない。これ以上コンプレッサーを回すと、主砲の旋回モーターの電力が落ちる』って、電源を切っちまったんです。予算削減で、発電機の予備部品も入ってきてないですし」
「じゃあ今日の夕食はどうするんだ! また塩漬け肉と干し豆の『シンチ(泥)』か!」
「……みんな、もう三日連続でアレですよ。昨日は第2砲塔の連中が、飯が不味いってストライキ寸前でした」
カリブ海の容赦ない太陽が薄い鋼板を焼いている。換気が止まった艦内は、まさにサウナだった。
食堂に集まった水兵たちの前に配られたのは、熱気でドロドロに溶けたマーガリンと、硬い塩漬け肉、そして生ぬるい水だった。
「……おい。なんだこの肉は。腐りかけてるぞ」
水兵の一人が、皿を叩きつけた。
「我慢しろ。冷蔵庫のコンプレッサーが壊れてるんだ。修理の予算が下りて母港に帰るまでは、これで食いつなぐしかない」
古参の下士官が、諦めたように言う。
「冗談じゃねえ! 俺たちは世界一の国の海軍だろうが!
なんで俺たちの国には、GEやウェスティングハウスみたいな世界一の家電メーカーがあるのに、俺たちの船には氷一つ作る機械もないんだよ!」
若手水兵の怒りの矛先は、もはや敵国ではなく、自国の政府へと向かっていた。
「……金がないんだよ、この国の軍隊には」
別の水兵が、自嘲気味に笑った。
「聞いたか? 日本の新しい船の話。
あいつらの船には、GEの最新型の大型冷蔵庫が何台も積まれていて、毎日冷たい水が飲めて、新鮮な肉が食えるらしいぞ。
……なんでも、日本の海軍がGEの株を買い占めて、自分たち用に一番いい機械を全部持っていっちまうから、アメリカ海軍に回す分が残ってないんだとよ」
「……は? 嘘だろ?」
「嘘なもんか。俺の親父はGEの工場で働いてるが、毎日『JAPAN』ってスタンプを押した木箱ばっかり出荷してるって手紙に書いてあったぜ」
艦内に、絶望的な沈黙が落ちた。
自分たちが乗っている、この薄っぺらくて揺れる、サウナのような軍艦。
その一方で、太平洋の向こうの「仮想敵」は、自分たちの国の企業が作った最新鋭の家電に囲まれて、涼しい顔で冷たい水を飲んでいる。
「……ふざけんな」
最初に皿を叩きつけた水兵が、涙声で呟いた。
「俺たちは、日本のために働くGEの下請け工場を守るために、こんな鉄の棺桶に乗せられてるのか……?
戦争になったら、俺たちは冷たい水を飲んでる奴らに、この腐った肉を食って勝てって言うのかよ!」
その悲痛な叫びは、重巡『ペンサコラ』の灼熱の艦内を、むなしく木霊するだけだった。今の彼らにとって、来るべき戦争よりも恐ろしい現実は「今日の夕食」だった。
⸻
場所:東京・霞が関、大蔵省・特別監査室
その部屋には、大蔵省の賀屋興宣、海軍省の経理局長、そして軍民から招かれた二人の専門家が集められていた。
机の中央に置かれているのは、銀色に鈍く光る無地のアルミニウム缶。
大蔵省の賀屋興宣は、その缶を苦々しげに睨みつけていた。
「……海軍がアメリカで始めたという『オレンジジュースの缶詰事業』。初期投資額が460万円(約230万ドル)に達していると聞いております。
軍縮条約下で貴重な外貨を、兵器ではなく嗜好品の工場に注ぎ込む。……我々大蔵省としては、この事業の採算性と国防上の意義について、厳格な監査を行わざるを得ません」
賀屋の言葉に、海軍経理局長は涼しい顔で答えた。
「賀屋君。これは嗜好品ではない。『兵器』だよ。……しかも、自ら利益を生み出す兵器だ」
経理局長は、同席している二人の専門家を指し示した。
「本日は、この『帝国海軍果汁工業』プロジェクトの全貌を説明するため、専門家をお招きしております」
賀屋は腕を組んだまま、冷ややかに応じた。
「まず、アルミは鉄やスズに比べて高価です。それに、無菌充填マシンのような複雑な設備は、民間企業(アメリカン・キャン社など)でも採算が合わずに見捨てられた技術だと聞いていますが?」
