ハンモックナンバー
お待たせいたしました。第3章スタートです。
時:1930年(昭和五年)、初夏
場所:神奈川県・横浜港、大さん橋
太平洋を横断してきた豪華客船『浅間丸』が、重厚な汽笛を鳴らして接岸した。
タラップを降り立った東郷一成の肩には、大佐の三つ星から、真新しい「少将」の金一ツ星の襟章が輝いていた。アメリカでの「特命」の絶大な成果が認められ、異例のスピード昇任を果たしたのだ。
東郷はトレンチコートの襟を立てながら、2年ぶりに踏みしめる祖国の空気を深く吸い込んだ。
そして周囲の景色を見渡し、息を呑んだ。
「……まるで、別の国だな」
彼の記憶にある2年前の横浜は、関東大震災の傷跡をまだ残し、不況の影に怯える静かな港町だった。
だが今、目の前に広がる光景は、アメリカのそれと見紛うばかりの「巨大工業都市」へ変貌を遂げようと建設ラッシュの真っ最中だった。
沿岸部を埋め尽くすように林立する、アメリカ・マニトウォック社製の巨大クレーン群。
イギリスの戦艦のスクラップを溶かして作られた、真新しい鉄骨鉄筋コンクリートの倉庫群。
そして、ひっきりなしに行き交うフォードやシボレーに混じり、産声を上げたばかりの日本の自動車メーカーがアメリカの工作機械を使ってライセンス生産した、ピカピカの大型トラックが走り出していた。
労働者たちの顔に、不況の悲壮感はない。
彼らの懐には「NCPC債」と「円」が入り、給食所からは肉と油の匂いが漂っている。
「……やりすぎたかもしれんな」
東郷は苦笑した。
「だが、まだ足りん。アメリカという巨人が正気に戻る前に、この国の骨格を鋼鉄に変えねばならんのだ」
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時:同日 夕刻
場所:東京・麹町、東郷邸
東郷が自邸の門をくぐると、秋の虫の音が響く庭に、二つの小さな影が駆け寄ってきた。
いや、「小さな」というのはもう過去の話だった。
「……お父様!」
幸が、瞳に涙をいっぱいに浮かべて飛び込んできた。
8歳だった彼女は10歳(数えで11歳)になり、背も伸びていた。少女のあどけなさを残しつつも、その立ち居振る舞いには、留守を守り抜いた「東郷家の娘」としての凛とした気品が備わっている。
「ただいま、幸。……大きくなったな。すっかりお姉さんだ」
東郷は、愛娘の頭を優しく撫でた。
幸は義父の胸に顔を埋めながら、小さな声で囁いた。
「……よく、ご無事で。……あの恐ろしい嵐(世界恐慌)の中から……」
その言葉の重みに、東郷はハッとした。彼女だけは知っているのだ。自分がアメリカで何を仕掛け、どれほどの巨大な怨念を背負い込んできたのかを。
「お前が送ってくれた『手紙』のおかげだよ。……あれがなければ、私もあの国と一緒に沈んでいた」
東郷が顔を上げると、幸の少し後ろに、もう一人の少女が静かに立っていた。
会田まさ江(後の原節子)だ。
彼女もまた10歳となり、その顔立ちは、かつてドブ板通りで魚を捌いていた時の煤けた印象から、息を呑むほど洗練された美しさへと開花しつつあった。
その大きな黒い瞳が、深い敬意を込めて東郷を見つめている。
「……東郷閣下。お帰りなさいませ」
まさ江は、深く、美しい所作で一礼した。
「まさ江さん。学校はどうだい? 幸と仲良くしてくれているかな」
「はい。……閣下のおかげで、私は今、学ぶことができます。このご恩は、生涯忘れません」
幸が、自慢げに父の袖を引いた。
「お父様、聞いてください! まさ江さん、来月、海軍省が後援する『国防記録映画』の、子役オーディションに呼ばれているんですのよ! 監督さんが、まさ江さんの目を見て『この子しかいない』って!」
「……ほう。それは楽しみだな」
東郷は目を細めた。
その夜。
東郷邸の奥座敷で、東郷一成は父・平八郎と差し向かいで杯を傾けていた。隣の部屋からは、幸とまさ江が、お土産に買ってもらったアメリカ製のラジオから流れる音楽を聴いて、楽しそうに笑う声が聞こえていた。
⸻
場所:東京・霞が関、海軍省・人事局長室
海軍省の廊下を歩く者の視線が、一人の男の袖口に釘付けになっていた。
