黄金の果汁と二人の副官
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
新任の駐米武官副官としてワシントンに着任したばかりの二人の大尉――海兵51期首席の樋端久利雄と、同最下位の木梨鷹一は、東郷一成少将の執務室で、奇妙な「歓迎」を受けていた。
テーブルの上には、二つのグラスが置かれている。
一つは、鮮やかなオレンジ色をした、絞りたてのフレッシュなオレンジジュース。
もう一つは、くすんだ黄土色をした、缶詰から注がれたジュース。
「……さあ、飲んでみたまえ。君たちの『アメリカ初仕事』のテーマだ」
東郷は、ソファに深く腰掛けながら勧めた。
木梨が怪訝な顔をしながら、まず絞りたての方をあおる。
「……美味い! すっきりした甘さ!潜水艦のむさ苦しい艦内でこれを飲めたら、死んでもいいくらいです」
「では、もう一つの方も」
木梨がもう一方のグラスを口にした瞬間、その顔が盛大に歪んだ。
「……ぶっ! なんですかこれ! 鉄の味がする! おまけに変に煮え切ったような、腐ったジャムみたいな風味だ……不味い!」
樋端は口を半開きにしたまま、冷静に分析を始めた。
「……なるほど。前者は絞りたて。後者は従来の『缶詰』のオレンジジュースですね。
柑橘類は酸性が強いため、長時間の加熱殺菌を行うと、缶の金属成分が溶け出し、いわゆる『金属味』が発生する。熱ダメージで風味もビタミンCも完全に破壊されている。これでは商品価値はありませんな」
「その通りだ、樋端大尉。よく勉強しているな」
東郷は満足げに頷いた。
「現在、アメリカで最も持て囃されている『最高の飲み物』は、ビタミンCの宝庫であるオレンジジュースだ。朝食のテーブルに欠かせない。
だが、日持ちがしない。絞りたてしか美味しくないからだ。缶詰にすれば、木梨大尉が悶絶したような『鉄の汁』になる」
東郷は、一枚の資料をテーブルに滑らせた。
「世界の海軍が長年戦ってきた相手は、敵の戦艦ではない。……『壊血病』だ」
木梨の表情が、現場の叩き上げの顔に引き締まった。
「……よく分かります。生鮮食品が尽きた長期航海では、兵士の歯茎から血が出ます。缶詰と乾パンだけの食事では、戦う前に身体が腐っていく。
もし、あの美味しいオレンジジュースを長期間保存して前線に届けられれば……それは『兵器』になります」
「だが、技術的な壁がある」
樋端が、書類をパラパラとめくりながら指摘した。
「風味と栄養を保ったまま微生物を殺菌するには、どうすればいいか。
……閣下。この資料にある『フラッシュ低温殺菌法(HTST)』と『無菌充填(Aseptic Filling)』……これに投資しろ、というわけですね?」
「ご明察だ」
東郷は、自分もまずいジュースをあおった。
「フロリダに、フィリップ・フィリップス博士という柑橘類王がいる。彼は現在、液体を乱流状態にしつつ極短時間(数十秒)だけ高温にさらし、即座に急速冷却する『フラッシュ殺菌法』のプラントを研究中だ。これなら金属味も出ず、ビタミンCも死なない。
そしてもう一つ。アメリカン・キャン・カンパニーのC・オリン・ボールという技術者が、1927年に『HCF(Heat-Cool-Fill)マシン』という、製品を殺菌・冷却した後に“無菌容器”に充填する連続プロセスの特許を取っている」
東郷は、息をゆっくりと吐き出した。
「だが、どちらも致命的な問題を抱えている。
……分かるか、樋端大尉」
「『カネ』ですね」
樋端は、ぼんやりとした顔のまま即答した。
「ボール氏のHCFマシンは、装置が高価でメンテナンスが難しく、現在の民間企業では投資回収が見込めないため、商業的には失敗して放置されているはずです。フィリップス博士の工場も、大恐慌の煽りで大規模な設備投資の資金繰りに苦労しているでしょう」
「その通りだ」
東郷は、二人の若き大尉を見据えた。
「アメリカの民間企業は『採算』が合わなければ、どんなに素晴らしい技術でも捨てる。
だが、我々海軍第一の目的は『利益』ではない。『将兵の命と士気を保ち、戦争に勝つこと』だ。
採算度外視で初期投資を行い、実用化の壁を力技で突破できるのは……世界中で、今の我々『日本海軍(NCPC債)』しかいない」
木梨が、拳を握りしめた。
「閣下。この『魔法のジュース』の工場を、アメリカに作るのですか?」
「最初はな」東郷は頷いた。
「彼らの設備と技術者を買い上げ、フロリダとカリフォルニアの余ったオレンジを買い取って、海軍向けの缶詰をアルミで作らせる。
……だが、本命はそこではない」
東郷は、壁の地図――日本帝国の地図を指差した。
「技術を確立させたら、そのプラントをそのまま日本へ移植する。
台湾や南洋の『パイナップル』。瀬戸内や和歌山の『みかん』。
これらを使って、巨大な『帝国海軍果汁工業』を立ち上げるのだ。
軍需として前線に配給するだけでなく、ペースロードで初期投資を回収した後には民間にも売り出す。
……アメリカの技術で完成させた『最高のジュース缶』で、アジアの市場を制覇する。
木梨、樋端。これが君たちの初仕事だ」
二人の大尉は、顔を見合わせた。
首席とどん尻。全く違う道を歩んできた二人が、今、同じ「恐るべきビジョン」を共有していた。
「……計算は立ちました」
樋端が、虚空を見つめながら口を開いた。
「大恐慌で資金難のボール氏の特許と設備を、NCPC債を絡めたダミー会社経由で底値で買い叩きます。フィリップス博士には『軍需の全量買い取り』を条件に、専用プラントの建設資金を全額融資する。
完全な無菌充填ではなくとも結構です。
