交流
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:サンフランシスコ、フェアモント・ホテルの一室
「……いっ、痛ぇ……! 目が、目の中に焼けた砂でも入ったように痛い……!」
海軍造船中将・平賀譲は、最高級スイートのふかふかなソファの上で、文字通り七転八倒していた。
普段は「平賀不譲」と恐れられる威厳ある老提督が、両手で目を覆い、涙と鼻水を流しながら悶え苦しんでいる。
その向かいの椅子では、盗聴対策に客室のシャワーを出しっぱなしにしている駐米武官の東郷一成少将もまた、濡らしたタオルで両目を覆い、深く重い溜息をついていた。
「……だから言ったでしょう、平賀閣下。サブマージドアーク溶接の光は、裸眼で直視してはいけないと」
「うるさい! あの強烈なアーク熱の溶け込み具合と、フラックスの溶融状態をこの目で確かめずして、何が造船官か! 君とて、隣で一緒に覗き込んでいたではないか!」
「私は薄目を開けていただけです。まさかあそこまで強烈な紫外線が出ているとは……」
二人は、サンフランシスコのベスレヘム造船所でサブマージドアーク溶接の実証を丸一日「ガン見」した結果、見事に重度の「電気性眼炎(通称:雪目、アーク目)」を引き起こしていた。
角膜が紫外線で傷つき、数時間遅れで激痛と猛烈な流涙に襲われる、溶接工の職業病である。
「……あうぅ……痛い……誰か、医者を……いや、氷を……」
平賀が呻いたその時だった。
カチャリ、と控えめな音を立てて、スイートルームの扉が開いた。
「……Excuse me. 失礼いたします」
鈴を転がすような、それでいて完璧に訓練されたトーンの声だった。
ルームサービスのワゴンを押して入ってきたのは、一人の少女だった。
年齢は13歳から14歳くらいだろうか。赤みがかった深い茶色の透ける髪を三つ編みにし、糊の効いたホテルのメイド服を身にまとっている。
その透き通るような白い肌と、ひたむきで真面目すぎるアイスブルーの瞳は、どこかこのアメリカの西海岸の陽気さとは不釣り合いな、繊細な硝子細工のような雰囲気を漂わせていた。
(……あらら。日本から来た成金のオジサンたち、またお馬鹿なことをしたのね)
エミリー・クリハラ(日本名:恵未)は、内心で冷ややかに舌打ちをした。
最近、サンフランシスコには日本の「カイグン」と名乗る羽振りのいい連中が押し寄せている。彼らはドル札を湯水のように使い、アメリカの工場で最新の機械を買い漁って、貧しい白人たちにスープを配っている。
そのせいで、白人たちの目つきが変わったのだ。
かつての「見下すような差別」ではない。「自分たちの国を買い取った成金への、嫉妬と恐怖が混じった憎悪」だ。
(まあいいわ。お金持ちさんは、チップを弾んでくれる最高のお客様だもの)
エミリーは「笑顔の皮」を被り直し、小走りで駆け寄った。
「あら……! お客様、お目元が真っ赤です! アーク溶接の光を浴びられたのですね」
彼女は東郷のタオルを取ると、慣れた手つきでワゴンの上の氷水で新しいタオルを絞り、優しく東郷の目に当てた。
「……冷たくて、気持ちいい。ありがとう、お嬢さん」
東郷が片目を開けて礼を言うと、エミリーは頬に手を当て、心底心配そうな営業スマイルを向けた。
「も、勿体無いお言葉です。私の父も昔、造船所で同じように目を痛めて帰ってきたことがありましたので。……少しお待ちください。お芋をすりおろしてきます。角膜の熱を取るには、ジャガイモのデンプンをパックにするのが一番効くんです」
彼女は手際よくジャガイモをすりおろし、冷たいガーゼに包んで、平賀の両目に乗せた。
「……おお。おお……これは極楽だ。痛みが引いていく……」
平賀が、毒気を抜かれたように大人しくなった。
「お名前は、なんというのかな?」
東郷が尋ねると、エミリーは姿勢を正し、淀みない英語混じりの日本語で答えた。
「エミリーです。エミリー・クリハラ。
このサンフランシスコで生まれました。……誇り高きアメリカ市民、です」
彼女は「アメリカ市民」という言葉を、あえて強調した。