太い金筋の上に、中細の金筋が一本。
日本帝国海軍少将――天皇陛下より直接任官される「勅任官」の証である。
つい先日まで大佐であった東郷一成が、この金色の袖章を纏って省内を歩く姿は、海軍の伝統と年功序列を粉々に打ち砕く「歩くクーデター」であった。
アメリカのウォール街を支配し、ヨーロッパの軍需産業を買い漁り、日本の国家予算をも凌駕する外貨を稼ぎ出した実績。それは、どんなに頭の固い提督であっても、彼を「閣下」と呼ばざるを得ない圧倒的な暴力の結果だった。
東郷は人事局長室のソファに深く腰掛け、提出された将校の人事ファイルに目を通していた。
これまでアメリカで彼の手足となって働いた副官の伊藤整一中佐は、後進の育成のために海軍兵学校の教官として赴任することが決まっていた。その後任選びである。
「……東郷少将」
同席していた軍務局長の堀悌吉少将が、呆れたように言った。
「人事局が用意した特急組のリストを、ことごとく弾いているようだが。一体、誰をお望みで?」
「決まっていますよ、堀局長」
東郷は、二つのファイルを机の上に滑らせた。
「海兵51期から、この二人をもらいます」
堀はファイルを見て、目を丸くした。
「……海兵51期。樋端久利雄大尉。
なるほど、彼はいい。51期のクラスヘッド(首席)だ。頭脳明晰だが、今はフランスで駐在武官補佐官をしており、実績もある。それをワシントンへ引き抜く気か」
堀はもう一つのファイルを見て、絶句した。
「……だが、こっちは何だ?
木梨鷹一大尉。51期の……卒業席次、255名中255番? どん尻(最下位)ではないか。東郷。これは何の冗談だ? 首席と最下位を両方副官にするなど、前代未聞だ」
当時の海軍において、ハンモックナンバー(卒業成績)は絶対だった。
下位で卒業した者は「両舷直」と呼ばれ、出世コースからは外れ、休む間もなく最前線の駆逐艦や潜水艦をたらい回しにされる過酷な運命が待っていた。
東郷は淹れたての紅茶を啜りながら、ニヤリと笑った。
「冗談ではありませんよ、堀さん。
海兵のハンモックナンバーなど、私には何の意味もありません。なにしろ、私自身が江田島の成績表を『すっ飛ばして』この椅子に座っているアナポリス上がりですからね。
……ルールを無視した私が、今更他人の成績のビリを気にしていては、お笑い草でしょう」
「だが、なぜこの木梨という男を?」
「彼の経歴を見てください。潜水艦勤務を希望しながら、『水雷』ではなく『航海』の道を歩もうとしている。
……我々は今、イギリスから40隻のS型潜水艦を買い付け、南米や欧州との間に長大なシーレーンを構築しています。
必要なのは、魚雷を当てるだけではなく、荒れ狂う海の中で自船の現在地を正確に把握し、確実に船を、あるいは物資を目的地に届ける『泥臭い航海術』を持った男です。
……成績だけ見られ、周りから何も期待されず、ただ過酷に耐えることだけを叩き込まれた男の『雑草の強さ』が、今の私には必要なのですよ」
東郷は、ファイルを指で叩いた。
「我々がこれからアメリカでやるのは、軍事だけではなく『地球規模の兵站と物流の管理』です。
現場を知らぬエリートだけでは船は動きませんし、学のない現場だけでも制度は作れません。
……これは『勅任官』としての要望です」
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時:数日後
場所:フランス・パリ、日本大使館
「……ワシントンへ、転属?」
海軍大尉・樋端久利雄は、ぽかんと口を開けたまま、届いたばかりの辞令を見つめていた。
農家出身の彼は、普段から口を半開きにしてぼんやりと思考する癖がある。そのため「鈍物」と勘違いされることもあったが、その脳内では常に超高速で数式と戦略が組み立てられている、紛れもない天才だった。
ジュネーブ軍縮会議の随員としての激務を終え、ようやくパリの生活を楽しめると思っていた矢先だ。
「……いや、東郷少将閣下からのご指名だ。どうやら、世界一面白い計算をさせてもらえるらしい」
⸻
時:同じ頃