缶ベースの熱間充填と衛生ラインの改良だけでも、軍用には十分実用になります。
……民間が諦めた技術を軍の資金(アメリカから吸い上げたドル)で実用化し、スケールメリットが出た段階で特許を独占。数年後には、我々が世界の飲料トラストを牛耳れます」
「……俺は兵站を引きます」
木梨が、ギラギラとした目で言った。
「先日買い取ったばかりの『ハリスクラス(535型)』や、今冷凍船に改造中の元アメさんの装甲巡洋艦に、このジュース缶を山ほど積んで太平洋を走らせましょう。
赤道直下の南洋の同胞や、南米の鉱山で泥にまみれている日系移民たちに、キンキンに冷えた最高のビタミンを届ける。
……少将閣下。こんな美味いものを飲まされたら、兵隊たちは閣下、いやお国のために死ぬまで働きますよ」
「死なせるために飲ませるんじゃない。生き残って、勝つためだ」
東郷は、ニヤリと笑った。
「さあ、行ってこい。フロリダの太陽と、天才技術者たちが君たちを待っているぞ。
……彼らに教えてやれ。『日本帝国海軍』という名の、スポンサーの恐ろしさをな」
⸻
時:数週間後
場所:フロリダ州・オーランド、フィリップス博士の研究所
フィリップ・フィリップス博士は、試作プラントの前で頭を抱えていた。
フラッシュ低温殺菌法の理論は完成しつつあった。だが、それを大量生産ベースに乗せるための巨大な熱交換器や衛生的な充填ラインを建設する資金が、どこにもなかった。
ウォール街の銀行は「オレンジジュースの缶詰にそんな投資はできない」と彼を追い返した。
「……もう終わりか。せっかく、金属味のしない最高のジュースが作れるというのに」
彼が諦めかけたその時。
研究所の前に、黒塗りの車が止まった。
降りてきたのは、仕立ての良い第二種軍装を着た二人の東洋人だった。
一人はややぼんやりしたような男(樋端)と、もう一人は異様に目つきの鋭い男(木梨)。
「フィリップス博士ですね」
そのぼんやりしたような男、樋端が流暢な英語で声をかけた。
「あなたの『魔法のジュース』を、買いに来ました」
「……買ってくれるのはありがたいが、まだ量産設備がないんだ。銀行も金を貸してくれない」
「銀行は必要ありません。我々が『投資』します」
樋端は、アタッシュケースを開けた。中には見慣れぬ証券(NCPC債)と、それを裏付けるJPモルガン発行のドル小切手が入っていた。
「HCFマシンの特許を持つオリン・ボール氏のチームも、すでに我々が雇い入れました。彼の無菌充填技術と、貴方のフラッシュ殺菌法を統合し、このフロリダに『1日アルミ缶5万缶』を生産できる巨大プラントを建設していただきたい」
「ご、5万缶!? 本気か!? 誰がそんなに飲むんだ!」
博士は目玉が飛び出そうになった。
木梨が、ニッと白い歯を見せて笑った。
「俺たちの仲間(日本帝国海軍の将兵)が、太平洋の真ん中で喉を渇かせて待ってるんですよ。
……先生。あんたのジュースで、俺たちの水兵を病気から救ってくれ。金なら、いくらでも出す」
フィリップス博士は、震える手で小切手を受け取った。
民間企業がコストの壁で挫折した「未来の保存技術」が、東洋の海軍の「絶対的な兵站の要求」と「無尽蔵の資金」によって、史実よりも数年早く、そして圧倒的な規模で実用化されようとしていた。
1930年の冬。
アメリカの技術で作られた、黄金色に輝く「日本海軍御用達・特製オレンジジュース」の第一陣が、横浜港に向けて出航した。
その缶の裏には、誇らしげにこう刻印されていた。
『Processed by HTST Aseptic Filling / Provided by Imperial Japanese Navy』
後にこの技術は、日本の台湾や南洋委任統治領へと移植され、東郷が予言した通り「帝国海軍果汁工業」という巨大な産業を生み出すことになる。
東郷の新しい副官たちは、その「初仕事」において、アメリカの技術と日本の兵站を見事に結びつけ、大恐慌の只中で新たな「黄金の果汁(富)」を絞り出すことに成功したのである。
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場所:アメリカ・ニューヨーク、タイムズ・スクエアのニューススタンド
「……またジャップの海軍か! 今度は何を買いやがったんだ?」
不況で職を失い、10セントのコーヒーすら贅沢になった男たちが、タダで読める新聞の掲示板の前に群がっていた。
そこには、ハースト系大衆紙の巨大な見出しが躍っていた。
『JAP NAVY GOES CITRUS! FROM BATTLESHIPS TO BREAKFAST BEVERAGES!』
(日本海軍、柑橘類へ! 戦艦から朝食の飲み物へ!)
『脅威は去った! 極東の提督たち、フロリダのオレンジ農園に巨額投資!』
『“日本ジュース海軍”、我が国のポンコツ機械(HCFマシン)を高値でお買い上げ!』
記事には、こんな論説が書かれていた。
「読者諸君、安心してくれたまえ。軍縮条約で重巡洋艦を造れなくなった日本海軍は、ついに狂ったようだ。彼らは貴重な外貨を、大砲でも装甲板でもなく『オレンジジュースを長持ちさせる機械』という、主婦の趣味のような代物に何百万ドルも注ぎ込んだのだ。
彼らは太平洋を渡って、我々にジュースの訪問販売でもしに来るつもりだろうか? 大いに結構。我が偉大なる合衆国海軍は、16インチ砲で彼らのオレンジを絞ってやる用意がある!」
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