イーヴァル・クルーガー
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ニュージャージー州、レイクハースト海軍航空基地
巨大な銀色の葉巻が、係留塔に繋がれていた。
ドイツの飛行船『グラーフ・ツェッペリン』。全長236メートル。空の豪華客船。
そのタラップの下では、オランダ大使館の公用車から降り立った「乗客」たちが、搭乗手続きを行っていた。
現場を監視していた海軍航空士官の若き少尉、ユージーン・E・リンゼイは、双眼鏡越しにその一行を凝視し、受話器を握りしめていた。
「……本部! 繰り返します! あの『貴婦人』は怪しい!」
リンゼイの視線の先には、南雲忠一にエスコートされる、大柄な東洋の女性の姿があった。
顔はベールで隠されているが、タラップを登る足取りが、ドレスを着た女性のそれではない。体幹がブレず、地面を確実に捉える軍人の歩き方だ。そして、ふとした瞬間にハンドバッグを持つ腕に浮かぶ筋肉の筋。
「あれは東郷一成です! あるいは、彼の影武者か!
奴は病気なんかじゃない、この船で高飛びする気だ!」
だが電話の向こうの本部デスクの反応は、苛立ちに満ちていた。
『……少尉。お前、新聞を読んでいないのか?
我々は今、先日の“ハニートラップ作戦”の失敗で、議会とマスコミから袋叩きにされているんだぞ』
「だからこそです! 奴をここで捕まえれば、汚名返上になります!」
『証拠は?』
「……あー……歩き方が男っぽい、です」
『馬鹿者ッ!』
怒号が飛んだ。
『いいか、その船のチャーター主はオランダ政府の仲介によるドイツ企業だ。乗客リストには「日本の民間篤志家」とある。
もしその貴婦人を拘束して、中身が本当にただのゴリラみたいな女性だったらどうする?
長官の首を飛ばす気か! 手出しは無用だ、監視だけ続けろ!』
ガチャン、と電話が切れた。
リンゼイは、拳で壁を叩いた。
目の前を、みすみす敵がすり抜けていく。だが、組織の論理と法的な壁が、彼の手足を縛り付けていた。
タラップの上で、貴婦人がふと立ち止まった。
彼女(?)は、リンゼイがいる監視塔の方を向き、ベールの奥でニヤリと笑ったように見えた。
そして、優雅に手を振った。
「……Good bye, America.(さようなら、アメリカ)」
エンジンが轟音を上げ、巨体が浮上する。
アメリカの法律も、軍隊も、この空飛ぶ密室を止めることはできなかった。
⸻
場所:ツェッペリン号・船内
アメリカ領空を離脱した頃合いを見計らい、東郷はかつらを取り、大きく息を吐いた。
「……ふう。危ないところだった。あの少尉、勘が鋭いな」
同乗していたオランダの外交特使、ファン・デン・ベルクが、冷えたビールを差し出した。テーブルの上には、最高級のチーズとシュナップス、そして一枚の「50万ドルのツェッペリン号2週間チャーター契約書」があった。
「ハハハ、見事な演技でしたよ、マダム・トーゴー。
しかし……本当に助かります。貴国がクルーガーに融資してくれるおかげで」
ファン・デン・ベルクは、真剣な表情になった。
「クルーガーがドイツ政府に支払う5,000万ドル。万一あれが滞ればドイツ財政は破綻し、我が国のライン川貿易も死にます。
……貴国はスウェーデンの詐欺師を救うふりをして、実はドイツとオランダの経済を救ってくださるわけだ」
ロッテルダム港はドイツの輸出入の玄関口だ。ルール地方の工場が止まれば、オランダの運河も干上がるのだ。
東郷はビールを一口飲み、肩をすくめた。
「持ちつ持たれつですよ。
ドイツが元気でいてくれれば、我が国が買った工作機械のメンテナンスも安泰だ。
それに……」
