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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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スミソニアン

 時:1930年(昭和五年)、初夏

場所:東京・麹町、東郷邸


 初夏の風が、青葉を揺らして縁側を通り抜けていった。

 東郷幸は、庭で会田まさ江(後の原節子)と共に、祖父・平八郎が鯉に餌をやるのを眺めていた。まさ江はすっかり東郷邸に馴染み、幸の親友として、共に英語や作法の猛特訓を受けている。


 そこに、海軍省からの伝令が慌ただしく封書を届けに来た。


「……お爺様。お父様からですか?」

 幸が尋ねると、平八郎は封を切り、その文面に目を通してニヤリと笑った。


「一成が、数週間の予定で一時帰国するそうだ。アメリカの決算報告と、今後の打ち合わせのためにな」


「本当ですか!」

 幸とまさ江は顔を見合わせて喜んだが、平八郎の次の言葉に、幸は耳を疑った。


「……海軍省は、帰国に合わせてあやつを『少将』に昇任させるつもりらしい」


「少将……えっ!?」

 幸は、持っていたお茶の盆を落としそうになった。


「あの、お爺様! お父様はまだ大佐になられたばかり(1928年昇進)ですよ!? いくらなんでも、早すぎませんか! 南雲大佐や沢本大佐たち同期の皆さんが……」


「そうだ」平八郎は、渋い顔で髭を撫でた。

「海軍は『ハンモックナンバー(兵学校の卒業席次)』と『年功序列』が絶対の掟だ。平時において、同期を5年も出し抜いて将官の襟章(金の星)をつけるなど、前代未聞の特例中の特例。


 しかも一成は、江田島の釜の飯を食っておらん『アナポリス帰り』の異端児だ。……海軍省と軍令部は今頃、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっておるだろうよ」


 まさ江が、不思議そうに首を傾げた。

「あの……少将になるというのは、そんなに大変なことなのですか?」


「ええ、まさ江さん。ただの昇進じゃないの」

 幸は、家庭教師から学んだ『帝国憲法』の知識を引っ張り出した。


「大佐までは『奏任官』といって、総理大臣や海軍大臣の決済で決まるの。

 でも、少将から上の『将官』は違う。……『勅任官』といって、天皇陛下から直接任命される国家の最上層の役人になるのよ。

 お父様は、名実ともに『閣下』と呼ばれる雲の上の人になってしまうの」


 平八郎は鯉に最後の餌を投げ入れ、立ち上がった。

「……さて。石頭どもが、一成の『勅任』に素直に判を捺すかどうか。見物だな」



 時:同日

場所:東京・霞が関、海軍省・人事局会議室


 「断じて、認められんッ!!」


 海軍軍令部次長・末次信正中将の怒号が、会議室の窓ガラスを震わせた。

 対面には、海軍大臣・岡田啓介と、軍務局長・堀悌吉が、静かに座っている。


「東郷一成の功績は認める! 奴が稼いできた金で、潜水艦隊が、連合艦隊がどれほど救われたか、俺が一番よく知っている!


 だが、だからといって『特別昇進』は別問題だ!

 海軍の伝統たるハンモックナンバーを無視し、同期を差し置いて、一介の『金庫番』に将官の軍刀を下賜するなど、全軍の士気に関わる!」


 末次の怒りは、海軍の大多数の意見を代弁していた。

 海戦で血を流したわけでもない。大砲を撃ったわけでもない。ただ「アメリカで帳簿を操作した」だけの男が、なぜ提督になれるのか。


「末次君。落ち着きたまえ」

 岡田大臣が、重々しく口を開いた。

「これは、単なる論功行賞ではない。……『実務上の必要性』なのだ」


「実務上の必要性?」


「そうだ」

 堀悌吉が、一枚の書類を末次の前に滑らせた。

 それは、東郷がアメリカで相手にしている「交渉相手」のリストだった。


『アンドリュー・メロン(米国財務長官)』

『ヘンリー・スティムソン(米国国務長官)』

『トーマス・ラモント(JPモルガン商会代表)』

『ジョン・マクガラック(BIS国際決済銀行総裁)』


「……末次閣下」

 堀は、冷徹な声で言った。


「彼らは皆、一国の運命を左右する世界の重要人物です。

 東郷は現在、彼らと『対等』に、いや『彼らを見下ろす立場』で交渉を行っている。


 ……その交渉の席に、我が国がいつまでも『大佐』という実務部隊の階級の男を座らせておくのは、国際的な外交儀礼として、いささかバランスを欠くのです」


 末次は、言葉に詰まった。


「もし東郷が『ただの大佐』のままであれば、アメリカやイギリスの『将官』や『長官』たちは、彼を見下し、あるいは『本国の海軍大臣を出せ』と要求してくるでしょう。


 東郷には、現場の全権を委任された『提督アドミラル』という肩書き……すなわち、天皇陛下から直接信任を受けた『勅任官』としての絶対的な権威という名の『ハッタリ』が、どうしても必要なのです」