その問いに答えたのは、財閥から出向してきている、新進気鋭の財務分析官だった。
「……主計官殿。そこが、この事業の最大の『錬金術』なのです」
分析官は、黒板にキャッシュフローの試算表を書き出し始めた。
「民間企業がこの技術を実用化できなかった最大の理由は、初期投資の重さと需要の不確実性という『死の谷』を越えられなかったからです。
ですが、海軍には約15万人という『絶対に逃げない固定客』が存在する」
分析官のチョークが黒板を叩く。
「海軍は、NCPC債を使ってフロリダにパイロットプラントを建設し、特許を独占しました。そしてその技術を直ちに、台湾のパイナップル、和歌山のみかんへと移植したのです。
軍需としての配給(1日7.5万缶)が、この工場の固定費と減価償却費を完全に吸収する『ベースロード』となります。
そして……本当の利益は、その『余剰生産分』から生まれるのです」
「余剰分、だと?」
「はい。フル稼働時の日産能力は25万缶。軍需を差し引いた17.5万缶が、民間市場へ流通します。
台湾などの安価な労働力と、海軍が独自ルートで調達するボーキサイトにより、製造原価は1缶あたりわずか『4銭』まで圧縮されています。
これを、南米の日系移民や、アジアの高級ホテル、富裕層向けに『10銭』で卸す」
分析官は、計算の最終結果を丸で囲んだ。
「……粗利益率、驚異の53%。
稼働3年目(1933年)以降、このジュース事業は年間で実質330万円以上の純現金収支を叩き出します。
たった3年で、初期投資の460万円を完全回収できる計算です」
賀屋は絶句した。
年間300万円超の利益。当時の感覚で言えば、これは中堅の財閥企業一つ分の純益に匹敵する。それが「ジュースを売るだけ」で手に入るというのか。
「……広告宣伝費はどうなっている?」賀屋が絞り出すように問う。
「ゼロです」分析官は笑った。
「軍の補給ルートに乗せて運ぶだけですから、物流費も実質タダ同然。宣伝すら不要です。なにしろ『海軍御用達の、世界一美味くて腐らないジュース』なのですから」
次に立ち上がったのは、海軍軍令部の後方支援・兵站担当の参謀だった。
「賀屋主計官。数字のマジックは以上ですが、我々軍人にとっての真の利益は、帳簿の上にはありません」
参謀は、太平洋の海図を広げた。
「軍縮条約で、活動海域が飛躍的に拡大した我々は軍艦の保有比率を制限されました。
アメリカの『10』に対抗するには、船の数ではなく『稼働率』を極限まで引き上げるしかありません。
しかし赤道直下の過酷な環境下で、塩漬け肉と乾パンしか食べられない兵士は、すぐに体力を落とし、病に倒れ、艦は寄港を余儀なくされます」
参謀は、銀色のアルミ缶を指差した。
「この『黄金の果汁』が配給されるようになってから、我が軍の将兵の疲労回復速度は劇的に向上しました。
結果として、艦隊の出撃可能日数が大幅に伸びているのです」
参謀の目が、鋭く光った。
「……これは、ただのジュースではありません。
兵士の命を守り、士気を保ち、結果的に条約の不利を、稼働率で相殺するための立派な戦略兵器なのです」
賀屋興宣は、深く椅子に身を沈めた。
軍事予算と固定需要をテコにした財務的錬金術。
そして、兵站と士気向上による非対称の軍事優位。
アメリカの民間企業が「儲からない」と投げ捨てた技術を拾い上げ、海軍という巨大なシステムに組み込むことで、世界最高峰の高収益事業へと変貌させた。
「……東郷一成」
賀屋は、ワシントンにいるあの男の名前を呪うように、しかし深い畏敬の念を込めて呟いた。
「……貴様は、アメリカ人から『果汁の絞りカス』を買ったふりをして、我々に『黄金の果実』をもたらしたというわけか」
大蔵省の特別監査は、「承認」の印を押して終了した。