東郷は窓の外、広がる大西洋を見下ろした。
「アメリカが自分の金庫を閉ざして世界を窒息させようとしている今、誰かが血液(資金)を回さねばならん。
たとえそれが、密輸まがいの手口だとしてもね」
ヴァイマル共和国も、喉から手が出るほど外貨が欲しい。50万ドルのチャーター料……これでツェッペリン社は倒産を免れ、技術者たちの給料が払えるのだ。
「アメリカは資本を引き揚げ、我々を見捨てた。
だが日本は金を運び、ドイツへの輸血(クルーガー経由)を継続させようとしている」
ファン・デン・ベルクは、拳を握りしめた。
「これは、日・独・蘭の『生存同盟』です。
東郷大佐を無事に欧州へ送り届けること。……それはライン川の血流を止めないための、我々自身の戦いなのです」
彼らは知っていた。
東郷の女装がどうとか、そんなことは些末な問題だ。
このツェッペリンの中には、15億ドルという欧州経済の命運が隠されているのだから。
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時:1930年(昭和五年)、3月
場所:スウェーデン・ストックホルム郊外、群島地帯のクルーガー私邸上空
北欧の空は、吸い込まれるような蒼穹だった。
その静寂を破り、雲海から銀色の巨体が姿を現す。
硬式飛行船『グラーフ・ツェッペリン』号。
全長236メートルの怪物が、世界的な大富豪、「マッチ王」イーヴァル・クルーガーの広大な私邸の上空に静止した。
庭園で見上げていたクルーガーは、震える手で葉巻を落とした。
借金取り(銀行団)からの督促電報に埋もれ、神経をすり減らしていた彼の前に現れたのは、あまりにも劇的な「救世主」だった。
ゴンドラから降り立ったのは、一人の海軍士官(南雲忠一)と、それに付き従われる「貴婦人」だった。
「……ようこそ、マダム・カズコ」
クルーガーは、最高の営業用スマイルを貼り付けて出迎えた。
「私のささやかな島へ、空の宮殿でお越しになるとは。実にエレガントだ」
「あら、ごきげんよう、ミスター・クルーガー」
貴婦人(東郷一成)は扇子で口元を隠しながら、腹の底に響くようなアルトボイスで応えた。
「急な訪問でごめんなさいね。
……でも、お急ぎでしょう? 8月のドイツ政府への支払い期限が迫っておりますもの」
クルーガーの笑顔が凍りついた。
ドイツへの5,000万ドルの支払い。それが遅れれば、マッチ専売権は取り消され、彼の帝国は崩壊する。それはトップシークレットのはずだった。
「……なぜ、それを」
「ふふふ。わたくし、耳が良いのですわ」
東郷は屋敷の応接間に通されると、南雲に目配せをした。
南雲は無言で、アタッシュケースをテーブルに置いた。
カチャリ、と金具が外れる。
中にはウォール街の銀行が振り出した、総額5,000万ドルの札束と、金の預り証。
クルーガーは、喉を鳴らした。
喉から手が出るほど欲しい「流動性」が、そこにある。
「……条件は?」
クルーガーは、渇いた声で尋ねた。
「簡単ですわ」
東郷は、扇子で彼を指した。
「この5,000万ドル、貴方に融資いたします。期間は2年。
……その代わり、担保を頂きます」
東郷は、一枚のリストを差し出した。
・SKF(スウェーデン・ボールベアリング社)の株式および議決権
・L.M.エリクソン(通信機器)の株式および議決権
・グレンゲスベリ鉄鉱山の採掘権
「……SKFだと!?」
クルーガーは叫んだ。
「あれは私の帝国の宝石だ! 世界中の機械が、SKFのベアリングなしでは動かない。それを担保になど……!」
「あら。では、ドイツへの支払いはどうなさいますの?」
東郷は冷ややかに言った。
「アメリカの銀行はもう貸してくれませんわよ?