 大佐(大企業で言えば部長クラス)が、他国の大臣や財閥総帥(社長)とサシで勝負していること自体が、そもそも異常なのだ。

 彼に「取締役(将官)」のバッジをつけさせなければ、商談の格が保てない。


「……だが! 同期の不満はどうする!」

 末次が食い下がる。


「その点につきましては」

 堀は、ニヤリと笑った。


「当の第36期首席の佐藤大佐や、南雲大佐と沢本大佐から、『連名』で推薦状が届いております」


「な、なんだと?」

 末次は、差し出された手紙をひったくった。


『……東郷の奴が、また女装して飛行船に乗るような真似をする前に、どうかあの男に重い錨(将官の地位)を括り付けてやってください。我々同期としては、彼が将官として表舞台で目立ってくれた方が、我々が裏で実務(艦隊指揮や兵站構築)をこなす上で、よほど動きやすくなります――佐藤市郎、南雲忠一、沢本頼雄』


 それは嫉妬など微塵も感じさせない、最前線で共に戦う「共犯者」たちの、清々しいまでの推薦状だった。


 末次は大きく息を吐き出し、天井を仰いだ。

「……負けたよ」

 彼は、昇任案に乱暴に判を押した。



 時:数日後

場所:皇居・御学問所


 昭和天皇は、海軍大臣・岡田啓介から奏上された『東郷一成・少将昇任案』に、静かに目を通されていた。


「……岡田。この者は、異例の昇進だな」


「はっ。平時にて5年の年功を飛び越える特進でございます。

 しかし、彼が北米および欧州にて成し遂げた『任務』は、敵艦隊一つを撃滅するに等しい、いや、それ以上の国益を我が国にもたらしております」


 昭和天皇は、少し遠い目をされた。

「……アメリカの貧しい人々にスープを配り……そして、我が国の国庫を潤した男、であったな」


「左様でございます」


 天皇は、手元の毛筆を取られた。

「……戦をして勲章をもらう者は多い。

 だが人を殺さず、一発の弾も撃たずに、異国を助けながら国を富ませた軍人は、歴史上この男だけであろう。

 よかろう。朕が直接この男の顔を見て、任官の辞を渡そう」


 さらさらと、御名が記される。

 この瞬間、東郷一成は「天皇の軍隊」における正規の提督――日本帝国海軍少将として、歴史にその名を刻むことになった。



 時:1930年(昭和五年)、初夏

場所:ワシントンD.C. スミソニアン博物館


 夏の陽気が心地よいワシントンD.C。帰国命令を受けた東郷一成は、最後にこの場所を訪れていた。


 ナショナル・モールのスミソニアン・キャッスルの広大なエントランスホールでは、ある「特別展示」が行われていた。


 展示ケースの中に鎮座しているのは、一枚の真新しい証券。

 菊の紋章と、日本帝国海軍の錨のマークが透かしに入った、『海軍制度信用証券(NCPC債)』だ。


 その隣のキャプションには、こう記されていた。


『1929年の金融危機の際、アメリカ市民を救済したとされる外国証券。法的な位置付けについては、現在も議論が続いている』


 その展示ケースの前に、二人の男が立っていた。

 東郷一成と、アナポリス時代の同期、マーク・ミッチャー中佐である。


「……『アメリカは建国以来、帝国主義戦争の類いを一切やったことがない』。

 あるニューヨーク州の政治家はかつて、そう豪語していたそうだ、カズ」

 ミッチャーは、自嘲気味に笑った。


「我々は武力で他国の領土を奪うような、野蛮な真似はしない。ただ『自由貿易』という平和な手段で、世界を豊かにしてきたのだ、と。

 ……実に傲慢で、無知な勘違いというやつだな」


「そんなことはないよ、ミッチ」

 東郷は、まるで美術品を鑑賞するように展示ケースを見つめていた。


 ミッチャーは、東郷の横顔を睨んだ。

「……ドイツの件は、聞いているぞ」

 声が、一段低くなった。


「BIS(国際決済銀行)の口座を使った、見事なマネーロンダリングだ。

 我々アメリカが参加していない機関を使い、我々のドルで、ドイツの技術を買い叩く。

 メロン長官は、怒りのあまり『スイスに爆撃機を送れ』と喚いていたそうだ」


「それは物騒ですね」

 東郷は、クスリと笑った。


「私はただ、困っているドイツなどヨーロッパ諸国の政府に『個人的な融資』を行っただけです。

 それに、アメリカ政府も『ドイツの復興は世界経済に不可欠だ』と仰っていたではありませんか。私はそのお手伝いをしたまでですよ?」


