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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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グラーフ・ツェッペリン

 時:1930年(昭和五年)、3月

場所:ワシントンD.C. 日本大使館・裏口


 記者団や炊き出し目当ての失業者が去った後も、日本大使館の周囲には監視の目が光っていた。

 だがその空気は弛緩していた。「東郷は女装趣味がある」というゴシップのおかげで、彼らの警戒心は「危険人物」から「変人」へと格下げされていたからだ。


 そこへ一台の豪奢なリムジンと、数台の配送トラックが堂々と乗り付けた。

 リムジンのボンネットには、オランダ王室の紋章と国旗。

 トラックの側面には、『Royal Dutch Shell』のロゴ。


 FBI捜査官が慌てて駆け寄る。

「と、止まれ! 何の用だ!」


 リムジンの窓が開き、ファン・ロイエン大使が不機嫌そうに顔を出した。

「無礼な。見て分からんかね?

 我が国の女王陛下から、日本の天皇陛下への『親善の贈り物』をお届けに上がったのだ」


「お、贈り物ですか?」


「そうだ。チューリップの球根と、最高級のチーズだ。

 それと……先日、日本海軍が我が社のタンカーを購入してくれた礼として、シェルの役員が挨拶に来ている。

 ……通してもらっていいかね? それとも、貴官はオランダ王室とロイヤル・ダッチ・シェルを敵に回して、ガソリンを売ってもらえなくなってもいいのかね?」


 捜査官は縮み上がった。

 南米の油田を失ったとはいえ、シェルはアメリカ国内でも依然として巨大な力を持つ石油メジャーだ。そして外交特権には逆らえない。


「し、失礼しました! お通りください!」

 車列は堂々と日本大使館の敷地内に入った。


 ガレージのシャッターが下りる。

 その瞬間、大使館員たちの動きが疾風のように変わった。


 トラックの荷台から「チューリップの球根」と書かれた木箱が降ろされる。

 だが、その中身は空だった。


「……急げ! 時間がない!」

 副官の伊藤整一が指示を飛ばす。


 金庫室から運び出されたのは、15億ドル相当の有価証券、金保管証、そして高額紙幣の束が詰め込まれた、厳重なジュラルミンケースの山だ。

 それらが次々と、「チューリップ」や「チーズ」の箱の中に詰め替えられていく。


 その作業を、ファン・ロイエン大使と、東郷一成(橘小百合)が並んで見守っていた。

「……感謝します、大使」

 小百合は、東郷の声色を真似て低く言った。


「貴国の協力がなければ、この『爆弾』をレイクハーストまで運ぶのは骨でした」


「礼には及びません、マダム」

 大使は、ニヤリと笑った。


「これは、我々の『復讐』ですから。

 メロン長官は銀を売って我々の国庫を空にしました。スタンダードはシェルを乗っ取ろうとしました。

 ……ですから、我々が貴官の『アメリカからの資金逃避キャピタルフライト』を手伝うのは、当然の権利です」


 大使は、積み込まれていく箱を見つめた。

 この中に入っている15億ドル。それは元々、アメリカ人の金だ。

 だが今は日本海軍の所有物であり、そして巡り巡ってオランダとシェルを救うための「救命資金」なのだ。


「アメリカの金で、アメリカの敵(日本)が、アメリカの商売敵オランダを救う。

 ……実に痛快な喜劇ではありませんか」


「ええ。そしてこの喜劇のチケット代は、全てアメリカ持ちです」


 荷積みは完了した。

 東郷(小百合)と伊藤は、オランダ大使のリムジンを見送った。

 トラックには、外交行嚢ディプロマティック・ポーチの封印が施された「チューリップの木箱」が満載されている。


 一行は再びゲートを出た。

 FBI捜査官は、敬礼をして見送った。

 彼らは目の前を通過していくトラックの中に、アメリカの国家予算に匹敵する富が積まれているとは夢にも思わなかった。



 時:同日 深夜

場所:ニュージャージー州レイクハースト海軍航空基地・貴賓用待合室バルコニー


 大西洋からの寒風が吹き荒れるバルコニーで、南雲忠一大佐は震える手でマッチを擦った。

 背後には、係留塔に繋がれた全長236メートルにおよぶ銀色の巨鯨――ドイツの硬式飛行船『グラーフ・ツェッペリン(LZ127)』が、闇の中で不気味なほどの威圧感を放って浮かんでいる。


「……ふぅー」


 南雲は紫煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 この一服が終われば、そこから先は「火気厳禁」の世界だ。水素ガス満載の空飛ぶ爆弾の中で、大西洋を越える禁煙生活が始まる。