⸻
時:同じ頃
場所:日本の南方海上、マリアナ諸島沖
一方、太平洋の高気圧の真下にいるはずの、日本海軍・新型一等駆逐艦『綾波』(特型駆逐艦)の艦内。
そこには、カリブ海の『ペンサコラ』とは全く別の世界が広がっていた。
「……おう、山田! 今日の昼飯、なんだ?」
「今日は『海軍特製・オーブン焼きポークカツレツ』であります! あと、冷えたトマトとキャベツのサラダ、……それに、キンキンに冷えた『牛乳』付きです!」
「……牛乳だと!?」
古参の兵曹が、目をひん剥いて素っ頓狂な声を上げた。
「おいおい、嘘だろ? 缶詰の甘ったるい『練乳』じゃなくて、本物の牛乳か!? ここは赤道に近い南の海だぞ、三日で腐るに決まってるだろ!」
「それが、腐らないんですよ。試しに飲んでみてください!」
若い主計兵が、銀色の保冷サーバーのコックをひねり、グラスになみなみと白い液体を注いだ。
兵曹が半信半疑でそれを呷る。
「……っ! 冷てぇ! しかも、牧場で飲むような本物の生乳の味だ!! なんでこんな魔法みたいなことが……」
兵員食堂は、驚くほど快適だった。
天井のダクトからは、かすかな機械音とともに「冷たく乾燥した風」が吹き下ろしている。
イギリスのS型潜水艦から技術を“合法的”に強奪し、アメリカ製のコンプレッサー技術と融合させて完成した、艦載用フロンガス空調システム(エアコン)だ。
「いやあ、極楽だなぁ。昔乗ってた『峯風』の頃は、赤道超えりゃあ甲板でふんどし一丁で寝るしかなかったのによ」
古参の兵曹が、サクサクのトンカツを頬張りながら笑う。
「それもこれも、厨房が新しくなったおかげですよ」
若い主計兵が、自慢げに奥を指差した。
そこにあるのは、かつての石炭焚きの危険で煤まみれのカマドではない。
ピカピカに磨き上げられたステンレス製の調理台。そして、アメリカ・GE製の『大型電熱オーブン』と『電磁調理器』だ。
火を使わないため、厨房の温度は劇的に下がり、火災の危険も激減。
その横には、同じくGE製の巨大な『電気冷蔵庫』が鎮座し、新鮮な肉や野菜、ジュースが山のようにストックされている。
「『交流(AC)電源』を艦の標準規格にしてくれたおかげですぜ。
電力が有り余ってるから、オーブンも冷蔵庫もエアコンも、スイッチ一つで使い放題だ。さらに、あの冷蔵庫に詰まっているオレンジジュースと牛乳は、アメリカから買ってきた『魔法の殺菌機械』を通した特別製なんですぜ」
さらに彼らが食べている肉や野菜は、国内の農村から県を介して制度債で優先的に高値で買い上げられた一級品だ。不況で苦しむ農家を助けるため、海軍は「兵士に最高のメシを食わせる」ことを、事実上の軍事作戦として堂々と実行していた。
艦橋では、艦長が冷たいオレンジジュース(氷入り)を飲みながら、当直将校と談笑していた。
「……艦長。兵の士気は最高潮です。熱中症患者はゼロ。脚気も皆無です」
「うむ。東郷元帥が先日言っておられたな。『兵站とは、弾薬を運ぶことではない。人間の体力を完全な状態で戦場に運ぶことだ』と」
艦長は、冷気の吹き出すダクトを見上げた。
「大砲の弾を撃ち合う前に、すでに勝負はついている、か。
……恐ろしいものだな、『快適さ』という兵器は」
艦長はオレンジジュースを飲み干した。
かつて「月月火水木金金」と精神論で過労死寸前まで兵を扱き使っていた日本海軍は、東郷一成が持ち込んだ「資本と技術の暴力」によって、全く別の組織へと変態を遂げていた。
「精神力で耐える」のではなく、「金と技術で快適にする」
それは、大和魂の否定ではない。
「本当に必要な時のために、兵士の命と体力を極限まで温存する」という、新たな総力戦思想の完成であった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