私はあなたたちのような遅れた東洋の島国から来た人間じゃない。この豊かな自由の国で生まれ育った、れっきとしたアメリカ人なのだ、というプライドによる見えない壁。
(……ハーフ、か。この国でその容姿は、さぞ生き辛かろうに)
「そうか。エミリーさん。君は、なぜこのホテルで働いているんだい?」
「はい。不況で父の仕事が減ってしまって。でも、私はハイスクールに進学して、立派なタイピストか教師になりたいんです。だから、少しでも家計を助けたくて」
エミリーは、アイロンがけの行き届いたエプロンの裾を少しだけ握りしめた。
「……私たち日系人は、法律(排日移民法)のせいで、帰化することも土地を持つこともできません。でも、私のような二世は違います。ここで生まれ、合衆国憲法に守られた、本当のアメリカ市民です」
彼女の瞳には、一切の曇りがなかった。
「だから、誰よりも勤勉に働き、誰よりもルールを守り、アメリカ社会に尽くせば……きっと、いつか本当の意味で、私たちもこの星条旗の国の一部として、認められる日が来ると信じているんです」
それは健気で、ひたむきな言葉だった。
だが、東郷一成の頭脳は誤魔化せなかった。
その言葉の裏にある「受け入れてもらえないかもしれない」という深い怯えと、それを覆い隠すための分厚い「優等生の鎧」を。
「……エミリーさん。君はとても賢く、そして優しい人だ」
東郷は、静かに言った。
「だが、国というものは時として、君のその忠誠に、ひどく冷たい計算で応えることがある。……どうか、その『笑顔』で、自分自身をすり減らしすぎないようにね」
「……? はい。ありがとうございます」
エミリーは不思議そうに小首を傾げたが、すぐに微笑みを返した。
その時だった。
ジャガイモのパックで目を冷やし、静かにしていた平賀譲が、突然ソファからガバッと跳ね起きた。
「……そうだッ!!」
「ひゃっ!?」
エミリーが素で驚いて飛び退く。
平賀は両目にジャガイモのパックを乗せたまま(つまり何も見えていない状態で)、空中に向かって大声で叫び始めた。
「東郷! なぜ今まで気づかなかったのだ! 我々は新しい骨(溶接)ばかりに気を取られ、最も重要な血管を忘れていたぞ!」
「血管……? 平賀閣下、目が痛すぎて脳に異常をきたしましたか?」
東郷が呆れたように言うが、平賀の興奮は止まらない。
「電気だよ! 艦の電力網だ!」
平賀は、見えない目を剥いたまま力説した。
「今日、造船所で見たサブマージドアーク溶接機。あれを動かすには莫大な電力が必要だった。
そして我々が今、アメリカから買収したGEの技術。さらにスウェーデンのエリクソンの通信技術!
これら最新鋭の機械は、全て『交流(AC)』で動くように最適化されているではないか!」
東郷の目が、ハッと見開かれた。
当時の日本海軍(そして世界の多くの海軍)の艦艇は、安全上の理由と蓄電池との相性から「直流(DC)」を主電源としていた。
しかし直流は、電圧を変えるのが難しく、送電ロスが大きく、そして何よりも「直流モーターはブラシから火花が出る」という致命的な欠点があった。
「いいか、東郷! 今の日本海軍の船は直流(220Vや110V)だ。太くて重い銅線を艦内に張り巡らせなければならない!
だが、これを『交流(AC・440V以上)』に全面移行させたらどうなる!?」
平賀は、手探りで虚空に設計図を描くように身振り手振りを交えた。
「変圧器を使えば、高電圧で細いケーブルを使って艦の隅々まで電気を送れる! 電線の重量が劇的に軽くなる!
そして、何より誘導電動機(ACモーター)が使える! ブラシがないから火花が出ない! 弾薬庫やガソリンタンクの近くでも、爆発の危険なしにモーターを回せるんだ!」
「……なるほど。ダメージコントロールと軽量化には劇的な効果がありますね」
東郷も、完全に平賀の思考に追いついた。
「しかもACモーターは小型で高出力だ。……高角砲や機関砲をエリクソンのサーボモーターで振り回すにも、ハゼマイヤーの射撃盤を瞬時に動かすにも、直流の鈍重なモーターでは追いつかない」
「その通りだ!」
平賀は、ジャガイモをぽろりと落としながら叫んだ。
「これからは、電気が船の強さを決める時代だ!