「あら、南雲大佐。……そんなに煙を吸い込んで、蒸気機関車の真似事ですの?」


 背後からかけられた声に、南雲はビクリと肩を震わせた。

 振り返ると、そこには豪奢な毛皮のコートを纏い、つば広の帽子を目深に被った「大柄な貴婦人」が立っていた。

 東郷一成である。


 その立ち姿は優雅だが、コートの下から滲み出る筋肉の圧力が、ドレスの縫い目を悲鳴と共にはち切れさせそうにしている。口調は完璧なソプラノ(裏声)だが、その響きには軍人らしい“剛”の気配が漂っていた。


「……勘弁してくれ、東郷。その『貴婦人』ごっこは」

 南雲は渋い顔で言った。

「周りに誰もいない時くらい、地声で喋れ」


「おほほ。壁に耳あり、空に目ありですわ」

 東郷は扇子で口元を隠しながら、南雲の横に並んだ。その眼光は鋭く、そして楽しげだ。


「……で、本題だ」

 南雲はタバコの灰を落とした。

「俺たちは今からまずスウェーデンへ飛び、イーヴァル・クルーガーとかいう全世界の三分の二のマッチを扱う山師の首根っこを押さえに行くわけだが……。

 正直、日本では無名な男だ。そいつが持つ会社――SKFだのエリクソンだのが、本当にそこまで価値があるのか?」


 東郷は扇子をパチリと閉じた。その音が、鉄扇のように重く響く。


「愚問ですわね、大佐」

 東郷の口調が、熱を帯びた。


「よろしいですか。戦争とは『破壊』ですが、それを支えるのは『回転』と『伝達』ですのよ」


 東郷は、コートのポケットから(なぜか持っていた)鋼鉄製のボールベアリング球を取り出し、指先で弄んだ。


「SKF。スウェーデン・ボールベアリング社。

 彼らが作る『自動調心玉軸受』の精度は、世界一。いえ、唯一無二ですわ。

 戦艦の主砲塔を旋回させるのも、魚雷のスクリューを回すのも、航空機のエンジンを唸らせるのも……すべてはこの『銀の玉』が摩擦を消し去ってくれるおかげ。


 ……もしSKFを我々が握れば、日本の兵器は滑らかに動き、敵の兵器は摩擦熱で焼き付く。これは『関節』を支配するということですわ」


「……なるほど。関節技か」


「次に、L.M.エリクソン。

 彼らは電話交換機と通信技術の巨人。つまり『神経』ですわ。

 広大な太平洋で艦隊を指揮するには、より高度な無線通信機の技術が不可欠。

 エリクソンの特許と技術者は、日本海軍の神経系を次世代へと進化させます」


「そして、グレンゲスベリ鉱山。

 これは『骨』です。スウェーデン鋼の源となる、世界最高品質の鉄鉱石。

 ……関節、神経、骨。これらを全てセットで手に入れる。

 それが、たった5,000万ドルの端金で叶うのですのよ?

 ……興奮で、コルセットが弾けそうですわ!」


 東郷は握りしめたベアリング球を、指の力だけでミシミシと軋ませた(ように南雲には見えた)。


「……分かった、分かったから落ち着け」

 南雲は引きつった笑いを浮かべた。

「だが、そのクルーガーという男、そんな優良企業を持っているなら、なぜたった5,000万ドルで泣きついてくる?」


「そこが、この男の面白いところですわ」

 東郷は笑みを浮かべた。


「彼は『マッチ王』と呼ばれていますが、その実態は『自転車操業の帝王』ですの。

 アメリカ人から金を集め、それを欧州の貧乏な政府に貸し付け、見返りにマッチの専売権を得る……。

 右から左へ金を回して、その回転だけで巨万の富を築いた錬金術師。


 ……ですが、私がアメリカ市場を『少しばかり』揺らしてしまったせいで、彼の自転車はチェーンが切れてしまった」


 東郷は、遠く大西洋の彼方を睨んだ。


「彼は今、ドイツ政府への5,000万ドルの支払いが夏に迫っています。払えなければ破産、そして詐欺罪で監獄行き。

 ……喉から手が出るほど『現金キャッシュ』が欲しい。

 担保に何を入れてでも、今すぐ生き延びたい。


 そこへ、我々が現れるのです。

 札束という暴力的なまでの『パワー』を持って、ね」


 東郷は、南雲に吸い殻入れを指差した。


「さあ、お行きなさい、南雲大佐。ツェッペリンの搭乗時刻ですわ」


 南雲は、短くなったタバコを揉み消した。

 最後に深く煙を吐き出す。


「……やれやれ。

 貴様のエスコート役なんぞ、戦艦に突撃するよりよっぽど骨が折れるぜ」


 二人は、係留塔へと歩き出した。

 巨大な飛行船の影が、二人を飲み込む。

 その巨大なゴンドラの下に、オランダ大使館の車列が到着する。


 ここでも、アメリカ側の警備兵が誰何すいかした。

「止まれ! 荷物の検査を……」


 ファン・ロイエン大使が、車の窓から叫んだ。

「ならん! これはオランダ王室から、ドイツのツェッペリン伯爵への直通の贈り物だ!