場所:日本近海、潜水艦『伊61』の狭く油臭い艦内
「……航海長! 木梨航海長!」
汗と油にまみれた伝令が、狭い通路を這うようにしてやってきた。
木梨鷹一大尉は、海図台の前でコンパスを握りしめ、顔を上げた。潜水艦勤務を希望する者は通常「水雷屋(水雷学校卒)」だが、彼は「航海屋」として潜水艦に乗り込む異色の経歴を歩み始めていた。
卒業成績最下位。
エリートコース(海大進学や中央勤務)からは完全に外れ、一生、鉄の棺桶の中で海図と睨み合いながら、現場のドサ回りを続ける運命の男。
「どうした、騒々しい」
「ほ、本省からの特命辞令です! 木梨大尉に対し、直ちに艦を下り、特命全権公使付・駐米海軍武官副官として、ワシントンD.C.へ赴任せよ、と!」
「……はあ?」
木梨は、海図にコンパスを落とした。
「俺が? ワシントン? 勅任官の副官? ……冗談だろ。同姓同名の別人じゃないのか?」
「間違いありません! 」
木梨は、油まみれの手で自分の顔を拭った。
なぜ最底辺の自分が、日本の運命を握る最高権力者の一人の右腕に?
だが、その辞令の裏に添えられた東郷からの短い手紙を見て、彼は息を呑んだ。
『――海図の上を指でなぞるだけの秀才は要らん。
私は、波の高さと、重油の臭いと、エンジンの振動を皮膚で知っている男の“航路”が欲しい。
世界中から日本へ、最も安全に、最も確実に資源を運ぶための『血の通った線』を、アメリカの真ん中で引いてくれ』
木梨の目に、熱いものが込み上げた。
成績で自分を「クズ」と決めつけた海軍の中で、この男だけは、自分の「現場で培った泥臭い技術」を、国家戦略の中核として求めてくれている。
「……荷物をまとめる」
木梨は、油にまみれた海図を丁寧に畳んだ。
「……俺の引く線で、アメリカの度肝を抜いてやる」
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時:1930年、夏
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成少将のデスクの前には、奇妙な三人組が並んでいた。
無表情な氷の秘書、橘小百合。
口を半開きにして、ぼんやりと天井のシャンデリアを見つめている天才、樋端久利雄。
そして、まだ潜水艦の油の匂いが抜けきらない、鋭い目つきの現場主義者、木梨鷹一。
「……揃ったな」
東郷は新しい少将の軍服に身を包み、満足げに頷いた。
「伊藤君はよくやってくれた。基礎工事は終わった。
これからは、我々がアメリカの血管に流し込んだ『NCPC債』という血液を使って、我々の軍事力を拡大させるフェーズに入る」
東郷は、樋端を見た。
「樋端大尉。君にはアメリカ経済と司法の動きを予測し、我々の資金をどこに投下すれば、最も効率よくアメリカの政治家を『コントロール』できるか、その方程式を作ってもらう」
「……はぁ。つまり、大恐慌で苦しむアメリカの産業に、最適なタイミングで酸素を注入したり、止めたりして、彼らの生殺与奪を握るのですね。……面白いパズルです」
樋端はぼんやりとした顔のまま、恐ろしいことを言った。
東郷は次に、木梨を見た。
「木梨大尉。君には、我々が買い占めた”資源”ルート、そして港湾インフラの全てを統合し日本に持ち帰るための『兵站線』のダイヤグラムを組んでもらう。
机上の空論は許さん。波と風を計算した、生きた海図を引け」
「……お任せを。アメリカの潜水艦が手も足も出ない、世界一複雑で安全なルートを構築してみせます」
木梨は、不敵に笑った。
首席の頭脳(金融・戦略)と、どん尻の経験(兵站・現場)。
そして、それらを冷徹に管理する小百合(防諜・護衛)。
この、日本の硬直した人事システムからは絶対に生まれ得ない「チート・チーム」が、東郷少将の下で完成した。
「……さて」
東郷は、窓の外を見た。その方角にはホワイトハウスがある。
そこではフーヴァー大統領が、日に日に悪化する経済指標に頭を抱えているはずだ。
「諸君、仕事の時間だ」
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