 東郷の悪びれない、いっそ清々しいほどの詭弁に、ミッチャーは深く息を吐いた。


「カズ。お前は本当に恐ろしい男だ。

 俺たちはアナポリスで、クラウゼヴィッツやマハンを学んだ。戦争とは他の手段をもってする政治の延長であり、海を制する者が世界を制すると。

 ……だが今お前がやっていることは、どの軍事の教科書にも載っていない」


 ミッチャーは、展示ケースのガラス越しにその「紙切れ」を指差した。


「お前は、アメリカが最も誇りにしてきた武器……『資本主義』と『自由市場』を、そのまま我々の喉元に突き立てたのだ。


 大砲を一発も撃たず、一人の血も流さず、ただ『帳簿』と『法律の抜け穴』だけで、我々の同盟国を切り崩し、我々の工場を日本の下請けに変え、我々の銀とドルを根こそぎ奪っていった」


「買い取った、と言ってくれないか、ミッチ。我々は正当な対価を払っている」

 東郷は、懐から取り出したペンを弄びながら言った。


「それに、私にその『武器』の使い方を教えてくれたのは、他ならぬ君たちの国だよ。

 20年前、私が『グレート・ホワイト・フリート』に乗って見たものは、圧倒的な大砲の数ではない。尽きることのない富と生産力、それを支える『制度』だった。

 私はただの生徒として、先生の教えを忠実に実践したに過ぎない」


 ミッチャーは、苦渋に満ちた顔で東郷を見据えた。

「……それで? 先生の身ぐるみまで剥がして、お前は日本に帰るのか。

 この『展示物』を、アメリカの傷口に置き去りにして」


「私は武官だからね。一時召還命令が来れば、帰るさ」


 東郷は、展示ケースのキャプションを改めて読んだ。


『法的な位置付けについては、現在も議論が続いている』


「それにしても」

 東郷は、本当に可笑しそうに肩を揺らした。


「……君たちのこういう『ユーモア』と『おおらかさ』は、心から尊敬するよ」


「ユーモアじゃない。現実逃避だ」

 ミッチャーが吐き捨てるように言った。


「議会も財務省も、この紙切れをどう処理していいか分からないんだ。『通貨』と認めればドルの負けになる。『違法』とすればウォール街がパニックになる。


 だから、こうして『歴史的な記念物』として博物館のガラスケースに閉じ込めることで、自分たちを安心させようとしている。……『これはもう過去の遺物だ。我々の脅威ではない』と、思考を停止させるためにな」


 それは、大国アメリカが陥った最も致命的な「病」だった。

 目に見えない脅威を無理やり枠に当てはめ、理解可能な「展示物」へと矮小化してしまう。


「……だが、俺は騙されんぞ。カズ」

 ミッチャーの瞳の奥に、猛禽類のような鋭い光が宿った。

 彼は航空屋だ。空を飛び、三次元で物事を捉える男の直感が、警鐘を鳴らし続けていた。


「お前がヨーロッパで買い漁った工作機械。スウェーデンの特殊鋼。フランスの航空エンジン。

 それらが日本の工廠で組み合わさった時、海の上に何が現れるか……俺には想像がつく。

 お前はアメリカの金を使って、アメリカを殺すための『剣』を鍛えている」


「……」

 東郷はペンを胸のポケットにしまい、ミッチャーに向き直った。


「ミッチ。私はね、この国が好きだよ。

 君のような、現実から目を逸らさない優秀な軍人がいる限り、アメリカは決して腐り落ちたりはしないだろう」


 東郷は、親友の肩を軽く叩いた。

「……もし、いつか太平洋で、私の『剣』と君の『盾』が交わることがあるとすれば。

 その時は、互いに最高の”仕事”をしようじゃないか」


「……ああ。望むところだ。

 今度は帳簿ではなく、本物の火薬で勝負させてくれよ」


 1930年の夏。

 ワシントンの博物館で、日米の二人の軍人が静かに別れの挨拶を交わした。

 ガラスケースの中の「NCPC債」は、二人の背中を沈黙しながら見送っていた。

これにて第二章、完結となります。

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!


次章の執筆準備のため、ここで少しだけお休みをいただきたく思います。


次章では、さらなる物語をお届けできるよう準備してまいりますので、しばしお待ちいただけますと幸いです。


今後とも、宜しくお願いいたします。

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