 外交特権による不可侵荷物である! 開封は国際法違反だぞ!」


 さらに、シェルの幹部が横から口を挟む。

「この飛行船の燃料ブラウガスを提供したのは誰だと思っている? 我々シェルだぞ。

 スポンサーの荷物を改める気か?」


 警備兵は狼狽し、上官に判断を仰いだ。だが上官も「オランダとドイツの外交問題にするな」と手を振った。

 アメリカ政府は今、国内の不況対策で手一杯で、これ以上の外交トラブルを避けたがっていたのだ。

 その隙に、木箱は次々とゴンドラへと積み込まれていった。



 時:翌日

場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官室


 一方、あるじのいない武官室は、深い静寂に包まれていた。

 窓のブラインドは下ろされ、薄暗い室内には、執務机に向かう人影が一つ。


 海軍の第二種軍装(白)に身を包んだ、小柄な人物。

 後ろ姿は、東郷一成そのものに見える。

 副官の伊藤整一中佐は、その人物の横顔を見ながら、複雑なため息をついた。


「……すまないな、小百合君。

 本来なら、私が影武者を務めるはずだったのだが……」

 伊藤は自分の腹周りと、東郷のスリムだが筋肉質な体型を見比べた。


 そして身長。東郷は当時の日本人にしては長身だが、伊藤は平均的だ。シルエットが違いすぎる。


 対して、椅子に座る橘小百合。

 彼女は当時の女性としては規格外の長身と、軍事訓練で鍛え上げられた無駄のない体躯を持っていた。

 肩パッドを入れ、シークレットブーツを履けば、座っている限り東郷一成と寸分違わぬシルエットになる。


「……問題ありません」

 小百合は、機械的で抑揚のない声で答えた。

 その瞳は、任務遂行に必要な情報以外をシャットアウトしているかのように、凪いでいる。


「任務内容を確認します。

 東郷大佐の不在を秘匿。

 外部からの面会は『体調不良』および『瞑想中』を理由に謝絶。

 緊急時の決裁は、伊藤中佐の指示に従い代筆」


「……ああ、完璧だ」

 伊藤は苦笑した。

「しかし、君も大変だな。陸軍の間諜として送り込まれたはずが、今や海軍軍人の影武者とは」


 小百合は、ペンを走らせる手を止めずに答えた。

「……所属は関係ありません。

 現在の私の任務は『東郷大佐の盾』。

 ……この部屋に侵入する敵性存在は、全て排除します」


 彼女は、机の下に隠したホルスターの感触を確かめた。

 その横顔はあまりにも美しく、そしてあまりにも無機質だった。


 コンコン。

 ドアがノックされる。新聞記者が、執拗に面会を求めてきているのだ。


「……伊藤中佐。敵影を確認。迎撃しますか?」

「いや、撃つなよ!? 断るだけだ!」


 小百合はゆっくりと椅子を回転させ、ドアの方へ背中を向けた。

 その背中は、無言の圧力(と詰め物)でドアの向こうの気配を圧倒した。


「……大佐は、お静かになさりたいそうです」

 伊藤が告げると、記者は「ひっ」と声を漏らして立ち去った。


「沈黙の東郷」の威光は、今日も保たれた。


「……対象、退去を確認。任務、続行します」

 小百合は再び書類に向き直った。

 その瞳の奥で、微かな感情の光が明滅する。


(……大佐。どうかご無事で。

 ……あなたが帰還する場所は、私が死守します)


 ワシントンの桜が咲く頃。

 鋼鉄の淑女と氷の影武者、二人の「東郷」による、史上最大の欺瞞作戦が進行していた。


いつもお読みいただきありがとうございます。


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ツェッペリン飛行船…爆発しないよね?
南雲さんはこの時には結婚して長男も居る なのに欧州に謎の美人と…奥さんに浮気を疑われない事を祈ろう
日本(神代の頃より数多くの勇者による先例あり、ついでに女装男子による伝統演劇まで)に比べると、成人男性が女装僻ありというのは欧米社会ではドン引きモノでは(汗、なお同性愛は犯罪行為) (ただし、男子を幼…
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