破産して全てを失うか、宝石を一時的に質に入れて命を繋ぐか。
……賢明な『マッチ王』なら、どちらが合理的かお分かりでしょう?」
クルーガーは脂汗を流した。
「それに、考えてもご覧なさい。
ベアリングを作るには、合金の原料として『錫』が不可欠です。
……その錫の主要産地であるボリビアの鉱山は、今や誰が押さえていると思います?」
クルーガーは、南雲の方を見た。南雲は無言で頷く。
日本だ。日本海軍が、南米の債権処理でボリビアの錫利権を握っている。
「我々は原料(錫)を持っています。
そして今、製品の工場も、担保として押さえる。
……これは、とても合理的な統合だと思いませんこと?」
逃げ場はなかった。
クルーガーの脳内計算機が回る。
(……今は市場が悪いだけだ。2年もあれば、景気は戻る。マッチの収益で金を返せば、SKFは戻ってくる。……今は、この場を凌ぐのが先決だ)
彼は知らなかった。
目の前の「貴婦人」が、クルーガーの会社の帳簿が粉飾だらけで、二度と黒字には戻らないことを見抜いていることを。
「……分かった」
クルーガーは、震える手で契約書にサインした。
「担保として差し出そう。……だが、忘れるな。これは一時的な措置だ。必ず買い戻す」
「ええ、ええ。もちろんですわ」
東郷は契約書を回収し、優雅に立ち上がった。
その背丈は、クルーガーよりも高かった。ドレスの下の筋肉が、鋼鉄のように張り詰めている。
「……では、ごきげんよう。ミスター・クルーガー。
貴方のマッチが、燃え尽きないことを祈っておりますわ」
帰り際、飛行船へのタラップを登りながら、南雲が小声で尋ねた。
「……東郷。奴は買い戻せるのか?」
東郷は、扇子を畳んだ。
そこにはもう、貴婦人の演技はない。冷徹な軍人の顔があった。
「無理だ。奴の帝国はすでに死んでいる。抱える巨額の架空資産と簿外債務の腐敗構造が治癒するわけではないからな。
……1年、いや2年以内には破綻するだろう」
「なら、なぜ金を貸した?」
「『優先債権者』になるためだ」
東郷は、眼下のストックホルムの街を見下ろした。
「奴が破産した瞬間、世界中のハゲタカ(債権者)が資産を食い荒らす泥沼の争奪戦になる。
だが我々はこの契約書のおかげで、その泥沼を無視して、担保に入れた『SKF』と『エリクソン』、『グレンゲスベリ』だけを、合法的に、無傷で持ち去ることができる」
東郷は、ニヤリと笑った。
「南雲。我々が手に入れたのは、ただの会社の株じゃない。
『産業の関節』と『情報の神経(通信)』、『軍事の骨(スウェーデン鉄)』だ。
……これで日本産業の急所をカバーできた」
グラーフ・ツェッペリン号は、重低音を響かせて上昇した。
眼下では、マッチ王が安堵の表情で小切手を金庫にしまっているのが見えた。
それが、彼自身の「死刑執行同意書」であるとも知らずに。
そして、飛行船は機首を南へ向けた。
⸻
時:1930年(昭和五年)、3月末
場所:スウェーデン・ストックホルム、財務省・大臣会議室
その日のストックホルムは、まだ冬の寒さに閉ざされていたが、財務省の会議室は冷や汗が出るような熱気に包まれていた。
財務大臣は、リクスバンク(中央銀行)総裁から提出された極秘レポートを前に、頭を抱えていた。
「……総裁。これは事実かね?」
「はい、大臣。確認が取れました。
イーヴァル・クルーガー氏は、ドイツ政府への支払いのために、5,000万ドルの緊急融資を受けました。
その貸し手は……日本海軍です」
「日本だと!?」
大臣は絶叫した。
「なぜ極東の軍隊が、我々の国民的英雄に金を貸すのだ!」
「……問題は、その担保です」
総裁は、声を潜めた。
「SKF、エリクソン、そしてグレンゲスベリ。
これら我が国の産業の『関節』『神経』『骨』にあたる企業の支配権が、担保として日本側に差し出されました。
……もしクルーガー氏が返済不能になれば、これらの企業は合法的に日本のものになります」
会議室が凍りついた。
スウェーデンは中立国であり、高い技術力と資源を誇る工業国だ。
だがその心臓部が、借金のカタに外国の軍隊に握られようとしている。
「……なぜだ。なぜクルーガーはそんな暴挙に出た?」
「他に選択肢がなかったのです。アメリカの銀行は彼を見捨てました。フランスもイギリスも自分のことで手一杯です。
……キャッシュを持っていたのは、世界で日本だけだったのです」
大臣は、窓の外を見た。
ストックホルムの街には、エリクソンの電話線が張り巡らされ、SKFのベアリングが使われた工場からは機械の音が聞こえる。
平和で豊かなこの国の風景が、実は薄氷の上に立っていることを、彼は知ってしまった。
「……日本海軍が、我が国の産業を握ろうとしている。
これは侵略ではないか?」
「いえ、大臣。これは『救済』です」
総裁は自嘲気味に言った。
「彼らが金を貸さなければ、クルーガー帝国は今年夏に崩壊し、スウェーデン経済も連鎖倒産で壊滅していたでしょう。
……日本は我々を生かしてくれたのです。
ただし、その代償として『魂』の一部を預かっていきましたが」
大臣は、重い溜息をついた。
遠いアジアの島国から来た「貴婦人」が、北欧の巨人を掌の上で転がしている。
その事実に、彼らはただ戦慄するしかなかった。
「……祈ろう、総裁。
日本という新しいオーナーが、我々の技術を大切にしてくれることを。
……少なくとも、アメリカのハゲタカよりはマシな飼い主であることを」
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