砲塔を回すのも、弾薬を揚げるのも、通風機を回して艦内を涼しくするのも、全て交流モーターだ!
今の我々にはGEのタービン発電機と、エリクソンの配電盤がある。艦艇を『交流化』するための全てのパーツが、すでに手元に揃っているじゃないか!」
平賀の、エミリーの存在を忘れたかのような叫びは止まらない。
「それに通信だ! 射撃指揮だ!
直流モーターのブラシから出る『電気ノイズ(火花)』のせいで、これまでの無線や艦内電話は雑音だらけだった。伝声管で大声で叫ばねば、命令が伝わらん!
だが、全てを火花の出ない『交流』に統一すれば、ノイズは完全に消滅する!
……さらに、これだ。GEが開発した『交流セルシン(同期電動機)』!」
「セルシン……!」
東郷は息を呑んだ。
送信側のダイヤルを回すと、受信側のモーターが電気的に全く同じ角度だけ回転する魔法の装置。
「そうだ! 今までは、射撃盤で出た弾道を、電話で砲塔に伝え、人間が目盛りを見てハンドルを回していた。
だが、ノイズのない交流電源とセルシンモーターを組み合わせれば……射撃盤の動きに、各砲塔が自動的かつ寸分の狂いもなく『追従』する!
人間が目盛りを読む時間も、伝声管で『撃て!』と叫ぶ時間もゼロになる!
完全なる電気的射撃指揮の完成だ!」
史実において、アメリカ海軍は1930年代の「マハン型駆逐艦」からいち早く艦艇の全面交流化に踏み切った。これが後の巨大なレーダーシステムや、CIC(戦闘指揮所)の優秀さなどを下支えする「見えない強さの源泉」となった。
対する日本海軍は交流化に出遅れ、重い電線と火花散るモーター、そして雑音だらけの無線に苦しめられた。大和型戦艦など一部の艦艇でようやく交流化を果たしたが、大部分の艦艇は最後まで直流のままだった。
だが今、平賀譲という一人の天才が、アーク溶接の光に目を焼かれた暗闇の中で、その「10年の遅れ」を一瞬で飛び越えるパラダイムシフトに辿り着いたのだ。
「……すぐに本省に打電しろ、東郷!」
平賀は、まだ赤い目をこすりながら吠えた。
「現在設計中の『特型駆逐艦(後期型)』から、いや、改装中の全ての艦船の電源を『交流(AC440V)』仕様に変更する!
直流に固執する艦政本部の老いぼれどもには、私が直接雷を落としてやる!」
平賀のその狂気じみた情熱と、眼前の男たちから放たれる圧倒的な熱量に、エミリーは思わず壁際まで後ずさった。
(……なんなの、この人たち……?)
彼女の「営業スマイル」は完全に剥がれ落ちていた。
ただの成金のオジサンじゃない。
目を焼かれて悶え苦しんでいたはずなのに、一瞬のひらめきで、自分には到底理解できないような巨大な機械や船を、頭の中で根底から作り変えてしまっている。
「……分かりました、閣下。すぐに手配しましょう。
ですが、まずはそのジャガイモをもう一度目に当てて、大人しくしていてください」
東郷は苦笑いしながら、エミリーの方を見た。
「エミリーさん。すまないが、もう一つ、冷たいのを作ってくれないか?」
「は、はいっ!」
エミリーは目を丸くしながらも、急いで新しいジャガイモをすりおろし始めた。
彼女には、目の前の二人の東洋人が何を叫んでいるのか、全く意味が分からなかった。だが、その二人が何か途方もなく「巨大で恐ろしいもの」を動かそうとしていることだけは、肌で感じていた。
サンフランシスコの夜景が、窓の外で美しく輝いている。
その光の裏側で、日本の軍艦の血管が、アメリカの重電技術によって全く新しいものへと進化しようとしていた。
そして、まだ何者でもない一人の少女の運命もまた。
「チップは、少し弾ませてもらうよ。君の機転のおかげで、我々の『目と耳』が良くなりそうだからね」
東郷がそっと手渡した高額のドル紙幣を受け取りながら、エミリーは今度は営業用ではない、少しだけ困惑したような、本物の戸惑いの表情を浮かべていた。
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